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akiko(012-14) 4歳よりクラシック・ピアノを習い始め、絶対音感を身につける。8歳から英会話を習い始め、中学・高校と短期留学し英語を学ぶ。18歳より、サラ・ヴォーン、エラ・フィッツジェラルドなどを聴き、ジャズに開眼。大学在学中より、都内のライブハウスやジャズ・クラブでヴォーカル活動を始める。2001年、ユニバーサル ジャズと契約。6月アルバム『ガール・トーク』でヴァーヴ・レーベルよりデビュー。スイングジャーナル 誌選定<ゴールドディスク>に選ばれ、また、オリコンのジャズ・チャートにて1位を獲得。12月には、『ガール・トーク』が2001年のスイングジャーナル誌主催ジャズ・ディスク大賞<ニュー・スター賞>を受賞。
monty alexander quintet(011-04, 013-15, 013-24)
1944年生まれ、ジャマイカ出身。10代にしてオスカー・ピーターソンに後継者と指名されリーダーとしてデビュー。以来、強烈なテクニックと圧倒的な表現力を駆使し、ストレイトアヘッド・ジャズでも、レゲエでも、常にダイナミックな技量と底抜けの明るさで聴く者を魅了する。最高に華のあるピアニスト。
lorez alexandria(011-17)
1929年8月14日生まれ。ジャズボーカリスト。65年ダウン・ビート誌批評家投票で新人歌手部門一位。2001年5月22日、肝臓病により合併症を併発。ロスアンゼルスの病院で死去。享年71歳。
alive!(005-01)
ブラジリアン・ジャズを代表する女性グループ。
anarchic system(005-20)
vicki anderson(004-08)
james brownファミリーの歌姫の一人。
charly antolini(006-16)
1937年、スイス・チューリヒ生まれのドラマー。すぐに思い出すのはヤンシー・キョロシーの代表作『アイデンティフィケーション』のハードなドラミング。しかし,実のところ彼は南独放送ダンス・オーケストラやクルト・エデルマンのビッグ・バンドを始め欧州の楽団を渡り歩いた経歴が長い。1980年からわずか3年とはいえ,あのベニー・グッドマン五重奏団にも在籍した経歴の持ち主である。
georges arvanitas(009-04) フランス人ピアニスト。
isabelle aubret(002-15)
フレンチシンガー。bossa, brazilをフレンチに取り入れ、独特の世界を作る。
roy ayers(005-07, 010-09)
1940年9月10日、ロサンゼルス生まれ。
6歳の時に見たライオネル・ハンプトンのコンサートで、ハンプトンがお礼を言いに客席に降りてきた時、視線の先に興奮した姿で彼を一心に見つめる小さな男の子を見つける。
その時、ハンプトンがその小さな男の子(ロイ)にその後の彼の人生に置いて宝物となるものを渡した・・・木槌のセットだった。
その後、両親は彼が学校での勉強に熱心である事を確認すると共に、その合間を見つけてはピアノレッスンを与え始めた。その内に、彼は大きくなったらプロのミュージシャンになる事を決めるようになる。
ロスの公立学校で音楽を学び、17歳までに教会でコーラスをしたり、ピアノを弾いたり、スチールギターを学んだりした。そして、遂に待ちに待ったバイブのセットを両親が購入してくれたのである。
その後、バイブプレイヤーであるボビー・ハッチャーソンと出会い、定期的にお互いが発案したノートを比べあって高めあって行く。
1958年にはハーモニーを学ぶ為にジェファーソン高校へ行き、そこで始めてのバンドを組む。
更に2年後、音楽のセオリーを学ぶ為、ロサンゼルスシティー大学へ転入する。
21歳になった1961年には、早くも「プロ・ミュージシャン」として技術も知識も手に入れたミュージシャンとなり、その後の音楽活動の可能性が大きく広がる。
1964年にファースト・アルバム「ウェスト・コースト・ヴァイヴス」をリリースして以来、次々と著名なアーティストとの共演を果たし名声を得る。
1971年には彼自身のバンド“ubiquity”を結成し、ファンクやr&bのスタイルをジャズにミックスしたジャズファンク人気の確立にも貢献。
ロイ・エアーズの人気は地元ロサンゼルスで絶大で、1986年には当時の市長、ブラッドリーが4月6日を「ロイ・エアーズ・デイ」と制定したほど。
1993年に来日し、クラブシーンで一躍注目を集めたレア・グルーブの第一人者が世紀をまたいで遂に来日する。
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mello cads(012-16) デヴィッド・ポナックがホストバンド。90年代後半からl.a.のラウンジ/ソフト・ポップシーンで活躍。
terry callier(011-11)
1941年、アメリカ・イリノイ州シカゴ生まれ。3歳で母親からピアノの手ほどきを受けるなど恵まれた音楽環境に囲まれ、9歳になる頃にはクラシックの基本を習得。すぐに作曲にも目覚め、高校ではジャズやポピュラー音楽に傾倒し、ボーカル・グループで演奏した。大学に入り本格的にギターを始めてシカゴのクラブで歌ううち、音楽に熱を上げるあまり大学を中退。フォーク・ブームが始まった'60年代初頭、そこにジャズやブルースのテイストを通い合わせる斬新な試みを続けた。64年になるとその成果が実り、デビュー。シンガー・ソング・ライターとして活動する一方、作曲者としてシカゴのレコード・レーベルと契約。'70年代に入ると、ボーカル・グループのために書いた作品をヒットさせるなどして新路を開いた。80年代は音楽界を引退し、コンピューター・プログラマーとしてシカゴ大学に勤務するなどの転身を強いられてもいる。しかし、'90年にマイナー・レーベルから出したシングルが英国で支持されることで再評価、再認識の気運が高まり、'93年から第一線に復帰。
debbie cameron(007-19)
bruno canfora(009-23)
carleen and the groovers(003-17)
69年、ジェームス・ブラウンのタイトなファンクに影響を受けて結成したファンクバンド。「jazzman」レーベルより。
carpenters(008-24)
アメリカ、コネティカット州ニュー・ヘイヴンで1946年10月15日に生まれたリチャードと1950年3月2日に生まれたカレンの兄妹デュオ。
音楽好きな両親のもと、兄リチャードは9歳からピアノのレッスンをスタートした。一家は1963年にカリフォルニア州ダウニーに移り住んだ。64年リチャード、カリフォルニア州立大学ロング・ビーチ校音楽専攻入学しコーラス部に加入。同年カレン、ドラムを始める。65年カレン、独立系レコード会社「マジック・ランプ」と契約。リチャード(pf)、大学の級友ウェス・ジェイコブス(b)、カレン(dr)の3人でリチャード・カーペンター・トリオ結成。66年リチャード・カーペンター・トリオ、ハリウッド・ボウルの「バトル・オブ・ザ・バンド」(コンテスト)に参加し最高点で優勝。同年カレン、マジック・ランプよりソロ・デビュー。「バトル・オブ・ザ・バンド」を見にきていたrcaのa&rニーリー・ブラムに認められ契約したが重役会でデモ・テープを酷評され契約解除。同年リチャード、長年のソング・ライティング・パートナーとなるジョン・ベティスと出会う。67年学友のダニー・ウッダムズ、ゲイリー・シムズ、リチャード、カレン、ジョンで「サマーチャイムズ」結成。その後レスリー・ジョンストンが加わり「スペクトラム」と改名。「ウィスキー・ア・ゴー・ゴー」等に出演。デモ・テープを作成しレコード会社をまわったが一社も受け入れてくれず「スペクトラム」は68年に解散、リチャードとカレンは二人で活動していくことを決意。69年デモ・テープがa&mレコードの創設者ハーブ・アルパートの耳に止まり11月に「涙の乗車券」でシングル・デビュー。全米no.1を記録したのは「遥かなる影」「トップ・オブ・ワールド」「プリーズ・ミスター・ポストマン」の3曲。70年代前半を怒涛の如く走りぬけた二入だったが70年代中盤以降トップ10ヒットに恵まれなくなった。カレンも体調を崩しがちになっていたがこの頃はまだ誰も「拒食症」に犯されているとは気づいていなかった。その後異変に気づいた家族の薦めで治療を始め80年には結婚し回復に向かっているかに見えたカレンだったが、83年2月4日ダウニーの自宅で心臓発作で倒れ帰らぬ人となった。32歳という若さだった。
daniela casa(009-03)
juca chaves(012-08)
the chordettes(002-07)
タレントスカウトのオーディション番組で優勝して、同番組のレギュラーを続けていたが、この番組のオーケストラ指揮者であるアーチー・ブライヤーがケイデンスレコードを設立することとなり、同レーベルの専属アーティストとして契約。その後、アーチーはメンバーのジャネット・アーテルとも結婚。
1955年に出したデビュー曲「true love goes on and on」は売れなかったが、「mr. sandman」が見事1位を記録。その後もヒットを続け63年に解散。
ciabatta & paletta(003-08)
cipo & his authentic rhythm group(014-21)
maccaroni circus feat. marco orea malia'(010-04)
claude ciari and batucada seven(006-22)
フランス生まれ、日本在住の アコースティック・ギタリスト。
sonny clark(013-25)
claudia(005-19)
nicola conte(014-12)
cool drive makers(010-24, 014-08) アメリカ留学中にボーカルのネモ、ベースのヤマが知り合い、バンド結成を決意。 1996年キーボードのダイスケ、ドラムのユウシが加わり、 cool drive makersを結成、1998年にメジャーデビュー。 現在は、makersを取り、cool driveとして活躍中。
copa 7(013-08)
chick corea(007-01)
1941年6月12日、マサチューセッツ州チェルシーの生まれ。ジャズ・トランペット奏者の父親のもと、6歳からピアノのレッスンを開始。ドラムスやマリンバもプレイした。1960年代初頭からプロ活動を始めると、モンゴ・サンタマリアやハービー・マンらのバンドで演奏。'67年にスタン・ゲッツ・グループに参加することで頭角を現した。'68年からマイルス・デイビス・グループに加わる一方で、ピアノ・トリオによる傑作『ナウ・ヒー・シングス・ナウ・ヒー・ソブズ』を録音。'72年に旗揚げした“リターン・トゥ・フォーエバー(rtf)”の活動にも力を注ぎ、'75年のアルバム『ノー・ミステリー』でグラミー賞を初受賞。rtf解散後は、ハービー・ハンコックやゲイリー・バートンとのデュオ・ツアーのほか、キース・ジャレットとも共演。'85年末には若手メンバーを従え、“エレクトリック・バンド”を結成してrtfの音楽コンセプトを深化させ、グループを母体にしたアコースティック・トリオでは、スタンダード曲に新風を吹き込み高い評価に包まれた。以来'90年代も、ピアノ・ソロによる初のスタンダード集『星影のステラ』、スペシャル・プロ ジェクトで巨星を偲んだ『バド・パウエルの追想』、ゲイリー・バートンとのデュエットによる『ネイティブ・センス』などの力作を続々とリリース。
cortex(007-22, 010-05, 010-16)
フランスのバンド。1974年 alain mion が結成。翌1975年、"troupeau bleu"でアルバム・デビュー。alain は19歳でパリの blue note club でデビューした経験を持つ辣腕のジャズ・ミュージシャンだった。以降、1978年までに3枚のアルバムと数枚のシングルをリリース。同時にライブ活動もヨーロッパを中心にかなりの数をこなした。cortex は1980年初頭に解散したが、alain は2001年の現在まで現役のミュージシャン、アレンジャー、コンポーザーとして活躍。スイスやモロッコなど世界各国のジャズ・フェスティヴァルに自身のバンドを率いて参加している。
dave "baby" cortez(008-18)
vladimir cosma(002-12)
フランスの映画音楽家。アントワーヌ・デュアメル(気狂いピエロ、ウィークエンドなど)や、クロード・ボリンらと並び、フランス映画音楽に新風を吹き込んだ作曲家ウラジミール・コスマ。フランス喜劇界の名監督イヴ・ロベール監督のぐうたらバンザイ(1967年)をきっかけにコメディー作品で素晴らしいスコアを描き、以後コメディのみならず、あらゆるジャンルの作品をこなす多彩なサウンド・メイカーとして、本国フランスは勿論、世界的に高い評価を受けているアーティスト。ライブラリー音源として、数々の作品が残されている。
julee cruise(007-04)
ノルウェー出身。映画「ツイン・ピークス」オリジナルサウンドトラックのボーカリストで有名。
frank cunimondo trio(009-15) アメリカはピッツバーグを中心に70年代、 ジャズ・クラブやホテルのラウンジで活躍していたピアノ・トリオ。
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lennie dale and sambalanco trio(006-03)
bruno battisti d'amario(006-13)
イタリア出身のギタリスト。
dancer's inferno(006-25)
blossom dearie(002-08, 005-12)
1924年、オハイオ州・シンシナシティ出身。ウッディ・ハーマン楽団、アルヴィノ・レイ楽団のコーラスグループからキャリアスタート。
1948年 バディ・スチュワートと組んでいたバップ・コーラス・グループの初吹込み。
その後、ブルー・スターズ(コーラスグループ。クリスチャンヌ・ルグランらと結成)での活躍を経て
1956年 グランツのもとでヴァーブ初吹込み。
1973年 音楽出版会社を設立
現在nyで活躍中。"wispy, little-girlish" voiceの持ち主。
dee dee bridgewater(010-23, 011-06)
16歳で活動を開始、72〜74年にサド・ジョーンズ=メル・ルイス・オーケストラで活躍するが、ジャズ・ヴォーカリストには冬の時代(フュージョン最盛)が訪れ、シーンを離れていた時期もあった。しかし、その逆境を芸のコヤシにすべく、ブラック・コンテンポラリー・アルバムのリリースや、ブロードウェイ・ミュージカルへの出演(74年の『ザ・ウィズ』ではトニー賞受賞)などを重ね、一般ピープルにも訴えかけるエンターテインメント性に磨きをかける。そして86年の『ライヴ・イン・パリ』で、グレード・アップしてジャズに復帰した。
90年代に入り、サラ・ヴォーン/エラ・フィッツジェラルド/カーメン・マクレエという三大女性ヴォーカリストが次々と他界する中、目を見張る活躍でその穴を埋めてきたディー・ディー。97年のエラ追悼アルバム『ディア・エラ』ではグラミー賞も受賞した。
dee felice trio(003-20)
ジェームス・ブラウンのバックバンドだったというdee felice trio。. 太くてカッコいいベースと、アグレッシブに弾くピアノがとても印象的なピアノトリオによるソウルジャズ&ブラジル&ファンク的な音をつくる。
deep sensation(007-09)
paul hunterという人の別名義。ジャンル的にはディープハウスの人。
elaine delmar(009-22)
西インド諸島系のイギリス人ジャズシンガー。
dimenzio(004-02)
ハンガリーの男性4人組。ジャズ/ブラジリアンフュージョン。
klaus doldinger (011-05)
1936年5月12日、ドイツ・ベルリン生まれ。サックス奏者。70年代以降は映画音楽家としても知られている。元々はオーソドックスなジャズを演奏していたが、74年に自身のバンド=パスポートを率いて来日した時はフュージョン奏者に変身。
joao donato(006-18)
1934年、ブラジル中西部、アマゾン川上流域のアクレ州生まれ。少年時代にリオに移り音楽活動を続け、ボサノバが創生の兆しを見せる前から革新的な方法を推進。ジョアン・ジルベルトなど優れた仲間の知遇を得ながらも、先進的過ぎたスタイルが理解されず、エルゼッチ・カルドーゾとのメキシコ公演を機に'59年に渡米。'70年代はじめに帰国するまで、カル・ジェイダー、モンゴ・サンタマリア、ティト・プエンテなどジャズやラテン系のミュージャンと共演を続けた。作曲家として演奏家として、今も最重要人物のひとりなのにボサノバの文脈に張り付かないのは、ブームの渦中をアメリカで過ごしたため。しかし、母国に帰り'73年に作た『ケン・エ・ケン(紳士録)』(東芝emi)で歌も唄うと、作曲家としての評価も確立。インストゥルメンタルとして書かれた作品に歌詞が付けられ、ガル・コスタ、カエターノ・ベローゾ、ジルベルト・ジルなど多くの人気歌手がカバーしていくことになる。さらに、同胞の後輩エウミール・デオダートと組んだ『ドナート/デオダード』(ソニー・ミュージックエンタテインメント)をはじめとする冒険的な作品でも、異才を輝かせて見せた。日本で改めてその名が響いたのは、ドナートのソングブックと呼べる小野リサの'94年作品『サウダージ』(bmgファンハウス)で。ピアニストとしてもレコーディングに客演し、素朴な言葉の奥に深い世界を創るプレイで、サウダージの醍醐味に迫った。ジョイスとの共演最新作は『トゥド・ボニート』(インパートメ ント)。
doopees(002-09)
日本が誇るポップの奇人ヤン富田が作った謎のプロジェクト。ボーカルはキャロライン・ノヴァク(当時15歳)。
johnny dorelli(002-14)
イタリア生まれのボーカリスト。
kenny dorham(007-10)
ケニー・ドーハム(tp)1924年8月30日テキサス州フェアフィールド生まれ。
1948年〜1950年はチャーリー・パーカーのグループに参加。50年代前半はフリーで活動。55年ジャズ・メッセンジャーズの創立メンバーとして参加。56年からjrモントローズとジャズ・プロフェッツというグループを結成。短期間で活動は終止符を打つ。次にマックス・ローチのグループに58年まで参加。ついでジャッキー・マクリーンと組んで活動する。60年代はブルーノートにアルバムを吹き込む。テナーのジョー・ヘンダーソンを登用。彼のブルーノートデビューに力を貸す。その後はフリーで活動。1972年12月5日nyで死去。
doris(011-07)
george duke(005-06)
キーボード奏者。 1946年1月12日カリフォルニア州サンラファエル生まれ。 キャノンボール・アダレイのグループ加入後、2年後の1973年に独立。 代表作に「reach for it」、「don’t let go」 等。
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georgie fame(012-12)
lorraine feather(004-07, 010-02)
有名なジャズの作詞家レナード・フェザーを父に持つ。フル・スウィングのメンバーとして知られる。ソロでの活動期間もあり。ソウルとジャズを交えたオシャレなアダルト・ポップ。
victor feldman(003-12)
1934年、ロンドン生まれ。6歳でドラマーとなり、7歳でプロフェッショナルになり、9歳でピアノを、14歳でビブラフォンを習得したという信じられない経歴の持ち主。イギリスでは神童ドラマーとして知られていた。1955年、21歳の時アメリカに上陸。
ウッディー・ハーマンのバンドに参加したり、一時期イギリスに帰ったりの後、1957年にl.a.に住みつきコンテンポラリーで数々のセッションワークをこなすようになる。そして名門クラブ“ライトハウス”のレギュラーになり、そのすぐ後にスコット・ラファロとスタン・レヴィーと出会ってトリオ結成。彼ほどの器用でマルチなタレントはどのセッションでも引っ張りだこだったと想えますが、彼の経歴の中で一番重要だと想えるのは、意外にもイギリス時代ブリッティッシュ・モダン・ジャズ・シーンのリーダー的存在だったテナー奏者ロニー・スコットのバンドに参加していたことでしょう。
1970年から80年にかけてはアメリカを代表する“ファースト・コール”スタジオ・ミュージシャンとして、スティーリ・ダンを始め数々のレコーディングで大活躍する。しかし残念なことに1987年、53歳という音楽家としてはますます円熟味が増すだろうという歳で他界する。
jose feliciano(005-14)
1945年、プエルト・リコ生まれ,ny育ちの盲目の天才シンガー/ギタリスト。子供の頃から傑出した才能を見せており、19歳でのデビューの前から地元の音楽シーンでは活躍していた。64年のデビュー作リリース後、スペイン語のアルバムを数枚はさみ、その後ドアーズの"light my fire"のカヴァーでスターとしての地位を築く。 耳触りのいいヴォーカルとギター・プレイでロック/ポップス〜ラテン・ジャズを演奏し、グラミー賞を幾度も受賞している。 80年代からは目立った活動は減っていきリリース間隔も伸びているが、最近、スティーヴィー・ワンダーのカヴァー"golden lady"(74年録音)がクラブ・シーンで再評価され、再び注目を集めた。
nino ferrer(009-13, 012-05)
gianni ferrio(008-09, 014-18)
fertile ground(008-06)
メンバーは、james collins(musical director, key),navasha daya boxley(vo),fred dunn(tp),craig alston(sax),marcus asante(ds),mamadi nyasuma(per)の6人。アメリカメリーランド州ボルティモア出身。1997年グループ結成。ジャズ、ブルース、ファンクなどを基盤に、アフロ・キューバンやラテンなどを加えた音楽を創作する。デビュー間もない1998年に「最優秀r&bバンド賞を獲得。」リード・シンガーのナバシャ・ダーヤは、「ビリー・ホリデイ・ボーカル・コンペティション」の優勝者。
ella fitzgerald(005-13, 011-14)
1918年4月25日、ヴァージニア州 ニューポート・ニューズの生まれ。chick webb 楽団の専属歌手として,1938年に録音した 《a tisket, a tasket》 が大ヒット。1948年には,jatp に参加。
sarah vaughn,carmen mcrae らとともに,ジャズ・ボーカルの第一人者として君臨していたが,1996年6月15日,カリフォルニアのビバリーヒルズで死去。
flabby feat. carla boni(010-25)
tennessee ernie ford(013-17)
connie francis(011-03)
1936年米国ニュージャージー州生まれ。55年レコード・デビュー。ラテン、カントリー、映画音楽、スタンダードなどの多彩なレパートリーと、独・伊・日・スペイン語など英語以外でも歌い国際的な人気を集めた女性ポップ歌手。58年〜60年代半ばに、センチメンタルでハスキーな歌声がファンを魅了。
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herbie hancock(010-01, 010-07)
1940年4月12日イリノイ州シカゴ生まれのピアニスト。7歳でピアノを始め、11歳でシカゴ交響楽団と共演して神童ぶりを発揮。60年にドナルド・バードとペッパー・アダムスのコンボに参加し初のレコーディングを果たす。63年からマイルス・デイヴィスのコンボに5年間在籍し、マイルスの活動に大きな役割を果たす。70年代に入ってフレディ・ハバード、トニー・ウィリアムス、ロン・カーター、ウェイン・ショーターらとv.s.o.p.を結成し大きな成功と評価を得る。現在はオーソドックスな演奏からコンピューターを駆使したサウンドまで、ジャズ・シーンのリーダー的存在として幅広く活動を続けている。
har-you percussion group(008-07)
n.y.ハーレムの若者15人によるラテン・ファンク・バンド。
jon hendricks(010-03) 1921年9月16日オハイオ州ニューアーク生まれ。52年にニューヨークで作詞家として活動を開始。ルイ・ジョーダンが歌った「恋人になっておくれ」で注目される。その後ウディ・ハーマン楽団の「フォー・ブラザーズ」のボーカリーズ・バージョンで人気を集め、85年にランバート,ヘンドリックス&ベバン(ロス)を結成。カウント・ベイシー楽団との共演などで絶賛される。70年代後半にマンハッタン・トランスファーのためにボーカリーズを提供する。これ以降マンハッタン・トランスファーの育ての親として、またヴォーカルのエディー・ジェファーソンなどが開拓したボーカリーズ手法をジャズ・ボーカル界で確立した。ヴォーカル界の重要人物として注目され続けて、現在に至っている。
michele hendrics(009-24)
woody herman(004-14)
1913年5月16日ウィスコンシン州ミルウォーキーに生まれる。33年に自身のバンドの運営に失敗しアイシャムジョーンズ楽団に参加。36年同楽団を解散後、その主要メンバーを集めて自身のバンドを結成。その後バンドにチャビー・ジャクソンらが加わり、ファースト・ハードが形成され全盛時代を築いた。47〜49年はフォア・ブラザーズ・バンドを結成しスタン・ゲッツ、ズート・シムズらを迎えて大きな注目と評価を得る。50年代末にはスインギン・ハードを率いて活躍し76年にバンド結成40周年記念コンサートを開き、以後コンテンポラリーな要素も取り入れて好評を得た。1987年10月29日心臓病のため、ロサンゼルス郊外ハリウッドのジタス・サイナイ病院で死去。
gillian hills(011-22)
1946年6月5日にエジプト・カイロ生まれ。両親は英国人。59年に映画女優としてデビュー。歌手としては翌年の60年最初のシングルをリリース。63年あたりから作詞・作曲も手がけるようになる。france gallそっくりのフレンチポップシンガーだが、実はギャルよりデビューは早い。
日野皓正(012-09) 1942年10月25日生まれ。ジャズトランペッター。9歳の頃からトランペットを習い始め、13歳の頃には米軍キャンプのダンスバンドで活動を始める。1964年、白木秀雄クインテットに参加し、1965年ベルリンジャズフェスティバルに出演し喝采を浴びる。1989年、ジャズの名門レーベル“ブルーノート”と日本人初の契約アーティストとなる。現在大阪音楽大学客員教授として後進の指導にもあたっている。
louis hjulmand (007-06)
デンマーク出身。
karl berger-dave holland -ed blackwell
karl berger-dave holland -ed blackwell(013-20)
honey-comb(004-06)
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i gres(002-25)
inner vision(008-01)
1999年カリフォルニア州立大学フラトン校にて二人のアメリカ人と二人のベトナム人によって結成。ギターカルテットとして活動を行う。その後メンバーチェンジを繰り返し、現在はgina bandy(vo), dat nguyen(g), chris payne(b), mehrdad saatara(g)and adam reesman(dr)の5人で「bayadera」とバンド名を変え西海岸を中心に活躍中。dat nguyenは盲目ギタリスト。
italian secret service(003-07, 010-20)
サックス、フルート、クラリネット奏者のdario cecchiniとkeyboard、rhodes奏者のleonardo pieriの二人組。
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brian jackson(002-02)
milt jackson(008-28)
1923年1月1日ミシガン州デトロイト生まれ。バイブラフォンをジャズのフォーマットで活用した開祖的存在。ブルージーなスウィング・フィーリングあふれる演奏スタイルで、ジャズ・バイブの代表格となった。1945年からニューヨークで活動を始め、ディジー・ガレスピー楽団に所属する1951年に、ジョン・ルイスらとmjqの母胎となるカルテットを結成。1955年から本格的な活動を始めた。
jongo trio(005-16)
ピアノ、ベース、ドラム、そしてそれぞれがボーカル〜コーラスもとるブラジルのジャズ・ボッサ・トリオ。
jasmin(004-19)
幼少時代よりホームタウンのphiladelphiaでgospelシンガー/ピアニストとして育った彼女は、80年代後半temple大学作曲家在籍中よりギタリストのphilippe pettitのヨーロッパツアーに参加し速くもその頭角を現し、92年にはbest jazz vocalショウ(jazz philadelphia magazine主催)を獲得する、90年後半よりafro-centric jazz コンセプトを足掛かりにニューヨークはハーレムに移り、パーカッションとベースのみをバックに歌う特異なアンサンブルを展開、マンハッタンの有名クラブ、nuyorican poets cafe, wetlands, triadsなどでのライブ活動を通じ、その才能を着実に開花させていった。2000年にはmtv、vh-1と並ぶ3大音楽専門ケーブルネットワーク、bet(black entertainment channel)にてニューフェイスとして紹介され、,001年はそのjazz discoveryシリーズのファイナリストに選出される。現在はベーシスト/プロデューサーの nob kinukawaと共に、バンド"jasmin"のポエトリーリーダー/ボーカルとして活動中。
jazzanova(001-01)
クラブ・ジャズ・シーンにあらわれたベルリンの6人組dj&プロデュース・チーム、ジャザノヴァ。50'sジャズからラテン、ドラムンベースに至る斬新なサウンドを、時代やジャンルを問わずに優美なミックス・テクニックで繋ぎ合わせ、縦横無尽にクロスオーバー。ディープ・ジャズからアップ・テンポのサンバまで、モダン・ビートを徹底的に追求した幅広く洗練されたサウンドを放つ。
その評判は瞬く間に世界中のクラブ・ミュージック・シーンを駆け抜け、これまでにロイ・デイヴィスjr、ufo、4hero、イアン・プーリーといったトップ・アーティストたちのリミックスを手掛けた。さらに、エクステンデッド・スピリット、kosmaといった名義でも作品を発表している。
jazztronik
(014-11)
eddie jefferson(012-06) 1918年、アメリカピッツバーグ生まれ。ヴォーカリーズ(ソロ演奏をアドリブに歌詞をつけて楽器のごとく歌ってしまう)の創始者としてしられる。もともとはタップダンサーで、1940年代になってから歌と作詞に着手する。1979年没。
rickie lee jones(005-18)
1954年11月8日生、イリノイ州chicago出身。家庭の都合等もあり住む場所を転々としたが、1970年代なかばにlos angelesに移動。ウェイトレスの仕事をしながら地元のクラブで歌う日々を過ごす。この頃はtom waitsの恋人であったと言われている。1978年に、彼女の作曲した"easy money"が元little featのlowell georgeの目に止まり、彼のアルバムに収められた。その後warner brothersに届けられたデモテープを聞いたlenny waronkerが共同プロデューサであるruss titlemanと一緒に組み、1979年に"rickie lee jones"でデビュー、同年のグラミー最優秀新人賞を獲得した。1980年なかばから後半にかけてアルコール依存などもあり、活動が滞ったりもしたが、1989年の"flying cowboys"以降はコンスタントにアルバムを発表している。
quincy jones(010-10)
1933年5月米国シカゴ生まれ。トランペット奏者としてプロ活動を開始するが、プロデューサー/編曲家として成功する。60年代はジャズ・オーケストラ作品、70年代に入るとフュージョン・アルバムで次々にヒットを連発。さらに、マイケル・ジャクソンの『スリラー』をはじめ幅広くブラック・ミュージックをプロデュースするようになり、多忙をきわめて“大統領の次に忙しい男”と呼ばれた。最強のトレンド&ヒット・メイカー。
ronny jordan(001-03)
1962年北ロンドン生まれ両親はジャマイカ出身で、父が牧師をしていた関係で幼い頃ころから
ゴスペルに親しんでいた。 4歳からギタ−を弾き始め、10歳後半にジャズ・ギタ−の
巨匠ウェス・モンゴメリ−の表現方法を知り、ジャズ・ギタリストへの道を志す。
いろいろなスタイルを研究しジャズ・ギタ−とクラブ・ビ−トを巧みに融合させる方法で
デモ・テ−プを作っていた、 その斬新なアイディアがアイランド・レコ−ドに認められて
1992年「the antidote」でデビュ−を果たす。
アイランド・レコ−ドでは、1stから3rdまでで、最新作「a brighter day」からは
念願のブル−・ノ−トと契約して、入魂のアルバムとなっています。
ロニ−の音楽はとにかくサウンドのアイディアがずば抜けて新鮮で、 ギタ−・プレイは
きわめて正統派であり、そのミックス加減が彼のスタイルになっている点にあると思います。
joyce(002-22, 003-14)
1948年、リオデジャネイロ生まれのカリオカ、コパカバーナ育ち。
5ヶ国語を操る才女。 頭の回転も早く、フェミニズムの視点に立った歌詞も鋭く、ハード・ボッサという言葉がピッタリなサウンドもシャープ。
1968年、若干20歳にしてデビューアルバムを発表。 軍事政権と戦いながらしばらく活動を続け、結婚後、70年代前半は家庭にこもっていたが、やはり音楽家の血が騒ぐ。 76年、かのヴィニシウス・ヂ・モライスに誘われ、南米、ヨーロッパとツアーに出る。 79年にはエリス・レジーナがジョイスの 「或る女」 を歌い(、ジョイスは作家としても注目を集めることに。 翌80年に発表したアルバム、「フェミニーナ」 が大ヒット、一気にジョイスの知名度が上がることになる。 ジョイスのただ者でないところは、その後、レコード会社に振り回されるのを嫌い、自主レーベルからアルバムを発表したりしているところである。 いまだにひとつの大手レーベルにどっぷりということがない。 自分の作りたいアルバムを必要なところから出すという態度を貫いている。
ジョイスの音楽は、デビュー以来一貫している。 自らの弾くヴィオランを中心とした、アコースティックな音楽である。 しかし、そのリズムが独特で、シンプル&スピーディで、ちょっと聴くだけでジョイス と分かるオリジナリティを持っている。 ルーツ的にはトム・ジョビンやルイス・エサを敬愛していたというからボサノヴァだけれど、mpb世代共通のビートルズ体験などの影響で、独自の音楽が花開くのである。
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m
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madlib(014-02) 本名はOtis Jackson Jr.。Lootpackのメンバーとしての活動の他にQuasimoto, Yesterdays New Quintet, DJ Relsなど様々な名義で活動するヒップホップ・アーティスト。ヒップホップ・トラックを作り、ラップもすれば、生楽器を弾いてジャズまで作り上げる。とにかく多作なことで知られる。ちなみに父親は元R&Bのシンガー。叔父はトランペッターのジョン・ファディス。弟はヒップホップ・プロデューサーのOh No。
mandingo(003-22)
manhattan jazz quintet(009-10) 日本で企画されたjazzコンボ。メンバーは、david matthews(p)lew soloff(tp)george young(ts)が核。
keith mansfield(003-06, 004-03)
ライブラリー・ レーベル kpm で有名。
man sueto(011-15)
ファブリッツオ・シロッティ、ピエルイジ・シンゴッティ、ロバルト・ロッシの三人組からなるirmaのアシッド・ジャズ・グループ。ファンキーなヴォーカルとエレビのグルーヴが持ち味だが、どことなくukネオ・アコ風味を感じさせたりもする。「アシッド・ジャズ」青春派、イタリア版といったところ。
marc 4(006-19)
イタリアサントラ巨匠アルモンドトロヴァヨーリなどのスコアを一手にプレイしていた名グループ。ハモンドオルガンをたっぷりきかせたgroovyでオシャレなイタリアンサントラ、ラウンジ。アタックの強いベース・ドラムが気持ちの良いグルーヴを生み出す。
mardi gras. bb(014-20)
tania maria(005-15, 006-26, 007-18, 010-19)
1948年ブラジル生 まれの tania mariaは、7歳よりクラッシックを学び、10代で既にレコーディ ングを経験。そして、74年にパリに移り住み、フランスのレーベル「barclay」と契約しレコーディング。81年にはジャズ・ギタリストのチャーリー・バードの誘いでアメリカへ渡し、「piquant」でメジャーデビュー。
ボサノヴァの誕生から衰退までを10代の時に間近で見ていながら、ジョビンやジョアンではなく、オスカーピー・ターソンに最も影響を受けたというタニア・マリア。いわゆるジャズサンバ派の演奏と聴きくらべても彼女の方がダイレクトにジャズ寄りなアプローチをしていることは明らかで、その辺が「ブラジル音楽の演奏家」ではなく「ブラジル出身のジャズピアニスト/シンガー」として名が通っている所以。
augusto marielli(011-02)
cesar camargo mariano(006-05)
1943 年生まれ。幼少からピアノを学び、卒業後は bill evans 等のジャズ・スタイルを研究する。'60 年代に airto moreira らと結 成したサンバランソ・トリオ等で活躍。あのエリス・ヘジーナと結婚してそのプロデュースに忙しかったが、離婚後はソロでの活動も多い。
marita(008-11)
jayme marques(009-21)
esther marrow(005-09)
若い頃から成功を収めたゴスペルシンガー。60年代にはデューク・エリントン、エラ・フィッツジェラルド、レイ・チャールズ、セロニアス・モンクと20世紀を代表するアーチストと共演している。
さらにマーチン・ルーサー・キングの world crusade にも参加した。その後、長いスランプに陥るが、90年代に harlem gospel singers を結成して不死鳥のように舞台に返り咲いた。
ana mazotti(008-03)
もともとスタジオ・ミュージシャンの集まりだった、というアジムスが、アジムスとしてデビューする前にサポートメンバーとして参加したらしい。アナ・マゾッティ。声はかわいい系に属するか。
letta mbulu(003-05)
アフリカ出身の女性ボーカリスト。
jerzy milian(007-05)
ポーランド出身のヴィブラフォン奏者。
carmen miranda(002-21)
1909年2月9日、
ポルトガルのマルコ・ジ・カナヴェーゼス生まれ。
1歳の時にブラジルに移住。
父親の反対もあって当初デパートの店員をしていたが、1928年ギター奏者として知られていたジョズエ・ジ・バロスに認められ、プロ歌手になる夢を掴む。1930年「タイー」が大ヒット。以後、数多くのヒット曲を作り、多くのファンから愛された。1936年、ブラジル最初の有声映画「アロー・アロー・カルナヴァル」に出演、挿入歌も歌ったことから彼女の人気は確固たるものとなる。
19387年にアルゼンチンのブエノスアイレス公演が成功。翌年、アメリカのプロモーターに口説かれて渡米、ミュージカルや映画に出演した。妖艶な雰囲気と歌が受け入れられ、世界中にファンを作る事となる。1945年に映画プロデューサーのダヴィッド・セバスチャンと結婚するが、翌年の8月5日、tv映画撮影中に心臓発作で急死した。
ブラジル音楽を始めて世界に広げたことでも有名である。また、彼女のバックバンド、「バンド・ダ・ルア」のメンバーにはガロートやアロイージオ・ジ・オリヴェーラといったアーティストが在籍していた。
ブラジリアン・ボムシェル(ブラジルの爆弾娘)というニックネームを持つ。
joni mitchell
(014-06)
lou monte(002-04)
1917年生まれ、ニュージャージーの出身。
marisa monte(011-09)
1967年7月1日、ブラジル・リオデジャネイロ市生まれ。82年(18才)の時、映画topclipのサウンド・トラックの一曲、サバド・ア・ノイテsabado a noite(サタデー・ナイト)で静かなデビューを果たす。すぐ後にリリック音楽を習いたいとイタリア留学したが、やはりブラジル音楽が自分の道だと悟って帰国した。本格始動をはじめたマリーザはプロデューサーnelson mottaと出会い、さまざまな音楽スタイルをミックスしたツアーを開始した。これが成功し、89年にemiレコードからアルバム、エム・エムmmを発表し、その中の一曲ベン・キ・シ・キスbem que se quisが大ヒットした。
montefiori cocktail(001-05, 011-12)
federico montefiori(キーボード、打ち込み)francesco montefiori(サックス、フルート、ボーカル)、イタリアのラウンジユニット。
giorgio moroder(001-14)
1940年4月26日、イタリア生まれ。そのdiscoとテクノ を融合させたサウンドは多くのアーティストに影響を与える。
barbara moore (006-27)
男性上位の時代の英音楽業界で初のアレンジャー/コンポーザーとしての 地位を確立したパイオニア。
dudley moore(008-19)
1935年4月19日 イギリス ロンドン生まれ。「ミスター・アーサー」ゴールデン・グローブ最優秀主演男優賞コメディ部門受賞など俳優として有名。 2002年に他界する。俳優としてだけではなく、イギリスのコメディ・ミュージシャンとして活躍していた。サー・ゲオルク・ショルティと「音楽教室」の企画をしたり、プロコフィエフの「ピーターと狼」も手がけたりもした。
roger morris(002-11)
frank motley(003-04)
シンガー/トランペッター。戦後イーストコースト・ジャンプ・ブルース。1923年サウスカロライナ州チェロウ生まれ。2本のトランペットを同時に吹くデュアル・トランペットという芸でも名を売った。51年からドラムの tnt トリブルとコンビを組んで、ジャンプを演奏した。47〜52年のスペシャルティ録音「specialty legends of jump blues vol.1」で聞くことができる。ロイド・ファットマンの51年録音で伴奏。
mr. c(013-21)
mr. skank(013-22)
mark murphy(013-04, 014-19)
romano mussolini(009-17) 50年代から活躍するイタリアのジャズピアニスト。
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sam paglia(004-13, 004-16)
21世紀にありながらハモンド・オルガンを大フィーチャーした60〜70年代頃のスパイ・ムーヴィー・サントラ風に展開する楽曲群にはただただ感動。「mo'plen」シリーズを始め、「la douce」サウンドのエッセンスを吸収したサウンドはirmaの中でもかなり「la douce」寄り。ジャケットも本人が書いており、イタリアの某ラウンジ・マガジンでも彼のジャンキーなイラストをみることができる。
the paris studio sound(012-18)
pathless(001-10)
jazzanovaのプロデューサー、stefanとaxelのプロジェクト。
fritz pauer(012-15) ウィーン出身のピアニスト。
peddlers(008-08, 014-04)
オルガンを前面にフューチャーしたブリティッシュ・モッド・ジャズ。
perrey & kingsley(013-16, 009-05)
oliver peters(008-04, 009-05)
oscar peterson (008-14)
ジャズ界巨匠の一人、オスカー・ピーターソンは1925年、カナダのモントリオール市で生まれた。はじめはトランペットを習ったが、肺を患ったため、ピアノに移り、ピアノを発見してからはピアノ一途にのめり込んだ。
39年、コンテストで一位になり、その賞金で最初のピアノを買った。その頃、父親からピアノ・ソロの父と言われるアート・テイタムのレコードを聞かされ、ショックを受け、深く影響を受けた。後日、テイタムとは親友になったと言われる。
45年、モントリオールに演奏旅行にきていたデジイ・ガレスピはオスカーのプレイを聞いて興奮して、当時、一番の権威評論家、レオナード・フェザー氏に電話で、「すごいピアニストを聞いた。アメリカで彼の紹介コンサートをやろう」と言ったが、無名のピアニストのコンサートは難しく、実現しなかった。
その後まもなく、当時のジャズ界の帝王、ノーマン・グランツに説得されてアメリカに移り、グランツが主宰するジャズ・アット・フィルハーモニック(jatp)に参加して、49年8月、ニューヨーク市でデビュー、聴衆を驚かせた。
彼のテクニックは、アート・テイタムに比較しても劣らず、加えて、両手のユニゾンでビバップ・フレイズを信じられない程の早さで弾きまくる独得のスタイルは、皆が初めて聴くピアノで、聴衆に大変な驚きと興奮をもたらした。
悪癖や、テクニックのなさを芸術的だと見る傾向のあるジャズの世界で、オスカーは尊敬される社交人であり、理性の高い彼は、ジャズ・ピアノの歴史にはそれまでなかった奏法を創り出し、世界を風靡した。彼の影響を受けたピアニストは無数にいるが、彼を越えたピアニストは皆無だろう。レコードの数もおびただしく、lpでもゆうに77枚を越える。
彼は十代から病気のため、手の痛さを我慢して演奏することが度々だったが、その事実は75年まで人に漏らさなかった。それほど、芸術家としてプライドが高く、プロに徹していたことがわかる。
trudy pitts(004-11, 013-21)
グルーヴ系のジャズ。ハモンドオルガン奏者。
maurice pop (006-11)
groovy なスキャット入りラウンジジャズナンバーの連発させるドイツのコンポーザー。
baden powell(005-02)
1937年8月6日、リオデジャネイロ近郊生まれで、2000年9月26日、63歳で肺炎により他界する。
バ−レ・エ・サイ(varre-e-sai)という小さな町で生まれ、すぐにリオ市に移転、最初は親父さんからバイオリンを習わされえていたが、自分の意志でギタ−に変え(4歳頃)8歳の時にナショナル放送局のジャイメ・フロレンシオ・メイラからギタ−のレッスンを受け始め、メキメキ上達し、13歳ぐらいから人前にて演奏をするようになり、15歳でナイト・クラブなどで演奏をし始める。'59年にはsamba tristeがすでに出版されていたという。同じ年に歌手のドロレス・デュランが作曲した"ア・ノイチ・ド・メウ・ベン"はヒットしたが、彼女はその直後服毒自殺してしまう。その後'62年に父親が亡くなったりと、不幸が続く。さらに、その前後にシルヴィア・テレスの伴奏もしていたが彼女も'66年には交通事故にて死去してしまう。また、二人が共演していた頃にはコパカバ−ナのクラブにてナラ・レオン、カルロス・リラ、ジョビン、メネスカルらと一緒に演奏もしていた。モラエスと知り合ったのもその頃で彼と意気投合し数々の作品が生まれることとなる。
elvis presley(007-23)
本名、elvis aron presley。1935年1月8日生まれ。ミシシッピー州イースト・テュペロ出身。
1954年「ザッツ・オール・ライト」でメンフィスのサン・レコードからデビュー。56年に移籍したrcaレコードからのファースト・シングル「ハートブレイク・ホテル」が初の全米no.1となり、キングの歴史が始まる。当時最も新しい媒体、テレビを利用して全米にエルヴィス旋風を巻き起こした50年代、映画出演が中心となった60年代、そして、ライヴに没頭した70年代と各年代を通して最高のエンタテイナーとして23年間に渡りスーパースターの座に君臨。18曲のビルボードno. 1シングルを誇り、49枚のアルバムをtop40に送り込んだ不世出のアーティスト。 1977年8月16日に逝去。
marcheselli produzioni(005-23)
irma la douceより、イタリアン・カクテル・ラウンジ・グループ。陽気な遊園地サウンド、アコーデオンが奏でる哀愁トラック、エロエロ・ポエット、バカ・サウンド、日本語ポエットなど多様な曲を作り上げる。
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quarteto em cy(006-10)
グループ名は1939年生まれの長女cyva(de sa leite)シーヴァ、1940年生まれのcybeleシベーリ、1945年生まれのcynaraシナーラ、そして一番下が1946年生まれのcyleneシレーネと四人の姉妹の名前の頭の文字から。ブラジルにおける音楽文化の最重要発信地、バイーア州のサルヴァドール市生まれ。50年代の後半には、地元のテレビに出演するようになり、60年代に入り、リオに進出する。当時ブラジルでは、ボサ・ノヴァが一大ブームを巻き起こしていて、彼女たちは、そのボサ・ノヴァにおける最高の詩人、ヴィニシウス・モライスと最高の作曲家、カルロス・リラに認められ、恵まれたデビューを飾る。1964年、彼女たちはアルバム"quarteto em cy"でデビュー。ボサ・ノヴァ界随一の女性コーラス・グループとして、注目を集め、その後1966年、メンバーのひとりシレーニが結婚のため引退するが、代わりにレジーナ・ヴェルネッキが加わる。
quartette tres bien(014-22)
joe quijano (005-22)
サルサ誕生前夜、ニューヨーク・ラテンで最高の人気を 誇った、マンボ、パチャンガ期の人気者。
quintetto x(011-19)
イタリア産のブラジリアン・ミュージックを演奏するグループ。ボーカルはrosalia souza。
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ernest ranglin(004-12)
ernest ranglin:32年、ジャマイカ生まれ。15歳の時からギタリストとして活動し、50年代はジャズを中心に多くのセッションに参加。アイランドのミュージカル・ディレクターも務め、58年にアルバム「ギター・イン・アーネスト」を制作した。同年からスタジオ・ワンで編曲を担当。スカタライツのギターも兼任し、スカの時代の礎を創った。64年に渡英、ミリーのアルバム「マイ・ボーイ・ロリィポップ」を手掛けている。来日は78、79、94年の3回。78、79年はジミー・クリフのツアー・メンバーだった。
ras(011-13)
real ax band(008-22)
1976年結成されたテクニカルなジャーマン・ジャズ・ロック・グループ。女性ヴォーカルはガーナ人、マリア・アーチャー。
dieter reith trio(010-21)
ken rhodes(010-21)
buddy rich (002-16)
1917年ニューヨーク生まれ。白人最高のドラマーと評されるドラマー、バーナード ”バディ” リッチ。
そんな彼がジョー・マルセラのバンドでプロドラマーとしてデビューしたのが'37年。 その後、バニー・ベリガン 楽団、ハリー・ジェームズ 楽団、アーティ・ショウ 楽団でその名を轟かせ、当時人気絶頂であったトミー・ドーシー 楽団に移籍し、そのハイピッチで切れ味鋭いスネアと圧倒的なスイング感で一躍トップドラマーの座に駆け上る。 一時期、海軍に入隊したが、退役後、再びドーシー楽団 に復帰する。 '45年、リッチは最初の自分のビッグバンドを結成する。活動は定期的なものでなく'49年の4月にこのバンドは解散となる。 '50年当初、ノーマン・グランツ率いるj.a.t.pの参加したリッチは、 スタイルの壁を超えて数々の大物プレイヤーと競演することになる。そして'61年に再び ハリー・ジェームズ 楽団に復帰したリッチは、ギネス級の高額なギャラと共に迎え入れられ、 ”世界最高のギャラをとる脇役”との異名をもらうのであった。 そして'66年、周囲の反対を押し切って、再び念願の自分のビッグバンドを結成する。正統的なジャズオーケストラを継承しながらもブラスアンサンブル とドラムを対比させた大胆なビッグバンドサウンドを創り上げ、大いに旋風を巻き起こした。このビッグバンドはバディリッチのドラミングを存分に生かすものであり、まさに彼の魅 力を120%味わえるものである。ハイテンポの4ビートでは身震いするほどのスピード感、 ミドルテンポでは強烈なスイング感を与えるライドシンバルと絶妙なスネアのフィルイン。 それらに触発され、咆哮するド迫力ブラス陣。そのブラス陣をも凌ぐ豪快なドラムソロ。 リッチのドラミングの真髄がビッグバンドの中にあるのは明白である。
彼は譜面を読めないことで有名であった。そんな彼は代理ドラマーに始めに曲を叩かせ、それを数回聴いただけでその曲を憶えてしまったという。'74年、ビッグバンドでの巡業生活に疲れたリッチはバンドを一時解散ししばらくコンボバンドで 活動することになる。ジャズクラブbuddy's placeを経営し、そこでソニー・フォーチューン 、サル・ネスティコの二人のサックスをフロントに、ベースにはアンソニー・ジャクソン というセプテットバンドを結成する。約一年後にこのbuddy's placeはリニューアルオープンするのだが、 これを期にリッチは再びビッグバンドを結成し、セプテットバンドは短命に終わる。 再結成されたバンドでは、音楽的な大黒柱となったボブ・ミンツァーやメインソリストとして ジャズロックの寵児スティーヴ・マーカスなどが加入し、再び力強いリッチのドラミングが蘇り、 恒久的なビッグバンドが減る中でリッチのビッグバンドは精力的な活動をみせる。
そして'87年、悪性脳腫瘍により他界。享年69歳。
judy roberts(002-26)
シカゴ生まれのシカゴ育ち。父親はジャズギタリストでもあるボブ・ローウィー。父の影響もあってジュディは幼い頃から歌やピアノに親しんできました。15歳の頃には地元シカゴのジャズクインテットのピアニストとして、プロデビューも果たしています。そして、17歳の頃より本格的にボーカルを始め、5人編成のバンドを結成。1979年、1stアルバム『ジュディ・ロバーツ・バンド』を、地元のシカゴのインディーレーベルより発表しました。
the dj rodriguez(002-17, 003-02, 003-16, 003-19)
meta roos(012-17) スウェーデン出身のジャズシンガー。ビリージョエルやマリーナショウなどのカバーなどで知られる。ジャズやボサノヴァ、ソウル・ミュージックなどの融合で都会を感じさせる。
sonia rosa(006-12)
60年代末にブラジル から日本にやってきたボサノヴァシンガー。彼女は女性ボサノバ歌手の中でも、最もセクシーロリータボイスの持ち主、現在は日本に住んでいてたまにシングルなどを録音している。ルパンのサントラでもおなじみの大野雄二によるプロデュース作もある。
nicola conte apresenta rosalia de souza (011-20)
harald rosenstein(007-14)
mary ross(006-04)
主婦の傍らシカゴの教会でゴスペルを歌い、1964年のシカゴ大学でのフォーク・ミュージック・フェスティヴァルではビッグ・ジョー・ウィリアムズとスピリチュアルを歌った。1964年にリー・グランダースンのギターによる録音があり、テスタメントのlpに収録された。ケネディ大統領の死を扱った p-vineに収録されている。
jules ruben (004-21)
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st germain(001-02, 001-07, 001-12, 001-15)
ジャズにさまざまなジャンルの音の要素がミクスチャーするblue noteの新世代ジャズ。
パリのアンダーグラウンド・シーンで多大なリスペクトを集めるルドヴィック・ナヴァールのソロ・プロジェクト。
sambalanco(009-12)
硬めのピアノが印象的なブラジリアンピアノトリオジャズ。
linda scott(002-08)
gil scott-heron(002-02)
1949年4月、シカゴにgil scott-heronは生まれる。既に30年に渡り20数作の優れた作品を出しつづけている。彼のすばらしいところは言葉、歌詞、詩、ラップの真骨頂であると同時に、力強く、生命力に富み、抵抗と権利委任、自由と革命のメッセージを感傷的にジャズ・ソウルのノリをベースに表現するところ。
13才でnyに引っ越し。ペンシルバニア州のリンカーン大学でscott-heronはbrian jacksonと出会う。brian jacksonはその後彼の右腕となるキーボーディスト。
seatbelts(012-11) 2048年、太陽系音楽シーンにデビューしたバンド演奏中に安全のためシートベルトを着用することからその名が付いたと言われている。メンバーの素性はすべて伏せられている謎のバンドである・・・というのはアニメ「cowboy bebop」からの設定で、実際は数々のcm音楽などを手がける菅野よう子率いるバンド。カウボーイビバップの音楽のすべてを手がける。企画バンドなのでライブ活動など殆ど行っていない。その音楽性は、ロック、パンク、ジャズ、スカ、レゲエ、スウィング、マンボ、ボサ・・・などと非常に多岐にわたる。
seawind(009-18)
ハワイ生まれのla育ち。ホーンセクションとポーリン・ウィルソンのキュートで力強いvocalが魅力のバンド。
renato serio (002-20)
1970年代から活動を続けている。初期のころの少しアングラな匂いがするもの、1980年代のちょっと歌謡曲のような軽薄さがあるもの、1990年代以降の落ち着いた感じのものなど、多彩な曲調のものを作り上げる。
marlena shaw(002-19)
9月22日 、ニューヨーク州ニュー・ロシエル生まれ。トランペット奏者であった叔父の影響でジャズを聴き始め、10歳の時にアポロ・シアターのアマチュア・ナイトに叔父と共に出演し、大喝采を浴びる。20歳を過ぎた1960年代の中頃には主に東海岸でプレイボーイ・クラブやリゾート・ホテルなどで歌っていた。1966年にカデット・レコードに吹き込んだシングル「マーシー・マーシー・マーシー」の大ヒットで一躍有名になり、ちょうど同時期にカウント・ベイシー・オーケストラの歌姫として4年間在籍することとなる。72年にベイシーの元を離れ、女性歌手としては初めてブルーノート・レコードと契約する。この間サミー・デイビスjr.とのツアーを数多く行い、そのステージに磨きをかけると共に、スタンリー・タレンタインやベニー・ゴルソン等とレコーディングを行う。77年の映画『ミスター・グッドバーを探して』の同名主題歌が好評を博し、r&b、ポップス、そしてジャズと幅広いジャンルでの支持を不動のものとする。身近なところでは87年コニカのtvコマーシャルで「上を向いて歩こう」を、88年にはマツダ・ルーチェのcfの曲を歌っている他、日本を代表するインストゥルメンタル・グループ、t-squareのヴォーカル・アルバムにも参加し、インストゥルメンタルで聴き親しんだ楽曲に新たな息吹を吹き込んだと絶賛されている。
近年彼女の70年代のヒット曲「ウーマン・オブ・ザ・ゲットー」がukのdj、the blueboyのシングル「remember me」やsaint germainの『tourist』(blue note)でサンプリングされるなどして再び脚光を浴びている。現在はライヴを中心に世界各国で活躍しているが、その熱いステージと確かな歌唱力で幅広い世代を魅了している。また、全米の中学・高校・大学でコンサートや教育プログラムにパフォーマーとして参加し、音楽の素晴らしさを若い世代に伝えることにも力を注いでいる。
wilson simonal(002-05)
1938年2月23日、
リオ・ジ・ジャネイロ州レブロン生ま黶b
中学を終える頃に歌に興味を持ちはじめ、兵役に服しているときには隊内のアトラクションでエンターテイナーぶりを発揮していた。 p960年頃に、アマチュアボーカルグループ「ウス・ドライ・ボーイズ」でロックなどを歌い始める。 62年頃にプロ歌手となり、ナイトクラブのステージに立つようになる。
その後、tvプロデューサーとして有名なカルロス・インペリアルに認められ、最初のレコードを録音。チャートのベスト10に名を連ねた。
ボサノヴァがその兆しを見せかけた50年代後半、カルロス・リラの「ロボ・ボボ」をタイトル曲に使い、これが見事にはまって大ヒットとなる。 60年〜70年頃にはロックの要素を取り入れかなりの人気をはくした。 メキシコやベネズエラといったラテン諸国で人気が高く、たびたび足を運んだりもしている。
nina simone(011-08)
1933年2月21日、アメリカ・ノースカロライナ州タイロン生まれ。17歳でピアノを学び、ニューヨークのジュリアード音楽院でピアノ及び作曲法を学ぶ。57年には初アルバム『nina simone』を録音。同アルバム中の「i loves you porgy」がヒット。ピアノ弾き語りのスタイルで活動を始める。60年代には黒人解放運動に力を入れるなど、プロテスト色も強くなる。その後は、ボブ・ディランやバート・バカラックのナンバーも歌うなどポップスへの関心も深め、78年にはマンハッタン・ジャズ・クインテットのピアニスト、デヴィッド・マシューズの編曲により『ボルチモア』を録音。再び注目された。2003年4月21日、南フランスの自宅で亡くなった。70歳。最近ではアメリカを離れ、南フランスで過ごしていた。
sinatra & company(009-09)
martial solal(005-11)
1927年生まれ。53年にジャンゴ・ラインハルト・グループの最後のピアニストとして、 輝かしいデビューを飾り、その後フランスのジャズ界の第一人者として 君臨し続ける。
som tres(006-24, 007-03)
ブラジル出身のセザル・カマルゴ・マリアーノ(ピアノ)率いるピアノ・トリオ。ファンキーなブラジリアン・ジャズ。
lou stein(010-22)
street jazz unit(012-20, 014-13)
strawberrious(005-24)
日本発。クラブジャズを基調にピアノ、エレピの伴奏やソロを中心に曲を構成。
mikael sundin(007-12)
supersempft(009-08)
tierney sutton(010-14)
claudio szencar(007-14)
marta szirmai(006-28)
ハンガリー生まれ、エキゾチック・ジャズボッサの女性シンガー。
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rosinha de valencia(005-03)
sylvie vartan(013-06)
frankie valentine (003-22)
djとして20年以上、プロデューサーとして11年程のキャリアを持つロンドン生まれのdj兼プロデューサー。彼のホームタウンであるロンドンではアップテンポからダウンテンポまでプレイする機会に恵まれ、地元では最も求められているdjの1人である。ukのみならず、日本、オーストラリア、ポルトガル、イタリア、スペイン、アイスランドなど、世界各国でそのdjプレイ経験を持つ。現在はロンドンのlimelight、ケンジントンのparkclub、london rotary clubでメインdjを勤めている。ギター、ピアノ、フルート、パーカッション等の生楽器とラテン、ジャズなど様々な音楽要素をハウスフォーマットに取り込む最先端の感覚を持つクリエイターでもある。
marcos valle(006-15, 008-26, 009-19)
1943年9月14日、リオ・デ・ジャネイロ生まれ。幼少の頃からクラシック・ピアノを習い、後にアコーディオン、ギターも演奏するようになり、ギターの腕前をロベルト・メネスカルに絶賛されるまでになる。 '62年、エドゥ・ロボ、ドリ・カイミとトリオを結成しtvにも出演を始め、その後、兄パウロ・セルジオとの共作曲がタンバ・トリオ'63年のアルバム『avan0』で採り上げられる等、作曲家としての活動を始めつつ、'64年に自らもデビュー、ファースト・アルバム『サンバ・ジマイヌ』をodeonよりリリース。翌年の2ndアルバムとのたった2枚で数々の名曲を発表し、多くは後に世界的レパートリーとして親しまれるようになる。 その後セルジオ・メンデスの招きで渡米、ツアーに同行後クリード・テイラー制作のワルダー・ワンダレイのアルバムの中から「サマー・サンバ」がシングル・カットされ全米でポップ・チャートの1位 に何週間も君臨する大ヒットとなり、マルコスのアメリカでの名声はまたたく間に拡がった。またアンディー・ウィリアムス・ショーにも出演、さらに'67年 の『braziliance!』(ワーナー)、'68年の『サンバ68』(ヴァーヴ)も、名曲ぞろいの大名盤としての誉れが高い。 '70年代〜'80年代は主に作曲家として活動、後半より再び渡米し、サラ・ヴォーンやアーバン・ソウル界の大物レオン・ウェアとも共作/共演を行う。'90年代に入るとロンドンのクラブ・シーンを中心にマルコス再評価のブームが巻き起こり、若い新しいファンも獲得しつつ昔の名曲の数々も再び支持されるようになった。昨年faroutレーベル(uk)よりアルバム『nova bosa nova』をリリース。
sylvie vartan(002-10) 1944/8/15ブルガリアで誕生。父はフランス生まれのブルガリア人、母はハンガリー人。52年8歳の時パリに移住。61年、音楽界(rca)で仕事をする兄エディ・ヴァルタン eddie vartan の関係で偶然レコーディングに参加したことから歌の世界に。ロック歌手としてデビューし一躍アイドルとなる。バラードからロックまで歌いこなし、快いハスキー・ヴォイスが魅力で美しい容姿をもつ世界的アーティスト。
claude vasori(002-24)
sarah vaughan(013-20)
luiz carlos vinhas(006-21) 60年代半ばのジャズ・サンバ全盛期にボサ・トレスのリーダー/ピアニストとして活躍したルイス・カルロス・ヴィーニャス。
vip 200(004-15)
matthias vogt(009-02)
ドイツのジャズピアニスト。
voices in latin(008-23)
イギリスのグループ。
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x-legged sally(003-15)
ベルギー・ブリュッセル出身のアヴァンギャルド・ロック・グループ。 ピエール・ヴァーヴローセンとペーター・ヴァーメルシュらを中心に結成、90年knitting factoryのライヴで注目を浴び91年アルバム・デビュー。 97年解散。 作品は6枚。 絶叫型フリー・ジャズ、ファンク、ロックが合体したしなやかにして凶暴なサウンド。 パワーとスピードを備える近未来型ヘヴィ・ジャズロックの急先鋒だ。 すでに解散してしまったが、メンバーの一部は a-group というユニットで頑張っている。
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