音楽編123456789

直感DE雑感2

チャリティ

募金活動に協力したことがほとんどない。反感を買うのを承知でいえば、チャリティにしろボランティアにしろ、なにか割り切れないものを感じるし、そして結局それらは、他人を助けていることを通して自分を救う行為−と解釈している。
尺度はあくまでも人それぞれだが、ようするに、日頃の自己(対社会)に対する免罪符のようなもの−ということだ。そう思わないと、偽善的な匂いがどうも払拭できない。

(現実のハナシとして、)この世に差別や不平等が無くなることは、絶対にない。だから、大風呂敷を広げて、世界的規模で世の差別や不平等を考えよう−なんてことは雲をつかむようなもので、御免こうむりたい。オレはそれよりやりたいことがたくさんある。
ただ、個人的なつきあいで、なにかの縁で、“協力してくれ”と言われたら、そのレベルでは協力をする。
仲のいい人の友人の、そのまた友人のお子さんの心臓移植のために、8000万円が必要らしい。それを知ったのはひとつの縁。募金しようと思う。

男の料理?

冷蔵庫を開けてみると、昨日の残りのゆでたそうめんがパサパサになって冷たく固まっていた。まずブナしめじとオクラをゴマ油で炒め、ちょっとだけ出汁つゆを入れふたをして蒸煮。そこへ昨日の残りのそうめん、刻みネギ、良くかき混ぜた納豆を入れる。これは冷しでもいける。

風邪と台風

表題の“風邪”は、別に誤字ではない。
風邪をひいて学校や仕事を休む、台風がやってきて午後から早退する、なんてことは、誰でも何回か経験しているはずだ。どちらも、ある意味ウキウキ♪することなのだな。
まったくなにもしなくていい時間、誰にもなにも言われずに過ごす時間で、ぼやーっとしてなんとなく時が過ぎてしまう、そんなことが日常にないからちょっと嬉しかったりする。風邪をひいた時に、『きっと南の島で過ごしている人々は、毎日がこんなかんじなのかなぁ。。。』なんて、いい加減なことを妄想し、いつのまにか寝てしまうこともあった。
台風で早めに家に帰ってきたときは、外の風雨の音を聞きつつ、テレビの台風情報を見て、我が家に近づきつつあると、“台風の目”の中に入りたいなぁ−なんて思っていたりもした。

しかし、最近はというと、ウキウキ♪することには変わりないのだが、いつものように、ついPCの前に座って、IEのアイコンをクリックしてしまうのだった。

ぱそこん

しかししかし、パソコンってなんでこんなに不具合があるんだろうな。
そもそも成熟した市場経済における"商品"って不良品はもってのほかのはずなのに。よく訴えられないなぁと思うハナシがごろごろしている。仕事で扱っている薬品に、もし不純物が存在していれば即回収だ。車だって家電だって、即リコールだ。ソフトは、”とにかくヴァージョンアップを先走ってしまえ!バグは見つかった時点で公開すればいい”って感じだし、取り扱い説明書だってトラブル対処の説明はまったく不十分だし。
大概の人はパソコンショップでガイド本を買ったり、ネットで調べたりして、しのいでいるのでは?パソコンってそういうもの−と思うしかないのだろうな。

流行りものには気をつけよう

流行りものは、流行りものだから必ず廃れるわけだが、夕刊に興味深いコラムがあった。
若い人たちの間では、電車の中での“うけねらい着メロ”が恥ずかしくなってきているらしいのだ。
あるものが流行り普及しまくると、ある時点から急にダサくなる。着メロがその微妙な時期に来ているらしい。で、このコラムニストは、電車内で中年の会社員の携帯の着メロが鳴り、そのメロディが「少年時代」だったことに、まったく笑うに笑えなかったそうである。いと哀れなり…。

子供の頭の中は謎だ

ばあちゃんのお使いで6,7歳の男の子が買い物にきた。釣り銭と品物を握りしめた帰り際に、こちらに向かってこぶしを突き出し「お好み焼き攻撃〜〜〜!!!」と叫び、帰っていった。いったいなにが、彼をそのような行動に駆り立てたのであろうか?
間髪入れずに、「たこ焼き攻撃〜〜〜〜!!!」と対抗するべきだったのだろうか?うーむ…(-_-;)。

無能人

好きなようにやっていく。音楽は聴いてもらえればもうけもの。それでいい。そう思っている。そりゃ聴いてくれる人が多いに越したことはないけど。
ある意味、お金と同じだ。確かに多いに越したことはない。少ないよりゃ多い方がよい。
でも、身分相応ということもある。あまり多すぎると居心地がよくないこともある。(負け惜しみではない)で、もっと大事なことがあると思っているから。
平和に暮らしているからそんなことが言えるのだろうが。
音楽がなくても生きていくことはできる。音楽はそれだけのもの。無くても死ぬことはない。音楽に接していることは、そんなことをわかっていてやっているところがある。
一般的な社会生活においては、音楽を作ったりすることは、なんの意味もないんだ。しかし、それをあえてやるところに、またなんの根拠もない自分なりの意味がたぶんあるのだ。
つげ義春の漫画に「無能の人」があるけど、あの“無能”は、文字通りに能なしということではない。

インターネット上の文字ニュアンスで、(汗)は“冷や汗”や“脂汗”を意味するようだ。“焦り”や“困惑”のニュアンスもあるかな。
「いやぁ今日は蒸し暑かったなぁ(汗)」などとまともに書くと、嘲笑されるかもしれない。と書いていて、定義があるわけではないから、そう言い切ってよいものか不安にもなってくるが。

清涼飲料の商品名でポ●●スエットというのがあるが、スエットとは汗のこと。カタカナだと語呂がよいし、“発汗で失われた水分をスムーズに補給する”と缶に書いてあるからそれでよいのだろうが、これが日本語のままだったら、なんとも不味そうな商品名になってしまう。ポ●●スエット、こりゃぁ英語圏の人は飲もうと思わんだろうな、きっと。(汗...)

実話

これは、ベーシストのIクンから聞いたハナシ。
『数年前に中学の同窓会があり、当時の先生で黒川先生という人が来ましたが、信じられないことに、ハゲ隠しのため頭皮を黒く塗っておられました(゚o゚;;)
まさに“黒皮”先生だなぁと思いました。』

伝令

夏の高校野球、不思議に思うことがひとつある。それは“伝令”と呼ばれる作法だ。タイムをかけ、控えの選手が監督の命令を聞き、走っていってそれを当事者に伝える−あれ。
あんな規則は、たぶんアマチュアの野球意外に、どこのどんなスポーツでも見ることは出来ないだろう。
[選手以外はグラウンドに入れない]という規則があるからだろうが、実に実に実にくだらない。タイムで試合が中断しているのだから、プロと同様に監督が自ら直接命令すればよいはずだ。また、"伝令"という呼称もアナクロだ。軍隊じゃないっての!たかがダッグアウトからマウンドやバッターボックスまでの距離で、“伝令”はないだろうが。

一消費者としての暴論?

狂牛病騒動に関連し、国産牛肉と偽って国に輸入牛肉を買い上げさせていた企業に、弁解の余地はない。
では、輸入牛肉を“国産”と不当表示していたことについては、どうか?これは、別によいではないか!だって旨けりゃ満足だし、まずけりゃ次第に信用を無くすだけだ。
業者にだませる自信があるのなら、やったらいいじゃないか。消費者にしても、支払った金額に相応した満足を得られれば、たとえ表示に偽りがあろうとかまわない−と思うのだ。
自由経済って、ある意味“騙し合い”だ。新鮮に見せるために、ワックスかけて照明を当てたり霧を振ってみずみずしく見せたり。演出といえば聞こえがよいが、なるべくなら気付かれたくないこと。
スーパーの総菜はどうか。単品の刺身が売れ残ったら、盛り合わせに紛れ込ませる。それでも売れ残ったら、しょうゆ付けにしてネギトロ丼にする。野菜が売れ残ったら、使えるものは天ぷらの材料にまわす。スーパーならどこでもやっている。
それは効率をあげるための要領であり、わざわざ正直に表には出すはずもない。それで腹でも壊れたらその店の信用を無くすだけだ。食中毒でも起こしたら当然もう客は寄りつかない。米(こめ)だってそうだ。原産ブランドの不当表示?そんなもん初めから信じるなって。

無我無常

(仏教に詳しいわけではないが)人間の存在、いやこの世の一切の現象は“無我無常”というニヒリズムが教えにあるそうだ。
「○十万光年も離れた星の死の瞬間を映像で捕らえた」と、たまに新聞に出ている。星が誕生したり死んだりする、−それをこの目で見たわけではないが、おそらく事実なのだろうな。
また“キンチョールをハエに吹きかけて、そのハエがだんだん弱っていき、やがて動かなくなる” それを淡々と目で追っているのも、やはり現実なのだろう。
そしてそのどちらにも意味は…とくに無い。
“無我無常”それはあらゆる次元を越えた、真理なのだろうな。

以前からの疑問

例えば、人毛のなかで髭とか頭髪はほっとけばいくらでも伸びる。しかし、眉毛やすね毛や陰毛は適当な長さで必ず止まる。どのように長さを判断して、なにがそうさせているのか?不思議だ。

なぜ、上水道は上を省略して“水道”、下水道は道を省略して“下水”と言うのだろうか?「大地震」と書いてオオジシンと読むそうだ。「大震災」はダイシンサイと読むのに…。「思惑」は、シワクよりもオモワクと読む方が一般的らしい。音訓が混ざっているのは変だよなぁ。
「茨城」はイバラキが正しいが、テレビでもたまにイバラギというレポーターがいる。(ダメネェ...)葛城や宮城はギだから、仕方がないか。茨城県民でもイバラギという人がいるが、ほぼ間違いなく、別の県から移ってきた人だ。さすがにイバラジョーという人はいない。

肯定の時、首は縦に振る。否定のとき、首は横に振る。たいがい意味もなく人間はそうする。アフリカの山奥の人も、グリーンランドのエスキモーも、たぶんみなそうするはずだ。全世界共通なのか?逆にする地域もあるのだろうか?

子供の残酷さ?

子供は無邪気で正直すぎて、時に残酷なことを相手に言ってしまうことがある。そういえば、「おじーちゃん、お口くさ〜い」と抱いた孫に言われる入れ歯安定剤のCMがあった。

自分が幼少のころ親戚に小遣いをもらい、「かなり少ないけどもらってやろう!」と言ってしまい、母親にこっぴどく怒られたことがあった。親戚の叔母さんの表情はよく覚えていないが、かわいげがなかったと反省している。いや、結果的には反省しているが、これは“天然の残酷さ”とは趣が違っていたのだ。つまり、(子供ながらの)冗談のつもりだったのだ。しかしそうは聞こえなかったようで…(当たり前か)、子供心に血の気が引いてしまった。

給食の牛乳

中学校で、給食の牛乳がか〜なりの本数で飲まずに廃棄されているそうだ。(全校生徒650人中、毎日70本から130本の牛乳が捨てられている。)
自分が中学生の頃は飲むのが当然と思っていたから飲んでいたが、子供だったのだな。
飽食の時代の今の中学生が牛乳を飲まないのは、ちょっと考えてみれば当然のことだ。たとえば、給食の内容だが−【カレー、福神漬け、牛乳】とか、【鶏肉のゴマ酢かけ、キンピラ、ワカメのみそ汁、牛乳】となっているが、組み合わせとしては無茶だ。牛乳が飲みたくなるわけがないじゃないか。
たとえば、コンビニで昼食を買ったとする。サンドイッチやパンでも買わない限り、いっしょに牛乳を買う人はいるかいな?
そんな“つっこみ”をある会議でしたら、「それはそうだ!」と皆がニヤニヤしていた。しかし、明日もあさってもまた牛乳が給食にでるのだろうことは間違いない。もったいない。牛乳搬入業者と教育委員会の癒着?それはないだろう。(笑)冗談冗談。

種やのじいさま

近所に、種やを営んでいるじいさまがいる。大正二年生まれで88か89歳。
歯がない。足が弱い。薬もいろいろ服用している。メガネはいつも鼻の上にちょこんとのっている。ズボンの前のファスナーはいつも半開き、いや全開。
「同級生は全部死んじまったよ」とゆっくり話す。いかにも風貌は、“もうろくしたじいさま”のようだが、実はまったくボケていない。
彼は、アマチュアの画家なのだ。風景画の油絵を描く。いつも店でもくもくと描いている。写真の模写もやるが、最近はもっぱら想像で描いている。それも相当デカイ大きさ。
で、実力だが、これが相当な腕前だ。店にいっぱい飾ってあるのだが、その絵に吸い込まれていく。素晴らしい!自分は専門家でないからどう誉めたらよいのか言葉が見つからないが、色彩、構図、表現力が凄い。とてもあの風貌からは想像ができない豊かな感性を維持している。
絵のハナシをすると、とっても喜ぶ。「なぜ山や木々を描くの?」と聞くと、「俺の名前は○中 茂だからな」と言いながら“フェフェ”と笑った。
さてここで問題。茂じいさんの苗字は?[1.森中 2.山中 3.林中 4.最中]

結果オーライ・口中MIX

焼いた鶏肉をおかずにしてご飯を食べるとき、自分はご飯に唐辛子をかける。口に入れば同じこと。
冷蔵庫から取り出したバターが堅いとき、トーストを口に入れた後、削りバターをひとかけら口に含む。口に入れば同じこと。刺身を口に運んだ後にしょうゆをつけていなかったことに気づいた。そんな時は、しょうゆ差しの出口と逆側にある小さな空気孔が便利だ。
そこから適量のしょうゆを、ポタポタと2,3滴口に注入する。口に入れば同じこと。サンドイッチを作るのが面倒なとき、パンとレタスとハムとマヨネーズを順番に口に入れる。モグモグ…モグモグ…あーら不思議、口の中ではちゃんとサンドイッチになっている。ゆでたイカと、昨日食べた(野菜天からはがれた残りの)揚げ玉がたまたまあったときはラッキーだ♪いっしょに口に含むと、イカの天ぷらを食べた気になる。(良い子はどんどんマネしよう!!!)

国民の熱狂

自分が幼稚園に入るか入らないかの頃には、街頭テレビがあって、力道山が白人レスラーをカラテチョップでなぎ倒し、国民的英雄になっていた。今では考えられないが、NHKがプロレスの特番を放映し、視聴率も60%以上いっていたらしい。
その背景には、戦勝国(=白人)をやっつけて(豊かな)欧米に追いつこうとする、時代の"空気"があったようだ。それと同列に語るのはかなり無謀とは思うが、韓国のW杯の熱狂をみてそんなことがチラっとダブった。

TV2.gifでは、今の日本で、仮に日本チームが4強にでもなったとしたら、韓国と同じように熱狂したのだろうか?そりゃ大いに盛り上がるであろうが、その"質"はいささか異なるのかもしれない。

日本がトルコに負けた翌日、青いユニフォームを購入したという誰かが言っていた。「あー残念だなぁ…。まぁいいや、今日から阪神を応援しようっと。」この人、コテコテの“今”の日本人だと思った。
さて、この日本人気質を「国家が成熟し、価値観が多様化した証」と見るか、それとも、「単なる自嘲気味の負け惜しみ」ととるか?

最近はテレビをほとんど見ないのに偉そうだが

ある意味、この国のプロサッカーはプロボクシングと似ているような気がする。
どちらも国内のレギュラーゲームは地味だが、国際試合はめちゃくちゃ盛り上がる(逆にプロ野球やプロレスは国内試合が中心だ) 。
(特別な国際試合は別にして)サッカーって、従来の日本人的感覚からすれば、どうもテレビには相性がよくないような気がする。なにせ、一時も目が離せない。なにかをしながら見られない。
その点プロ野球は、攻守の切り替えが明確で、CMタイムが頻繁にありスポンサーも喜ぶ。なにかをしながら見られる。進行の間が遅いので“アマチュア評論家”になってゆっくり見ることができる。進行の間が遅いといえば、大相撲だ。日本人はどうも“間”がある競技を元々好むのではないか?
そんな日本人が従来の嗜好感覚を変えつつあるとすれば、いずれ国内プロサッカーのレギュラーゲームがゴールデンタイムで定着する−はずなのだが。

爺、引退せよ!または早く死んじまえ!

自民党の江藤・亀井派の江藤隆美とかいう爺がまた暴言を吐いた。
「応援しようとテレビを見ているが、髪の毛が茶色いヤツが日本人じゃ、どっちが敵かわからん。やはり国家を代表する意識をもつべきで、ただ技術が高くて点数をとって金儲けが出来るならいいというものではない」「髪の赤いのは相手を脅かす−というが、ニワトリの真似なんかせんでもいい。」
とんでもない時代錯誤。こんなズレまくっている感覚をもって公然と発言すること自体、政治家失格だ。
てめぇはいやしくも国会議員だろ!派閥間の権力争いばっかりやっていないで、その“国家を代表する意識”をもって、ちゃんと仕事をしろ!バカヤロウ。(まぁ無理か…)

“ニワトリの真似”といわれた髪の赤い戸田選手は、自分の立場をわきまえ、ファールを怖がらず、ひたすら相手の攻撃を阻止する泥臭いプレーが信条だ。
点取り屋や司令塔は華やかだが、彼のように自己犠牲的な悪役に徹して仕事をすることこそ、真のプロの美学だ。戸田!ガンバレ!!

代理母鳥

小学生の頃、家では小鳥をたくさん飼っていた。
名前はとっくに忘れたが、耳慣れない品種の小鳥も飼っていた。しかし、その小鳥は子孫を残すのが下手だったようで、私の父が卵を取り出し、ジュウシマツの雌に卵を抱かせ、生ませていたのを覚えている。
(人間の勝手で、)小鳥の中でも種の優劣が存在していて、ジュウシマツは利用されているな−と子供心に感じた。で、きょうの新聞の地方版に、“キジの母はチャボ”という記事があった。(←ダジャレではない。)

なんでも、草むらの中で卵10個を見つけた人がチャボにそれを抱かせたら、七羽のキジが孵化し、チャボ(母役)の背中に乗って遊んでいる−とのこと。やがてキジが成鳥になったら、どんな態度をチャボにとるのだろうか?

インターネット

中高年の人たちが、ネットを通じて趣味の交流をしている−と新聞に紹介されていた。
また、様々な事情で体が不自由な方々が、インターネットでの人とのふれあいで生きる勇気を確認した、という主旨のテレビ番組を何回か見た…ほんとうにほんとうにほんとうに、そうなのかな。
99年の暮れにネットを始めた。自分にとって、自分の作ったものや思いを不特定な人々に発信すること自体が、文字通り生まれて初めてのことで、確かに画期的なことだった。
基本的に、作ったモノを誰かに感じてもらいたい、出来れば認めてもらいたい、と思う気持ちはオレにも人並みにある。しかし、(それと同時に)−それがいったいナンヤネン−というもう一人の自分も…いた。
人に聴いてもらいたい、感じてもらいたいと思う反面、なにか虚しい気分もある。そしてそれはWeb上だからこそ、より強く思うような気がする。
人は他人と面と向かって会話をするとき、(時に煩わしさを伴いつつも)語感・イントネーション・表情・体のしぐさやら様々な情報を、五感で意識あるいは無意識で感じながらコミニュケートするわけだ。
Webではどうかというと、コミュニケーションの取り方が合理的ではあるがなんの肉体感も表現されない。不純物を含まない無菌パックしたある種の二次的キャラクターを(私も含めて)誰もが演じている−と言ってしまっては言い過ぎかもしれないが、そんな印象もある。

個人レベルの情報伝達の手段は手紙、電話に始まり、ほぼリアルタイムに、不特定多数の人間とコミュニケート出来るところまできた。便利になると同時に、人は都合良く合理的に洗練されたコミュニケーションをとるようになった。それはそれで結構なこと。しかし、なにか割り切れないもどかしさも潜在している−そう、戸惑っているのは自分だけだろうか?だから、“この人に会いたくなった”なら必ず会う-そうしたい。そう思うのだ。

日本語の不思議な法則(外国人はタイヘンだ!)

おリンゴ、おミカンはあるのに、おバナナやおイチゴとは言わない。
お塩、お醤油、お砂糖、おダシはあるのに、おみりん、おコショウとは言わない。
お酒、おビール、おつまみはあるのに、おワイン、お焼酎、おウィスキーとは言わない。
お刺身、お寿司はあるのに、お天ぷらとは言わない。
お時間です、はあるのに、お時刻です、とは、言わない。
お猿さん、お馬さんはあるのに、お猫さんとは言わない。犬の場合、お犬様はあるが。
お米はあるのに、お粟、おひえ、おきびとは言わない。
お帽子はあるのに、おカツラとは言わない。(以上2つほど、WAJINどんからの追加)

某ドラッグストアの広告チラシにある商品名にはびっくりした。繊維食品なのだが、その名も・・・便どっさり (-_-;) 便秘症は若い女性に多い。レジで恥ずかしくないのだろうか?
それとも、ギャッハッハと笑いながらあっけらかんと買っていくのか?せめて"便"はカタカナにして欲しい。ただこの商品、そのインパクトある名前が功を奏したのか、売れているらしい。ふ〜ん。(←一応ダジャレ)
それなら利尿効果のある薬草をティーパックにした小便どっさりというのはどうだろうか?

交通事故を減らすには

誰も言い出さないのが不思議で不思議でしょうがない方法がある。それは簡単なことだ。公道を走る全ての車は、警察、消防関係を除いて時速100km以上出せなくすればよいのだ。制限速度は、高速道路が100km/h、一般道路はおおよそ50〜60km/hなのだから、100〜200km/hを出せる設計自体、完全に違法なわけだな。逆に言えば、速度違反の法令は"警察が見ていなければいくらやってもかまわない"ということなのだ。自動車メーカーに聞いてみたい。「なぜ100km/h以上出せる一般車を作っているのか」と。

悪ふざけ

小学生の頃、今考えればぞっとするあくどいいたずらを3つした記憶がある。
ひとつは、何かの団体旅行の時、走るバスの窓から歩いている人に向かってゴミをぶつけたこと。ふたつ目は、学校の人のいない印刷室でインクの入った缶をわざとぶちまけて逃げたこと。もうひとつは、ある食堂のガスコンロのガス栓を開けて逃げたこと。(オイオイ)今考えると冷や汗ものだが、あるおばさんが異臭に気づいて栓を閉めたので大事に至らなかった。
どのいたずらも悪ふざけで、他人の迷惑をなんにも考えていなかった。
昨今インターネットの世界では、新種のウイルスが猛威を振るっている。子供の悪ふざけと根は同じなのではないかな。大人になりきれない歪んだ行為と思う。

家畜の常識

文明による生命操作だとか、別に大げさなことを言いたいわけではないが、あまりにも当たり前すぎて、不思議に思わなかったことがある。
それは、家畜の乳牛とメスのニワトリのこと。本来、乳というものは、子供が産まれ、その子の生育のために雌のおっぱいから出てくるもの。また、卵は、雌が受精してヒナが生まれてくるまでのプロセスのはずだった。少なくとも、人間や家畜でない動物は、今でもそのようなしくみになっている。
しかし、乳牛は子供を産んだわけではないのに毎日大量の乳を放出しているし、雌のニワトリは受精していないのに、ポコポコポコポコと毎日卵を放出している。それを、人間は当たり前に飲んだり食べたりしている。
家畜は、人間が生きていく上で無くてはならないものであるし、そのための改良は人間の英知の結晶であることは自明のことだが、毎日食卓に並ぶ牛乳や卵を見て、何とも言えない妙な気分になった。

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