音楽編123456789

直感DE雑感7

若者言葉

“若者言葉”という言い方も好きじゃないが、例えばこんなもの。(読売新聞の記事から)

使いたいとは思わないし、聞くのもあまり好きじゃない。自分の意思を曖昧にすることで対人関係の摩擦(リスク)を避けたい心理らしいが。

「微妙」や「うざい」や「やばい」とかは、場所や相手を間違えなければオレ的にはいいんじゃないかな?みたいな。。。あれ、やばい?

HTML(2)

サイトを作っている人たちは、様々なオーサリングソフトを使っていると思うけど、Win.用のホームページビルダがいちばん多いのかな。
僕の場合、最初はFrontPageExpress、その次がFrontPage4.0、その次がFrontPage4.0とビルダの併用だったが、次第にHTMLもCSSもなんとなく覚えてきて、高度なことは無理だけど、今はテキストエディタで書いている。慣れてくれば間違いなくこれがいちばん楽。無駄なタグは一切作られないし、動作もこの上なく軽快だし、テキスト主体ならこれで十分。
ただし、文法チェックはたまにやっている。これ大事!100%厳格にしないにしても、自然と基本が身につく。関連雑記

うっかり文法が間違っていても、IE(4.0〜6.0)では大概なんとなくふつうに表示されてしまう。よくも悪くもアバウトなブラウザがIE。しかし、愛用しているMozilla Firefox(利用者急増中)やNetscapeでは、ちょっとした間違いでもシビアで無残な表示結果になる。(Operaは使ったことが無いのでわからない。)

教育の場

散々兄から暴力を受けていた15歳の弟が兄を殺した事件のあとに、福岡県の教育長が県内の校長を緊急招集し、“命の大切さ”についての啓蒙強化を指示したそうだ。
これって問題認識が微妙にずれていないか?
命が大切なことは言うまでもない。しかし、そのニュースからは、教育の場では殺人を犯してしまった弟の心の闇にまでは踏み込めないのだな、という印象だけが伝わってきた。

恋愛の歌

PCのDドライヴにはDLした曲を保存してあるフォルダがあり、ふと、ぶっ続けで聴く時がある。やはりいちばん聴くのは自分が関わったものだが、人の作ったまともな恋愛の歌も、まれに続けて聴くことがある。(^.^)
ちょっと照れくさいが、思い切ってお気に入りの4曲をご紹介♪

思い出になるように/MIYAKO
愛があるから/小谷隆
壊れた恋をなおそうよ/Sigil Project(Vo.neco)
あと少しだけ.../Kin'sRoo & neco

小谷さんは、ピッチャーでいえばキレのある直球勝負。MIYAKOも小谷さんの制作で、抑制が利いた正統派。necoちゃんの歌ったSigil=WAJIN制作曲は抜群のリアリティがある。禁猫のは小竹が編曲です。
まぁ、こんな一面がわたくしにもあるということで、ご理解くだされば幸いです。(笑)

虚しいボヤキ

橋梁(きょうりょう)談合は40年続いていたそうだが、国の責任は問われないのね。落札する業者が妙にバラけていたり、価格が妙に高値安定していることに、道路公団の管轄官庁である建設省(現・国土交通省)が40年間も気づかないわけないじゃんか。阿吽の呼吸ってやつだろ。

安保理・常任理事国

現在の常任理事国は第二次世界大戦の戦勝国で占められ、拒否権という大きな特権を持つ。(このこと自体、不平等という意見も多い。)
国連改革のひとつとして常任理事国の拡大案が議論されている。常任理事に名乗りを上げているのが、ドイツ、インド、ブラジル、日本。拡大案に反対しているのが、それぞれの隣国(ライバル)であるイタリア、パキスタン、メキシコ、韓国。加えて既存の常任理事国(アメリカ、ロシア、中国、イギリス、フランス)も既得権益が薄まることを危惧して消極的、または反対。

一般的に、対立が拮抗している場合、利害から距離を置いた第三者(機関)が仲裁するものだ。
しかし、地球上もっとも厳粛で公的な共同体である“国家”間の複雑な利害対立においては、世界中すべての国家が直接的または間接的な利害当事者でもあり、公平な決定を下す純粋な第三者などいるはずも無い。全人類を見渡す“神様”でもいるのなら話は別だが。┐(ーへー)┌
そこで、わたくしが天の声に代わって提案!\(`^´)/
すべての国家に権利のある「15年に一度のくじ引き」にしなさい!

やりたいこと≠出来ること

5月5日に何気なく日記に書いたふとがね金太さん、検索したら今でも活躍されていた。オフィシャルサイト
彼は元々シンガーだったそうで、ヤマハ主催のコンテストのために、ツイストに誘われた時点で特訓してドラマーになった、ということを昔聞いたことがある。(きっとキャラクター優先だったんだな。)テレビの音楽番組で見た限りでは、難しいテクを使わずに、それなりにシンプルでざっくりプレイしていたのを覚えている。(それは、おそらくインストラクターか編曲者の手腕でしょう。)

私事だが、大学時代にクロスオーバー系のバンドで楽器店主催のコンテストに出て、予選を通過したことがある。その時の審査委員長の音楽評論家・相倉久人さん曰く、「キミたちは自分たちで出来ることを知っている」というものだった。つまり、技量を超えた無茶をしていない=まとまりがよい、というところを評価したようだ。言われてみれば、うちのバンドに超技巧派はいなかった。(苦笑)
無茶してしまうのもアマチュアの特権だが、自分たちが出来ることを知っていて、余力を残したもののほうが、聴いている人には訴えるのかもしれない。

永遠にわからない?

縁とかめぐり合わせというものは、まったく不思議なものだ。はたして偶然なのか必然なのか。

父の危篤が続いていた時のこと。刻々と死期が迫り、と同時に東京でのイベント日も迫ってきた。散々考えた末に、思い切ってイベントに出席。その数日後、父から僕への仕事の名義引継ぎの手続き(数回出向いたうちの最終日)のために県庁のある水戸に向かった。それを完了させ、午後に帰ってきて間もなく、まるですべてを見届けたように父は息を引き取った。

家の古い土蔵部分。十数年前の改築時にも壊すに壊せなかったものが、あることがきっかけで、すんなり決断が出来て、解体することになった。
振り返れば、(今では完治した)母の病気が続いていたり、日々の仕事・業務の質に大きな変化が無かったりしたら、おそらく決断は出来なかっただろう。

別に運命論者ではないのだが、自分の力だけでは成立しない大きな変化が、時に自然に訪れると、ある意味、とても不思議な気がするものだ。そしてそれは、きっと幸せなことなのだろう。

音楽制作

まぁ、改まって大げさに書くこともないかもしれないが、自らの音楽制作の姿勢はというと、《目の前にあるものをやっていく》というシンプルなものである。

気の合う仲間から誘いがあればいっしょに作るし、また、こちらから誘うこともある。たまたま時間に余裕があれば自分だけの音楽を作る。どちらが重要だとか比較することもない。ただ日常的に“作る”だけのことだ。そして人に聴いてもらえれば儲けもの。反応があれば素直に嬉しい。
個人作品のCDを作りたいとも特別思わないし(組んでいる相手が作りたい場合は協力するが)、公に認められたいという欲求も無い。ふつう、音楽を作っている人はもっと自我があると思うのだが(苦笑)、なぜかそういう気分にはならないんだな。単に面倒くさがりということはある。
以前は、他人に聴かれたとしても所詮、刹那的なことだな、とか、こんなことやっていて、いったい何になるのかな?とか、たま〜に思う時もあったことはあった。でもそんなことを考えていること自体下らなく思えて、吹っ切れてしまった。
音楽を作る上でのもうひとつのキーワードは《音の会話》だ。他人と作る場合は常に“セッション感覚”を大切にしたい。バンドシュミレーションは言うに及ばず、たとえ職人もどきで裏方に徹したとしても、出来るだけ同時に音を出しているような会話感覚があったほうが良いと思っている。というか、そういう方法が好きなのだ。それは、以前バンドでドラムを叩いていた頃からずっと意識しているものだ。

大人の解決(2)

日曜日、テレビ朝日のサンデープロジェクトを途中まで観る。非常に客観的で説得力のあるコメンテーターが出演していた。
あくまでも素人のカンだが、最終的に亀淵さんと堀江さんは手を結ぶと思っている。なぜなら、亀淵さんは元々新しい価値観に対して寛容な人だからだ。
ニッポン放送の生え抜きで順調に出世して、今は社長さん。立場上、既存の会社を守る立場であるわけだし、その温厚な人柄で敵も少ない。しかし、一方で元来持っている革新性は深い眠りについていたに過ぎない、と思うのは僕だけだろうか。

大人の解決(1)

ソフトバンク系の金融会社が突如登場し、フジテレビ株を“疎開”させてしまう件が新聞やテレビで報道されている。そして“大人の解決”を模索するらしい。
つまり、ライブドア所有のニッポン放送株を(イロをつけて)買い取るつもりということなのか。もしそんなことで収拾が図られたら、今までのことはなんだったんだ!という大きな虚しさが残るよなぁ。

シンプル

《様々な人間関係や事情が絡んで物事の行方が混沌としてきた時、余計なことを考えずに個人主義でシンプルに行動する》−−−そんなことを意識したきっかけのひとつは、映画「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」のロバート・デニーロ演じるヌードルスを観てからだった。

全員一致

ニッポン放送の社員“全員”がライブドア支配下に移行することに反対しているそう。そしてここにきて、今まで存在していなかった労働組合を立ち上げたそうだ。また、フジテレビの労組も同様に断固反対だそう。
「組織」は一糸乱れぬことが理想かもしれないが、現経営者と手を取り合っている労組なんて健全な姿といえるのだろうか?独裁国家における官製デモをちょっと連想してしまう。
いたずらに賛成しないまでも、様々な観点からライブドアに疑問点を質したりすることがあってもよいのでは?つまり、仮定として、どんな環境下で仕事をすることになるのか、その環境下で自分はなにが出来るのかを探りたい社員はひとりもいないのだろうか? (まぁ、電子メール等を使って水面下では行なわれているかもね)

また、“全員一致”の裏を返せば、それだけの多様なアプローチを許容できる懐の深さはもち得ていないということであり、想定外による危機意識の証なのだろう。しかしながら、無理やり(?)の“全員一致”はなにか薄気味悪い。

"Live At The Harlem Square Club 1963" Sam Cooke

ディープなソウルミュージック。お気に入りをあえて三枚あげようと思ったが、どうしても四枚になってしまう。コアなディープソウルファンはライヴ盤を代表作に選ぶことを邪道とするようだが、そんなの無視無視!

そしてそして、サム・クックの「ライヴ・アット・ハーレムスクエアクラブ1963」である。
気が晴れなかったり悲しい気持ちになった時にはこれを取り出して聴く。心の中が泣き笑い状態になり、開放されるのだ。
HMVのレヴューがこのアルバムの凄さを的確に表現しているので、下記に勝手に引用させてもらう。

【聴く度に震えが止まらない。こんなアルバムに出会うのは一生に一度か二度あるかだ。溢れ出るゴスペル・フィーリングを止めることの出来ないサムの歌にただただ胸が熱くなる。キング・カーティス楽団をバックに、サムは精緻なヴォーカルコントロールで、寸分の狂いもなく熱くシャウトする。オープニングから異常に高いテンションで始まり、"Twistin' The Night Away"で盛り上がりは頂点に。63年の録音時にポップ・シンガーとしてのサムのイメージを壊すという理由でお蔵入りになった本作、白人がよく利用する名門クラブ「コパ」でのライヴ盤と簡単に比較出来ないが、サムの「ソウル」を直に感じたいなら、やはり本作しかないだろう。】(HMVレヴューから引用)

ながら聴き

coffee流しっぱなしの“ながら聴き”って、車を運転している時以外にはあまりないのだが、たまたまそういう時はラジオがよい。それもトークの極力少ない音楽主体のもの。(ちなみに僕の場合、お気に入り選曲のMDやカセットを作る習慣はまったくない。)
日曜の午前中のAFN(旧FEN)はノリのよいインストのソウルジャズが延々と流れている。これいい♪ 昼過ぎると(ど)カントリーになってしまい、ちょっと残念だがトークが多いよりはマシ。
CSやBSに紙面を割かれたからか、新聞の番組表を見てもAFNって小さく小さく省略されている。まぁ駐留米軍向けだからしょうがないやね。
ネット経由ならMSNのネットラジオが音楽のみでよい。(ただしIEユーザでないと使えない)

野茂と堀江社長

野茂投手がメジャーに行く時、たしか当時の規則に合致せずゴタゴタして、結局、特例的措置でドジャースに入団したんだね。あの時、生意気だということで彼はずいぶん叩かれた。その後、先駆者・野茂の件がきっかけとなり、制度改正が図られ、今ではメジャーに日本人がたくさん在籍している。
上記のエピソードがそのまま堀江さんに当てはまるとは思わないが、生意気だとか、ふてぶてしいとか、感情がないとか、根回しが下手とか、ネクタイをなぜしないとか、そんなことが本音にある政治家や文化人コメンテーターは事の本質を見誤ってしまうだろう。

栄枯盛衰

ずいぶん前のことだけど、コクド前会長の堤容疑者をテレビで見て異様に思えたことがある。
常勝西武ライオンズのオーナーだった彼は、毎年、年次報告を森監督にさせていて、その模様をわざわざテレビ局などの報道陣に公開していた。
テレビで観たその高圧的な態度がとても不快だったし、森さんの態度は過剰に恐縮した振る舞いで、これも不快だった。で、僕は「あぁ、この堤って人は裸の王様かも…」と直感した。あの光景をわざわざ一般に公開していた理由は一体なんだったのだろう。
逮捕前、不法に所持していた西武鉄道株を自ら“営業”して仲のよい大手企業などに売りさばいていたそうだが、あれほど緻密に事を運ぶやり手経営者であっても、狼狽すると悪あがきして我を忘れるものなんだな。信用して(断りきれずに?)買うほうも買うほうだが、「彼が急に株を売りたいなんて、なにかおかしいな?」と、気づく企業はひとつも無かったのだろうか。

裁判官が証券アナリスト?

ラジオ局ライブドアが時間外取引でニッポン放送の株を大量に確保したことも、ニッポン放送がフジテレビに大量の新株予約権を与えることも、モラルとして問題視されているが、日本市場の証券取引法が敵対的M&Aに関して未整備なままであったことが前提にあるようだ。
アメリカでは1980年代に同様なことを想定して法整備をした、とのこと。ある意味情けないハナシだが、こういうことは、いざ起こってみないと対応出来ないのかも知れない。
それはそれとして、現実には法整備がされていない時点で事は起こってしまったわけで、さて、裁判所は(ライブドアからの新株予約権発行差し止め請求に対して)どんな判断を下すのだろうか?
法判断の基点は、「(ニッポン放送の)大株主たちが勝手にやったことが、一般株主にとって不利益をもたらす事項かどうか、有益性があることかどうか」ということ。つまり、言い換えれば、裁判所がニッポン放送株の未来価値を予測して判断する、ということになる。はたして裁判官が株(=企業価値)の未来を正確に予想出来るのだろうか。

江戸アケミ

江戸アケミ率いるじゃがたらのドキュメントDVD「この〜!!(もうがまんできない)」を観た。一言で言えば、とびきり楽しく、そしてとても悲しい。

じゃがたら(JAGATARA)のCDは10年前くらいに後追いで数枚購入し、毎日よく聴いていたのだが、不覚にもいつしか未整理の膨大なCD在庫の中で埋もれてしまっていた。
じゃがたら及び江戸アケミのことは、ネットで検索すればいくらでも説明がある。
このDVDは1987〜89年の貴重なライヴ映像とボーカリスト江戸アケミの長時間インタビューの記録だ。詳細はミュージックマガジン2005年2月号丹羽哲也氏の解説にある。DVD自体のライナーも充実している。 じゃがたら/江戸アケミに出会った衝撃は、ジョン・レノン(ジョンの魂)、頭脳警察(ファースト)、ジャックス(ジャックスの世界)に出会って以来のものだったように思う。
また、ロックンロールはポーズでもなく、単なる音楽ジャンルでもなく、それは「生きること」と同義である、と、彼の不器用で誠実なパフォーマンスは訴えかけていた。(早川義夫言うところの)“カッコイイこと”がどれほどダサイことなのか、ということも内包されていたように思う。
だからといって、メッセージ性重視で音楽的な要素が無かったかといえば、そんなことはない。パンクとレゲエとロックンロールとブルースとアフロファンクがほどよくブレンドされたグルーヴィな音楽だった。
それは無論、表面上の音楽スタイルの模倣に止まらず、その向こう側にあるとても特別ななにかを直感的に捉え、かつ共感していた証だった。しかし、その方法論に限界を感じたアケミは亡くなる3日前にじゃがたらからの脱退を意思表示している…。 さんざん既出の事項だが、江戸アケミは「俺は俺のロックンロールをやるから、おまえはおまえのロックンロールをやればいい」と言っていた。それぞれがどこかでシンクロすればそれでいいと。
彼は太く短く生きたのだろうか?亡くなってから15年が経過し、他の夭逝の巨星たちと同様に生きざまは伝説化されてしまっている。
死そのものよりも、むしろこれを因果と捉えなければならないとしたら…そう考えると、とてもやりきれない思いがする。 今一度、眠っていたじゃがたらのCDを取り出し、聴いてみようと思う。まずは「南蛮渡来/暗黒大陸じゃがたら」から。

外野がうるさい

僕はライブドアの味方でもなんでもないけど、専門家や新聞などマスコミのライブドアへの風当たりは強いね。イメージとして、フジテレビが「善」でライブドアが「悪」という図式だ。
常識を超えるものが現れると必ず拒否反応が起こるのは仕方ないとはいえ、あまりにも偏向しているのではないか?
法的に問題があるなら別だけど、資本主義社会で起こっているM&Aのひとつなんだから、周りでどうのこうの言っても仕方がない。
自民党の森前首相なんて、相変わらずおハナシにならないくらい感覚がずれている。アホだ。政治家は黙ってろ!

作品に惚れる

「商品に惚れなければ売れない」とよく言われるが、そのとおりで、惚れていない商品をお客さんに勧めてもどこか説得力に欠けるものだ。
他人の曲をアレンジする場合においても、その曲に惚れないとフレーズは生まれない。そういう意味で、僕は惚れっぽい性格なのかもしれないな。(笑)ただし、なんでもよいってわけではないけどね。
それと、変身願望かな。自分自身にはあり得ない他人の世界に入って、その世界と同化する楽しさもある。
振り返ってみれば、譜面も読めず編曲の基礎勉強などしたことの無い僕が、他人の曲をいじる機会がそれなりにあるということは予想外のことだった。でも、どうにか結果を出せているようで不思議といえば不思議。

リアリティ

自分の中で、これは良いな♪と思う音楽に共通することってなんだろう?と考えると、“リアリティ”という言葉が浮かぶ。それは日本語の“現実感”とは微妙に異なる。
架空のことを歌っていようが、人工的な音づくりであろうと、作者の中にあるリアリティ、もしくはその音世界にリアリティがあるかというのが、無意識の物差しになっているように思う。
そういう意味で、体裁だけのもの、なにを訴えているのかわからない散漫なもの、作者の想いがまるで見えないもの、それ自体が匿名的なもの、などには興味が向かないようだ。

ぶんかじん

日曜日、朝食時にテレビをつけてTBSの「サンデーモーニング」(関口宏が司会)を何気なく見ていた。この番組のコメンテーターたちは、世間で“文化人”としてくくられるだろう人たち。おおよそ当たり障りのないいかにも“常識派”で予定調和的な発言ばかりしていて、常日頃、司会者も含め素直に耳を傾けられないところがある。
番組の中で、一部がシールで伏せられたブッシュ大統領と側近のパウエル氏が映る写真が示され、「パウエル氏が手に持ち、大統領に向けられたシールの下の部分は何でしょう?」と司会者。誰もわからず、司会者がシールを剥がすとカメラ付きケータイが現れ、コメンテーター達が一様に驚き笑いに包まれた。しかし、この写真は数日前の読売新聞に掲載されていたんだわ。
コメンテーター達の反応を真に受ければ、数日前の新聞を誰一人として見ていなかったことになる。(おいおい…) 知ってはいたが知らない振りして演出として驚いた? だとしたらあまりにも予定調和的で陳腐な演出だろうが。白けるね。

拉致

拉致被害に遭われた多くの日本人を北朝鮮は返そうとしない。
被害者のご家族が民間レベルで世間にいくら訴えても、人道的に解決せよといくら政府に訴えても、…残念なことに虚しさがある。 該当する方々は、おそらくあちらの国家中枢の近くにいる、もしくは、かつてそこにいた方々では、と容易に想像させられる。となると、身勝手な話だが、あちらとしては到底日本に返そうにも返せない。
つまり、国家間の極めて高度な政治的決着に頼るしかないわけで、現状では、あちらの体制が変わりでもしない限り、打開は極めて困難に思える。
血も涙も無いことを書くな!と思う方もおられるだろう。また、自らにおいても、そんなこと今更一個人が書いてどうなるものでもない、という思いはある。
しかし、国家体制に優先する個人の尊厳など無いに等しい、という現実を直視出来ずに、ただ感情的な発言をする多くのテレビコメンテーターたちを見ていると、腹立たしくなるのだ。

Blog

Blogってトレンドなんだろうなぁ。日記やコラムをそちらに移行する人もかなり多いようで。いろんな拡張機能がついていて、楽天ブログのようにほとんどひとつの個人サイトと同じようなのもある。
無料ブログサービスの比較サイトも多数覗いてみた。各サービスとも、それぞれ特徴はあるのだが、まだまだツールとしては発展途上というかんじ。 ある意味、従来のサイト形態が個人商店とするなら、Blogはショッピングモールに入居したテナントのようでもある。トラックバックの自動リンク機能なんて自力では無理だし、人の集まるところに身を置くことは、交友関係の幅を広げるには有効かもしれない。
ただ、今までなれ親しんだ従来のサイト作りも捨て難いのでしばらく様子を見ようと、腰が重いのであった。
ん!いや、既存のこのサイトとは関連付けせずに、従来のコラムコンテンツをアレンジ&再利用で、試験的に様子をみてみるのもアリかな?仕事や日常のことをあまり書く気にならないし、もし、僕が使うとしたら音楽に関連したコラム−とは思うんだが…。05.1.14

ホール&オーツ・オーケストラ
Tonight only!!!! ...featuring Hall & Oates, The Temptations Review (Eddie&David), and Mick Jagger & Tina Turner with "The Hall & Oates Orchestra"

LIVE AIDには優れたパフォーマンスがたくさんあるけど、とくにクィーン、エルトン・ジョン、デビット・ボウイ、ザ・フーなどのイギリスのベテラン勢は貫祿もあり、大きな会場全体を掌握した横綱相撲で、やはり抜きんでている。当時の若手の中ではU2に特別な勢いを感じる。
イギリス・ウェンブリーのステージは、パフォーマンスに聴衆が集中していて会場全体に一体感があるが、アメリカ・フィラデルフィアの方はあまりにも巨大な会場だからか、あるいは国民性なのか、やや散漫なかんじでステージと聴衆の一体感が今一つ感じられない。
そんなフィラデルフィアの中でも、《ホール&オーツ〜モータウンレビュー仕立てのテンプテーションズメドレー〜ミック・ジャガー〜ミック・ジャガー&ティナ・ターナー》の数十分は、個人的には最高のお気に入りだ。そしてこれらの演奏はホール&オーツ本人達も含めた彼らのバンドが通して務めている。(クレジットは“ホール&オーツオーケストラ”で、ブラスセクションやパーカッションなどのサポートも含む)
ミックが入ってからの部分は、どの程度リハをやったのか定かではないが、ギタリストG.E.スミスが展開の指示を全身を使って気迫で示しているところを見ると、ほとんどブッツケだったのではないだろうか?
それにしてもサスガだ。演奏は余裕で手堅く、しかもグルーヴィーで、即席仕立てとは思えない。ある意味で、これこそ真のプロフェッショナル!と言える。
ティナとミックは、アイク&ティナターナー、ローリングストーンズというそれぞれの立場で、60年代から第一線で活躍し、70年代前半あたりには確かスト−ンズの前座でアイク&ティナは共演していたと思う。(未確認) 古いつき合いで気心が知れているだろうし、エンタテイナーとしての息もぴったり♪
そんなこんなを十分承知しているはずのホール&オーツ・オーケストラが先輩に敬意を表しながら、心から嬉しそうにバックバンドを務めている。そして、それを観ている僕はとても幸せな気分になれる。
この組み合わせを誰が考えたのかは知らないが、してやったりだろうな。関連コラム

からっぽの焦燥

M.K.WAJINさんがソロで作る世界は、日常からかけ離れているにも関わらず妙にリアリティがある。それは、自らの創作欲求に忠実だから、という理由だけでは済まされない、まさに彼女ならではのものだ。

平凡な人間の場合、創作しようにも既知のニュアンスが必ずと言っていいほどどこかで顔を出す。下手すると、作ってみればどこかで聴いたような使い古された歌詞、どこかで聴いたような曲が出来あがり、「なんてこった!」と、うんざりすることもある。いや、それさえも意識できずに恥ずかしげもなく「オリジナルでーす」などと、発表したりする人もいるが…。それに悪気はないにしても、残念ながらこちらの耳には響かない。(なにかにリスペクトしているならそれなりの面白さはあるが。)

WAJINさんの歌詞と、それを自ら歌った表現力と、音の使い方には独特な感性が必ず息づいている。 作品の印象を明暗で言うとしても、“明るくもなく、また暗くもない、どちらともいえない世界”となる。明暗では語れない別の次元にあるように感じる。
なににも似ないとしたら、それは既存の音楽に詳しくないから−と本人は謙遜するのだろうが、実は、才能のある人は、既存の音楽を収集目的で集めたり分析的に聴いたりする欲求が、比較的少なかったりするものだ。

原音はどっち?

「ライヴエイド」のデビット・ボウイのバックのドラムなんだが、もちろんプレイは同じなのに、リアルタイムでテレビ録画したビデオの音(モノラル)と、20年後のDVD(ステレオ/サラウンド)ではまるっきり音色が違う。え〜〜〜!こんな音だったっけ?というくらい違う。どっちを信じてよいのやら?その場でナマで聴いていたら、また違うかもしれない。前者はエフェクトをかけて増幅したようなサスティーンが効いたかんじで、後者はわりとノーマル。バランスは後者のほうがよいが、迫力は前者のほうが数段上。だからサウンドエンジニアは信用できない、ってことだ。関連雑記

永遠のモータウン

永遠のモータウン」をDVDで観た。アメリカ合衆国ミシガン州デトロイトで生まれたミュージックレーベル・モータウンは、数え切れない名曲を60年代から70年代前半にかけて世界に送り届けたが、華やかな人気シンガー達を影で支え続けたレコーディング・バンドがファンクブラザーズ。そんないぶし銀の職人ミュージシャンたちにスポットを当てた物語。音楽映画としても、また、人間ドキュメンタリーとしても十分に楽しめた。
登場するほとんどのミュージシャンは、ジャズを通過してその道を選んでいる。しかし、ビートのまったく異なるソウル・グルーヴを作り出したのは、まさしく彼ら。
なにせ、力まない、無駄な音を一切出さない、ビートの裏をしっかりと体感している。そして、彼ら誰もが、音楽に対し深い愛情を持っていて、真面目である。ソウル・グルーヴの源泉を実感した。 ※追記
モータウンの音楽はあくまでもボーカルが主役。そしてファンクブラザースはあくまでも腕の良い裏方職人たちだ。彼らがモータウンサウンドにおける重要な役割を担っていたとはいえ、「彼らこそがモータウン!彼らこそがソウルミュージック!」と言い切ってしまうのは、いささか的外れな気がする。
今まで、一般的には名前を知られなかった偉大なミュージシャンたちが見直されるのは大いに結構なことだし、それを悪く言うつもりもないが、彼らは雇われた仕事をプロフェッショナルとして真面目に粛々とこなしていったに過ぎず、その当たり前のことに今までほとんどの人が気がついていなかった、ということ。そして彼らと同様に、コンポーザーやアレンジャーや独特なミックスをした(リズムを強調した)エンジニアなども、大いに称賛されるべきだ。
ひとつ希望するとするならば、これをきっかけに、モータウンのリイシュー盤CDには出来るだけプレイヤーのクレジットを付けて欲しいと思う。(マービン・ゲイの「What's Going On」以前にクレジットをつける習慣は無かったそうだ。)

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