音楽編123456789

直感DE雑感・音楽編

音楽関係・雑記をまとめたものです。(〜2003年)

三大ギタリスト架空セッション音楽評論家スネアドラムスティーリィ・ダン頭脳警察野外フェスティバルジョニーロットンとニールヤング武満の映画音楽・『利休』青春!J-POPMUSIC MAGAZINE遠藤賢司Mr.Childrenプログレとは?ヘタウマはイイ!ミックスダウン合わない音楽奇妙なバンドメンバーマイナーとメジャー無調原音Jazz歌謡曲BGM癒し系

三大ギタリスト

70年代ロック三大ギタリストといえば、ジミー・ページ、ジェフ・ベック、エリック・クラプトン。ヤードバーズ出身のイギリス人3人がなぜ3大なのかは置いておいて、一応そういうことになっている。この3人を比較して、技巧ならベックがいちばんだろう。ギターバカそのものだ。
クラプトン?オレは嫌いではないが、彼の演奏で一度も感動したことはない。ブルースフィーリング?それだったら黒人さんのブルースを聴いた方がよっぽどよい。ダンディなかっこよさは認めるが、フレーズ自体をウイスキーに例えれば、”水割り”というかんじ。
で、ペイジだが、この3人の中ではいちばんヘタクソ。ピッキングも甘いしリズムも甘い。しかしいちばん好きなのだ。気持ちが伝わる。ギターバカではなく、自分は巧くないということを逆手にとって音楽性で勝負しているところが好き。以上、ギター門外漢の個人的な印象。


架空セッション

サウンド部分を担当し、Kin'sRooさんがリーディングした「光に目が眩み」、自作インストの「Remains Of The Road」、「Themeless & Babel Black」、「Jamming With K」などには共通のアプローチがある。
とくにインストロメンタルの場合、音楽を映像的・絵画的に作る方は多いだろうが、自分の場合、ほとんどその類のイメージは浮かんでいない。では、どんなものが発想の基盤になっているかというと、それはバックグラウンドの異なるミュージシャンたちがセッションをしている風景なのだ。それもありふれた編成ではないもの。
例えば、「光に目が眩み」では打楽器が一切入っていない。
インドのシタール奏者、津軽の三味線弾き、クラシックの弦楽奏者、シンセの電子音がジャムセッションをしたらおもしろいだろう−そういう発想だ。
他者がどんな演奏をしても動じず、くっついたり離れたり。自由に好き勝手にやっているようで、大きな流れは乱さない。相手とのズレを、むしろ楽しみながら高揚していく
要するに映像的・絵画的なイメージというより、そんな演奏風景そのものをイメージしている。あまり見かけない音楽世界だとしても、それは結果的なものなのだ。
さて、なんの予備知識もなく突然その中に放り込まれた生身の人間、コラボリアンKin'sRoo。臆することなく、見事に感覚的に言葉を発してくれた。ありがたやありがたや♪
SATSUKIさんが”無秩序の秩序”と表現してくれたが、確かにそんな感じかもしれない。

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音楽評論家

音楽評論家は客観と主観のバランスの取り方が難しいはず。音楽の聴き手は正しいか正しくないか−ではなく、良いか悪いか−で判断する。その道しるべを提示するわけだ。理屈では100%客観的な印象を示さなければならないだろうが、私情が入らなければ、他人に対して説得力を持ち得ないのも確か。
アーティストの立場からすると、誉められるのは良いが、私情を交えてこき下ろされたらたまったものではない。しかし、ダメなものはダメと言い切る潔さ、しかももっともらしい理屈を示さなければ信頼を得られないだろう。音楽評論家という商売は“微妙”な商売だなぁ−と思う。
以前、音楽評論家の中村とうよう氏がブルース・スプリングスティーン(以下BS)の日本公演評で、《アメリカ人でもないのに、日本人の観客が「Born in the USA」を唱和している姿が奇妙だった》と書いていた。しかしその日本人達は、当然自分たちがアメリカで生まれたとは思っていないし、BSのウタの“気分”を共有していたに過ぎない。
「Born in the USA」は、どうしようもない矛盾に満ちたアメリカ合衆国の姿を嘆きながら、それでもこの国でオレは生きていく−という歌だ。その思いを日本という場所に置き換え、日本人の自分はどうしようか−と考えれば良いし、それを考えさせるだけの力を持った音楽と、実はそのBSの公演で声を張り上げて唄っていた自分は思うのだった。他の観客がどう感じていたかは知らんが。

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ミックスダウン

ネットで自分の音楽を配信すること自体、数年前には考えてもいなかった。いつのまにか当たり前になり、今度は遠距離間でファイルのやりとりをし共同作業までしている。ひゃ〜ホントカヨとたまに思ったりする。確かにこれは画期的なことだ。
パソコンを利用して音楽を作る−といっても、それぞれ得意な分野があり、気が合えば、不得意分野を補いあって個人の力量を越えた水準のものが作れる。
しかし音楽をやっている人達は、歌が得意だったり、作曲が得意だったり、編曲が得意だったり、演奏が得意だったりしたとしても、ミックスに関してはみな苦労しているようだ。最終的な音像が決まらず、へとへとになるハナシはよく聞く。リスナーがどんな装置で再生しているのかもわからないわけで、これはとても難しいことだ。
高級な機器を使い、どんな再生装置でもそれなりにちゃんと聞こえる音像を作れるのは、おおよそ、その道のプロにしか出来ない。オレは、ヘッドフォンで定位だけ確認し、普通のラジカセでモニタリングしているのだが、生音を使えば使うほど、また、一曲の中で音の強弱の落差が大きいほど難しくなるようだ。

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MUSIC MAGAZINE

ミュージック・マガジン誌は毎月読んでいる。断続的に読み始めたのが中学3年の頃。(当時の雑誌名はニューミュージック・マガジン)
文章が多くて中学生には難解な音楽雑誌だった。高校2〜3年の頃からは毎月休まず買っているわけだ。まぁそれだけに、この雑誌からの影響は自分にとってとてつもなく大きい。
PCで音楽を作り始める以前は、どちらかというと音楽は聴くモノだったし、この雑誌で取り上げられた音楽には興味を示すことがとてもとても多かった。なぜか?といっても、とても一言では答えられないのだけど。
ここ数年は、あまりCDを買わなくなった。聴く時間がない。優先順位が後退したようだ。しかし毎月20日に本屋に行ってこの雑誌を買い目を通すと、買って聴きたい音楽がたくさんある。またしかし、買ってもちゃんと聴くのか?と自問して、なんとなく買わないままになってしまう。そのCDを聴き、時代や文化的背景を調べ、人脈を調べ、音作りを見極め、また単純に聴く。音楽でひとつの旅を楽しむ。そんなことが好きだった。いや今でも好きなのだが…。
ちなみに2002年11月号で、ページの隅っこを折り曲げたのは、新・日本のジャズ/スティーヴ・アールの記事/浅井健一の記事と新譜/”石井恒のこれがヒットよ”にあるドリカム批判の部分/とうようズ・トーク/仲井戸麗市の新譜/ソロモン・バークの新譜記事/ルーツ・レゲエの本紹介・・・・・キリがないからここまでにしておこう。

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BGM

ウォークマンを持っていない。70年代後半だかに発売された当初は珍しがって使ってみた。日常の風景と聴いている音楽のズレがおもしろくはまったが、やがて飽きてしまった。思考/感覚の対応が分散されてしまい、煩わしくなったのだ。
ひとりでいるときにBGM(バックグラウンドミュージック)を流す習慣が、自分にはあまり無い。単純に、気が散るから必要とは思わない。邪魔。ただ、公衆の場や誰かと共有する空間においては、間をそれとなく補完する有効な道具とは思う。
イーノというアーティストが70年代後半に「環境(アンビエント)音楽」という概念を提示した。BGMの機能的役割を究極的に追求したもので、逆説的に徹底して無味な音楽だった。音楽に意味や情緒を持たせたり感情を煽ったりすることへの大胆なアンチテーゼだった。そういう意味で、逆説的に”ロック的な”アプローチでもあったわけだ。イーノはロッカーだねぇ!!! 
で、そのイーノの環境音楽を利用しているかって?いや、やっぱり一人の時は、あまりBGMは必要ないなぁ。
余談:テレビで不幸な事実を報道するときの悲しげなBGM あれは止めてほしい。その事実の重さだけで十分なんだから。過剰な演出で辟易する。


癒し系

癒し系の音楽? “癒し”という言葉が一人歩きしている。そんな事を意識して音楽を聴いたことがない。どんなにうるさくても、どんなに激しい音でも、それが気持ちよければ広い意味で“癒し”である。つまり好きな音楽全てが、その人にとって“癒し系”と思う。
“好きな音楽すべてが癒し系”という言い方にはかなり強引なところがあるだろうが、まぁ、広い意味でのハナシであって、世間が癒し、癒しとうるさいから、屁理屈のひとつでも言いたくなってしまったのだ。
そう!覚醒させられる音楽だってあるではないか。眼をキッっとさせたくなるような気持ちがシャキっとするような素晴らしい音楽だってあるのだ。中庸で意外性のない、生ぬるい音楽が巷にはびこっていると、無視すればよいのについなにか言いたくなる。どうも年寄りの愚痴になってしまうようで、いささか気が引けるのだが。いやぁ失敬!(-_-;)

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Jazz

マウントフジ・ジャズフェスティバルの出演者を雑誌で見て、ついにここまできたか!と思った。
なにしろ、(いわゆる)ジャズアーティストがほんのわずかで、ヴェンチャーズやアースウインド&ファイアのセルフカバーバンドまで出ている。
「ジャズにこだわらず、30代から40代の音楽ファンが楽しめるものをめざしている」とは企画者のコメント。”懐メロ大会”は成功させるための苦肉の策か。しかしそれでも、入りは満員にはほど遠かったようだ。イベントの名称に“ジャズ”の文字が馴染まなくなっている。
Jazzは終わったのだろうか?いや優れたアーティストはちゃんといる。しかし、商売としては残念ながら苦しい。
ではなぜ売れないのだろうか?
で、自分なりにしばらく考えたら一つのことにたどり着いた。日本の音楽風土に“音の会話を楽しむ”という習慣が未だに根付いていないのではないか−ということ。その一瞬のみで醸し出された即興よりも、既知感のある芸を未だに好んでいるのではないか?
いや、一概に言えないことは十分承知の上で、あえてそう書きたかったのだ。


プログレとは?

Music Magazine誌の増刊で「プログレのパースペクティヴ」という特集本がある。
プログレの大風呂敷な様式性にとらわれず、改めて本来の“プログレッシヴ”の意味を問い、はたしてその概念に、(時を重ねつつ)継続性が存在しうるのか?−というコンセプトになっている。過去のCD100枚以上が掲載されているが、武満徹・マイルス・ザッパ・クリムゾン・イエス・YMO・パンク・ニューウェーヴのいくつか・ビーチボーイズ・アバンギャルドな何人かのミュージシャン…等が並列に取り上げられていて圧巻!※(プログレの様式美が好きな方にはお勧めできない。)

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武満の映画音楽・『利休』

彼の音楽をまともに語れるほどのボキャブラリーは到底持ち得ていない。
例えば新聞コラムの見出しを作るとしたなら、“西洋文化の影響と日本古来の伝統文化との融合”−となるのだろうか。それはそうだろう。ただ、もう一語欲しい。融合だけなのか?せめぎ合いや葛藤も表現しているじゃないか。そんな気がする。両者の葛藤さえも内包している。そこが凄い。(嗚呼、言葉にするともどかしいな)
彼は、エルビス・プレスリーをサンプリングして電子音楽とミックスしたりもしていた。

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ヘタウマはイイ♪

ロス・インディオスの歌で「知りすぎたのね」というのがあるが、万事そうなのだろうか。
学び知ることは当然よいことだろう。人は様々なことを学び経験して成長していく。ただ、時に知識が邪魔をすることもある。理屈で納得して自らを縛り付けてしまうこともある。知識を持てばそれを手段にして応用させればよい−ということもよくいわれる。しかし概してそんなにうまくことが運ぶとは限らない。それは知識に感性が追いついていないからで、感性を鍛えることは知識を詰め込むことよりはるかに難しいのだ。
若い人に「どうしたらカッコよいプレイが出来るようになりますか?」という恐ろしい愚問をされた時、村上ポンタ氏(彼のプレイはそれほど好きではないが)が、名言を吐いていたのを思い出した。「それは、毎日散歩をして物思いにふけることだよ!」

音楽においてどこか不器用で端正でない人が好きだ。たとえば、リンゴ・スターはスネアロールをしなかった。キース・ムーンはハイハットを使わなかった。モーリン・タッカーはべードラを使わなかった。ジミー・ペイジは正確なフレーズに自信がないくせに、ミストーンをごまかせない音色が好みだった。ニール・ヤングやキース・リチャードはカポタストを使った。自分は彼らの音楽が大好きだ。そして彼らは、知識というより、感性に裏打ちされた知恵を持っていたように思う。
こんな事を書くと、「練習嫌いを正当化しているだろう?」というつっこみが、返ってきそうだ。まぁそれはその通りだな。(苦笑)ちなみに「知りすぎたのね」の歌詞は、《あなたのことを知りすぎてしまい、疲れたわ。そろそろお別れね》というものだったかな?たしか…。

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スネアドラム

楽器のエフェクトは基本的に適材適所と思うが、コーラス(エフェクト)を目一杯かけたものはあまり好きでない。
例外はあるが、たんに音を埋めたいからとか誤魔化すためになんとなくかけてしまったものは−駄目だ。
ドラムはやはりスネアの音が一番大事と思う。ややピッチが高めで残響の少ないものが好みだが、ただこれも例外は多々ある。
1980年代に多用された、やたら残響の多いスネアの音はあまり好みではない。あえて、スネア音色の達人をひとり上げるとすれば、ストーンズのチャーリー・ワッツだ。

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青春!J-POP

急に日本のポップスを聴きたくなる時がある。良く言えば身近な世界。悪く言えば男女の狭い世界。
吉田拓郎「外は白い雪の夜」、オフコース「さよなら」、浜田省吾「丘の上の愛」、チューリップ「サボテンの花」、、、
大概の男はロマンチックで女々しいものだ。駄目なものは駄目ということがなかなかわからない。いや、気づいていても引きずる。(苦笑)う〜む…。じゃ、そこで最後になにを聴こうか?ということで選んだのが早川義夫の「僕らはひとり」。


合わない音楽

音楽は、基本的に嫌いなものはない。ただ、まったく自分に合わない音楽はある。
南こ×せつ、さだ×さし、谷×新二、松山×春、それとニューエイジといわれる類やゲーム音楽。
とくに南こ×せつは、昔テレビでイヤな本性を垣間見てから音楽以前に人間性が全く合わない。といっても、別に知人ではないわけだからなんてことないのだが。
ニューエイジものは全てを同一視してはいけないかもしれんが、思わず不協和音をかぶせたくなる。ゲーム音楽はゲームをやらないからわからない−と言った方が正確か。でも、やっぱりダメだろうな。

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遠藤賢司

同郷のベテラン・シンガーソングライター遠藤賢司はしぶさと無縁のドンキホーテ。ナイーブでパンキーでピュア。少なからず彼からの影響がある。東京ワッショイ!


無調

音楽は構造的に簡単なものもあれば複雑なものもあるが、簡単なものを馬鹿にする気もないし、複雑なものを細かく分析出来るほど知っちゃいない。
以前は前衛的な音楽はさっぱりわからなかった。無調なものなど、これが音楽かよ!と思っていた。しかし、いつのまにか受け入れるようになってしまった。それはなにも構えて接したわけではなく、そのままを受け入れればよい−ということで、言ってみればごく単純な“好奇心”のようなものだった。
一聴してなんかよう判らん時は、なにかに例えてみる。なんでもよい。《人同士の会話》《都会の喧騒》《心臓の鼓動》 などなど…たとえそれが作者の意図とは異なっていてもかまわない。そうすることによって少しずつ馴染んでくることが多々ある。

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奇妙なバンドメンバー

20年以上前に、演歌でぴんから兄弟というデュエット?がいた。しかし左側の兄貴のほうは一言も歌わずギターを弾いているが音は出ていなかった。(苦笑)あれでギャラもらっていていいのかな?と疑問を持った。
初期キングクリムゾンには楽器も歌もやっていない正式メンバーがいた。作詞のP・シンフィールド。こういうのもアリか!と勉強になった。
ほかにも、フラワートラベリンバンドの内田ユーヤ“リードタンバリン”(実質裏方)、P・オノバンドの「ジョンの魂」でのオノヨーコのクレジットは“WIND”(横に座っていただけ)なんてのもある。なかなか味わい深く?奇妙な“バンドメンバー”だ。

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原音

よくオーディオ広告のコピーで、〈原音を忠実に再生!〉というのがあるが、なにをもって“原音”なのか、わからないなぁ。。。原音(真のオリジナル音源)ってなんだろう?
録音された音をミキシングし決着した音像のことか?でも、それはミキサーの感性を通過して作られた音だから、発音している演奏者のリアルタイムの音とは多少異なるわけで…。
では、なんの処理もしていないドライなままを原音というのか?しかしそれは音像として未完成であるから、人に聴かせる音ではないわけで…。

たとえば、ステレオのない時代に録音された音楽は当然モノラルでこもっている。それを現在の技術でノイズを除去し、ステレオにミックスしたとする。どちらにしても、演奏者がその場で聞こえていた音像とは違うはずだ。

たとえば野外でロックバンドがライヴをやったとする。演奏者がモニタリングしている音、ミキシング卓で聞こえている音、聴衆が聴いている音、録音してライヴ盤として作られた音。さて、どの音像が真の“原音”なのだろう??

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マイナーとメジャー

しかし、なぜマイナーコードだと悲しくてメジャーコードだと明るくなるのだ?
ガラスをひっかいた音が不愉快で、小鳥のさえずりに心休まる−そんなことに意味がないのと同じか?
いや、それはその映像が頭の中にインプットされているからそう思うはずだ。だとしたら、マイナーコードだと悲しくてメジャーコードだと明るく感じるのは、どんな刷り込みに由来しているのだろう?3度の音が半音移動しただけなのに…
平均律12音階は西洋の音楽概念であるわけだし、世界中誰もが同じ感じ方でないことは確か。なかには逆に感じる人もいるのだろうか?


スティーリィ・ダン

彼らの「Aja」はアメリカの大衆音楽文化が高度に洗練されたある種の到達点なのではないか。
ヒストリービデオの中で、《〜あらゆる手段を使って詳細綿密に計算されたものに基づいて、妥協せずに限界まで音楽を練り上げる。そしてそれを続けるうちに、その次元を突き抜けて、それまでの過程とは裏腹に、あたかもごく自然に今湧き出てきた(ような)音楽が生まれる〜》というコメントが出てきて、うなってしまった。
うちのバンドの練習の前に、メンバー全員で唱和したい“お言葉”である。

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頭脳警察

地べたに座ってフォークギターをかき鳴らし唄っている若者達が増えた。
キミたち“頭脳警察”のファーストを聴きなさい!ゆずのマネなんかしないで。たくさんアルバムが出ているが、あのファーストだけで十分。最高よ!

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ジョニー・ロットンとニール・ヤング

ロットンは一見ロックンロール的なサウンドでロールしない意味を伝えようとしたのだが、70年代後半、アメリカ合衆国はジョニー・ロットン(セックスピストルズ)を結局受け入れなかった。ただ、ジョニー・ロットンことジョン・ライドンは冷静にそれをお見通しだったようで、あらかじめアメリカ合衆国をセックスピストルズの墓場(解散場所)に選んでいたようだ。
そして、ニール・ヤング。ロックンロールは二度と死なない♪ジョニー・ロットンはエライ♪とやってしまった。これは、アメリカ合衆国では受けるのだ。
伝統というものは、誤解、曲解の繰り返しの上に成立していることが多々ある。
ニール・ヤングはカナダ人。アメリカ合衆国を客観視しているフシがやはりある。つまり、あえてロックンロールというフィルタを通してロールしないロックをアメリカ合衆国の中で唄ったひねくれたカナダ人である。
ニール・ヤングのビデオ『ウェルド』で観客の表情を見ると、とても複雑な気分になる。

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Mr. Children

彼らがデビューして間もないころにテレビから録画した「イノセントワールド」の野外ライヴ。
そのステージはスター性と初々しさが同居していて、よい!ドラムがシンプルで、しかも歌をハモる。リードヴォーカルとの正面2ショットアングルはグランドファンクのアメリカンバンドにおけるドン・ブリューワーとマーク・ファーナーみたいでナイス!ベースは計算されたメロディックなフレーズをフレット目線で忠実にキメる。ギターはセミアコの丸いトーンであのテーマを弾く。埋めているのはグロッケン音色を含む2台のキーボード。

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野外フェスティバル

複数のバンドが出演する野外のオムニバス・ライヴはヒット曲があるほうが勝ち!
演奏がうまくなくても一曲あれば絶対に得。許せる。USフェスティバルにおいてのクワイエット・ライオット「カモン・フィール・ザ・ノイズ」とか、ライブエイドのポール・ヤング「Everytime you go away」とか、古くは雨の後楽園球場グランドファンクの前座、マッシュ・マッカーン「霧の中の二人」とか。

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歌謡曲

現在の日本の大衆音楽の主流はJ-ポップ。演歌はそれなりに。
昭和40年代まではそれらを区別せず、すべて歌謡曲と呼んでいた。
好き嫌いは別にして10代前半までにテレビやラジオで何気なくよく聴いたのは、テレビ漫画の主題歌と”歌謡曲”だった。とにかく、民謡や童歌や唱歌よりもなじんでいたのが歌謡曲。
では、我が日本国の大衆(商業)音楽“歌謡曲”とはどんなものだったかといえば、これが節操のない雑種音楽であった。カンツォーネ調だったり、タンゴ調だったり……。フォーク調だったり、ポルカ調だったり……。商業主義を交えながら、ナンデモアリ。
赤ん坊が生まれれば神社へ行き、盂蘭盆には寺へ行き、クリスマスにはケーキを食べ、天皇誕生日は祝日となる−つまり、歌謡曲と日本という国の習慣・行事は、節操のなさではどっこいどっこいだ。そして、他の国には真似の出来ない無節操さ、雑食性のたくましさこそが、 逆説的に「この国の紛れもない独自文化」と言い放ってしまおう。
もし音楽を作るとすれば、まずは開き直って衝動に身を任せ、どんどん好きな音楽の真似をすればよい。そして、そのあくまでも結果として、どこかに民族の一員としての遠い記憶がわずかながらでもかいま見られれば、それでよいのではないだろうか。血は正直だ。

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