第二章 〜「せ」と「い」〜
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「なにかあったの?」
いつきに初めて話しかけた。僕だって話しかけたくて話しかけた訳じゃない。とにかくその日のいつきの顔はすごかったんだ。そして初めて目が合った。真っ黒の目が僕を飲み込むようで怖かった。本当に怖かった。心から怖いと思うのは、幽霊に合った時でもなく、怒られる時でもなく、悲しみや恐怖を抱えている人と接した時なんだって解った瞬間だった。
「た・・・ぎをわ・・・・」
「えっ・・・た、ぎ?なに?」
「・・・・体育着を忘れた」
まるで水滴のような、聴き取れない程の小さい声で、でも透き通る水のような綺麗な声だった。
「そ、そんなこと?いいじゃん見学すれば。それか誰かに持ってきてもらえばいいのに、運転手とかいないの?」
「僕は今まで、小学校に入学してから忘れ物をしたことがないんだ。連絡したら父さんに殺される・・・」
「そんなの僕なんかしょっちゅうだよ。父さんも母さんも笑って許してくれるでしょ」
「君は家での父さんを知らないんだ。どれだけ厳しいか・・・見学したってこと話題になるし僕はもうおしまいだ。もうおしまいなんだ、おしまいだよ」
そう言うと、いつきは宇宙のような、黒い瞳を僕から外した。その時、金縛りのような気持ちが溶けた。