音楽編123456789

直感DE雑感6

またまたまたまた盗作騒動…

1980年の日本のヒット曲「愛はかげろう」を当時耳にしたことのある四十代なら、「冬のソナタ」の主題歌のサビを聴いた時に「あれっ!」と思った人は少なくないだろう。たしかにそっくりなメロディで、巷では”盗作疑惑”がもち上がっている。(ちなみにAメロはまた別の曲に似ている)
恰好のネタとしてネット上で”祭り”にしているのが2ちゃんねる界隈。似ている部分をつないだり重ねたりしたMP3や譜面の比較掲載までされている。
たしかに、ある意味とても面白いが、MP3や譜面や歌詞を無許可で掲載しているわけで、これ自体も著作権を侵害しているわけだからおかしなものだ。
現実的にいえば、いちいち著作権の許可をとっていたらネット特有のゲリラ的なフットワークの軽さは得られないし、著作権は民事だから訴えられなければそのままだ。法律はなくてはならないものだが、まぁ、結果的には大目にみられるってことか。
少々音楽的にいえば、あのありふれたコード進行であのテンポなら、自ずと似た様なメロディが偶然出てきても、けして不思議ではない。盗作かどうかは作った本人だけが知っている。

チャリティライヴの矛盾

ライヴエイドのDVDを小出しで観ている。4枚のうち、やっと2枚目を見終わったところ。
冒頭に、目を覆いたくなるエチオピアの飢餓の様子が映し出されている。その後にウェンブリーとフィラデルフィアのライヴ映像。
アーティストはみな素晴らしいパフォーマンスをやっているし、聴衆の盛り上がりももの凄い。間違いなく”楽しんでいる”。そしてそれを観ているボクもわくわくしながら楽しんでいる。そしてまた途中にエチオピアの目を覆いたくなる映像・・・。このギャップを受け止めねばならない。
エチオピアのことなんかどっかに置いておいて、格好のプロモーションの場と考えていたアーティストもたくさんいただろう。また、音楽ファンにおいては、なによりも映像を、ロックミュージシャンのパフォーマンスを、純粋に楽しみたいという思いがおそらくほとんどだろう。そういうボクもその一人だ。
不幸な惨状に目をつぶり、音楽を楽しむことは不謹慎?大地震の被害が出た時に優勝したプロ野球チームがビールかけを自粛することを考えれば、同様に不謹慎と言えるかもしれない。
いや、そうではない。あえて言うなら、その【不謹慎】をすればするほど、マスコミは話題として取り上げ、世間はエチオピアに目を向ける。DVDが注目されることで、それを購入する人が増え、その純益が募金になるわけだ。
といっても、素直に割り切れないことも確か。エチオピア人はイスラム教徒が全体の35%を占めるのに、「クリスマスがやってくることを彼らは知っているのだろうか?」と笑顔で歌うイギリスのアーティストたちとか、「ボク達(自身)が世界(そのもの)だ」と大合唱するアメリカのアーティストたちとか、ウェンブリーのフィナーレが「Let It Be(=なるがままに)」だったりとか、、、これらに象徴される、欧米人のある種の無神経なお気楽さや傲慢さも垣間見える。
仮に、窮状に喘ぐエチオピア人がそれを認識したら、きっと複雑な気分になるだろう。無論、彼らにそんな余裕はないが。
主宰者ボブ・ゲルドフが聴衆に向かって「きょうは楽しんでくれ。そして献金を忘れずに!」とクールに言う場面がある。
彼は現実的に割り切っている。どんなにパフォーマンスに矛盾があろうと、偽善的であろうと、ロックンロールで馬鹿騒ぎしようと、結果的に大金が集まればよい〜とにかく第一義的に金が集まらなければ意味がない、ということ。最もなことだ。チャリティ・・・とくにエンタテイメントによる場合は、ある種の【矛盾】が宿命なのだ。

20years

これを書いている今は、1985年のライヴエイドから約20年が経過している。では、ということで遡ってみると…ライヴエイドからその約20年前に東京オリンピックがあり、ビートルズがブレイクしていた。さらに20年前はというと、日本が戦争に負けた頃、ということになる。
そう考えると、最近の20年は、時間の概念を疑いたくなるほどいやに短く感じる。ポピュラー音楽だけで考えると、今、ライヴエイド(1985年)の頃のものを聴いても、それほど違和感を覚えない。逆に、1985年時点の若者がタイムスリップして今現在のものを聴いたとしても、テクノロジーによる細部の違いはあれ、それほど驚かずに馴染めるのではないだろうか。換言すれば、すでにポピュラー音楽の形態は出尽くしてしまっている、ということだ。
では、日本が戦争に負けた頃の若者が、同様に20年後のポピュラー音楽をいきなり聴かされたらどうだろうか?おそらく、顔をしかめて耳をふさごうとするに違いない。テクノロジーと音楽形態の変遷が共存していた期間は20世紀内ですでに終わっている。
人間はどんなに頑張っても100m走を8秒台では走れないように、あとはアクセントを変える以外、16ビート以上のビートも生まれない。関連コラム

今再びライヴエイド(日記既出の再構成)

LIVEAID VIDEO 1985年の夏、ボクは「ライヴエイド」のために仕事を休み、徹夜でテレビを観ながらビデオに録画した。あれほどまでに興奮してテレビを長時間(16時間ぶっ続け)観たことは後にも先にもない。当時の職場の同僚のうち少なくとも3人は同じように徹夜で録画していたようだ。
洋楽ロック系の、それも有名実力アーティストがてんこ盛りのテレビライヴなんてかなり珍しい時代だった。しかも生放送でただで録画ができるわけで、そりゃぁもの凄いことだった。(当時の音楽ビデオは一本8,000円〜15,000円程度)
正直、*チャリティの意義なんて二の次で、録画用ビデオの残量を気にしつつブラウン管に釘付け。
音楽そのものとは別に、二元中継で交互に映し出されるアメリカとイギリスの会場における国民性の違いも面白かった。
しかし、なにしろ民放(フジ系列)の生放送なもんで、曲の途中でCMが入り途切れるし、衛星中継は乱れるし、MCの同時通訳は音楽の素人でとんちんかんな訳をするし、日本のスタジオゲストは事前になにも勉強していないくせに知ったかぶりの南こうせつ(メチャクチャ腹が立った!)だったりしたわけで・・・番組構成はまったくひどいものだった。また、国際映像とは別に日本独自のアーティストも挿入されたりで、ライヴドキュメント100%とはいえなかった。そして約20年後の2004年11月、4枚組589分のDVDとしてその映像が発売された。☆日本公式サイト

今は昔

desktopold.gif Profileにも書いているが、パソコンを初めて触ったのは1997年で遅かった。仕事上必要になったのとDTMに興味をもったことがきっかけ。
Niftyのパソコン通信も知らないし、Windows95以前のOSの経験もない。95年11月だかのWindows95発売時の大騒ぎを当時ニュースで観ても、ボクには関係ないと思っていた。
最近、1970〜80年代のパソコンの使われ方や歴史のサイトをちょっと覗いていた。LINK1 LINK2 わからない言葉がたくさん出てくるが、それでもけっこう面白い。ボクが知らなかっただけで、世の中ではこんなことが起きていたんだ、ってかんじだ。
そういえばたしか、1987年頃にパソコン(機種不明)を持っている友人が一人だけいた。当時、彼がパソコンのワープロソフトを使って印刷したものより、ボクがワープロ(専用機)で印刷したものの印字のほうがはるかに綺麗だった記憶がある。そのワープロ、今は押し入れで静かに眠っている。
テレビで1990年代のドラマの再放送をたまたま遅い昼食時に見たりする。ファッションやヘアースタイルや女性の眉毛の太さなどの現在との違いはまぁよいとして、携帯電話やオフィスでのパソコンを使うシーンが出てくると、シリアスなシーンなのに、その古いデザインによってかなり間抜けに見えてしまう。中途半端に古いものはカッコワルイもんだ。

target="*****"とframeset

W3C(Webにおける文法仕様の世界標準を勧告する公的機関)によると、リンクページの表示指定方法は(フォントサイズと同様に)、読み手の意志・判断に任せるべきで、target属性はなるべく使うべきでない!ということになっている。→参考URL
確かに、target="_blank"を多用したサイトの場合、何枚も何枚もページが重なってしまうのを煩わしく思うことはある。リソースの少ないPCだと固まってしまうこともあるだろう。。。
う〜ん、理屈はわかるのだが現実には世界中で多用されていてまったく無くなる気配がない。
ちなみにHTML文法チェックサイトでさえチェックされたあとの評価ページからその解説にいく際にtarget="_explain"を使っているじゃないか!
また、フレームを使っている場合はtarget属性を使わないと成り立たないわけだが、そのフレームでさえも感心しない表示方法らしい。→参考URL
あちゃぁー、こりゃ参ったな。フレーム非対応の閲覧環境にやさしくなれ、ということだな。
しかーし、指摘されている個々の問題については、それほど切実なものとは思えない、というのが今現在の正直な印象だ。(怒られる?)
現にフレームを使っているサイトはそこらじゅうに存在するし、それほど不便を感じたことはない。(こういうことを言うと閲覧環境少数派切捨ての意見になっちまうのかな?)
まぁ、そのうち汎用ブラウザが対応不可にでもなった時に、改めて考えればよいだろう。関連雑記

レゲエ

「犬と電話」はレゲエのリズム。それもベースとベードラ頭抜き&3拍目はリムのSide Stick+ベードラ。これには大いにこだわりがある。
初めてレゲエを意識して聴いたのは1975年くらいのウェイラーズだったと思う。レゲエ以前のスカを初めて聴いたのはもっとあとになってから。
スカはダンスミュージックであり、わりと単純な2ビートだが、1970年代にレゲエになってからの頭抜きでゆったり船を漕いでいるようなリズムはかなりの衝撃だった。
80年代になってからはベースもベードラも頭に入るようになり、3拍目もスネアになった。これはおそらくレゲエが8ビートや16ビートのコンテンポラリーなリズムに近づいた結果で、商業的な意味合いがあると思う。個人的にはあれは好まない。(速いテンポの場合は例外)
そして本来レゲエは、夏向きのトロピカルミュージックではけしてないのだ。(以下略)

えいご

英語って合理的な言語だとつくづく思うが、裏を返せば大雑把で、同じ言葉でも前後の内容で意味が変わってくる。(ちなみにボクは英語が不得意...)
例えば【Japanese】=日本人、日本語、日本の〜。
個人サイトで〜This site is Japanese only.〜ってことわりをよく見かけるが、「このサイトは日本人専用です」と排他的な意味に解釈されるそうだ。その場合、〜All the contents are written in Japanese.〜がいいらしい。
それ以前にmeta情報の文字コードがShift_JISでは英語圏で化けるかも。まぁ化けていればその時点でバイバイだろうけど。

呆れてしまった

こちらに一度書いたが、国家を情緒的に意識することなんて幻想にすぎないと思っている。そんなボクだって当たり前に社会制度の基盤としての国家は必要と思っている。
国民年金未納が加入者の45%=1000万人だって。社会保険庁、いったいなにやってんだ!明らかに怠慢だよ。責任の所在を明確にして責任者は職務不履行で厳罰だよ。まったく!

個人サイト

個人サイトを続けていくか、誰でも少なからず悩むことがあるだろう。もちろん続けるかやめるかはそれぞれの自由だし、それをとやかく言うつもりは毛頭無いです。
ボク自身はどうかというと、誰も見てくれなくとも自己満足でも、《続けること》に意義があると思っている。アクセス数に一喜一憂せず、自由に作れればそれでいい。自意識に振り回されることなく、淡々とやっていこうと思っている。聴いてもらえれば、見てもらえれば儲けもの。これは音楽を作ることにおいても同様の思いです。

タイアップ

なんでもアメリカではヒットソングの企業(CM)タイアップって滅多に無いそうで、仮にタイアップなどしようものなら、価値が下がってしまい見向きもされないそう。ヒットするきっかけはラジオのオンエアや地道なライヴの積み重ね(最近はクラブなど)だそうで、日本とエライ違いだ。
映画やドラマの主題歌がヒットすることはアメリカでもあるだろうが、あくまでも副産物なのだろう。
内容とまったく関連性のない誰かの新曲がうしろで流れている日本のテレビCMってやっぱり変だと思う。

Ichiro Suzuki

イチローの偉業達成には自然と涙が出た。「***は”記録”に残らずとも”記憶”に残る選手」という言い方がある。それは、記録に無縁な無冠の選手を讃える場合に常套句として使われる。
しかし逆に言えば、数字として永遠に残る”記録”は絶対的な価値を持つ-ということ。
誰も”記憶”になかった1920年のシスラー選手の”大記録”がイチローによって掘り起こされ、それにまつわる当時の周辺状況をも、多くの人々が詳しく知ることとなった。

ヘッドフォンの薦め

もしあなたがPC付属のスピーカを使って他人のMP3を聴いているのなら、ひとつだけ提案がある。一番安物でいいからヘッドフォンを買ってきて欲しい。家に古いウォークマンが眠っているなら、その付属のヘッドフォンでもいい。それをPCのヘッドフォン出力につなげて、聴いてみて欲しい。
とにかく細かいニュアンスを少しは感じて聴けるだろうから。へー、こんなこともやっているんだ!って発見があるだろうから。へー、ここでボーカルが息を吸っているんだ、ってこともわかるだろうから。へー、へーってね。
なにかをしながらMP3をB.G.Mとして流す方もいるだろう。しかし、たまにでいいからヘッドフォンから聴こえる音だけを聴いてみて欲しい。

えねるぎー不足

既成概念をはみ出した音楽や異能のアーティストに対する好奇心を失ってしまったわけではないのだが、金を出してDVDやCDをいざ買うとなると、まずエンタテイメントとして保証されているかを意識してしまい、ついつい”安全なもの”を手に入れている。
今さら言うまでもなく、巷では気の遠くなるような数の音楽作品が出回っている。(毎月MUSIC MAGAZINEの新譜情報を見るにつれ溜息が出てくる。)
その、世の中に出回っているものの中には、煩悩を消毒されるような凄いものでまだ聴いたことのないものがきっとあるはず。しかし、それを見つけるのはそうたやすいことではないのも事実だ・・・と、少々弱気になっている。クソッ!

録画再生

1984年に初めてβHi-Fiのビデオレコーダというものを購入した。
最初は録画すること自体が面白く、その中には今となってはとても貴重な記録もある。しかし、それらをどれだけ再生したか考えると、ほんの数える程度の本数しか何度も繰り返して観ることはなかったのだった。
最近では、電化製品量販店の新聞折り込みチラシの花形商品としてDVDレコーダがたくさん載っている。しかし、10〜20年前よりはるかに情報メディアの種類が増えた現在、使用効率を考えれば、個人的にはDVDレコーダというものにまったく食指が動かない。
むしろレコーダが出現したおかげで、商品価値の下がった再生専用プレーヤをわずか数千円で買えたことのほうが非常に嬉しいのだ。

プロ野球

オリンピックの野球だが、オーストラリアに二回負けたことが2chでも大叩きされている。でも冷静に見れば、けして驚くことではない。
現在日本ハムの主力である新庄は、メジャーで昨年解雇されるまでレギュラーにはなれなかった。また、オリックスの主力だった田口は3Aとメジャー(の控え)を行き来している−これが現状。つまり、日本の野球は特別な何人かの選手を除いてその程度のレベルだ。オーストラリアの選手達は3A〜2Aレベル。二連敗はいただけないにしても、一発勝負で負けたって不思議じゃない。

ボクは野球のオリンピック至上主義に反対。
野球は真にグローバルな競技ではないし、仮に日本が、プロ一チームから二人までの制限を取り払った最強チームで金メダルを取ったところで、アメリカがオリンピックを軽視している限りは虚しいことだ。
そんなにムキにならずに、4年後の北京ではプロの二軍選抜+社会人選抜で出場すればいい。国際試合よりも、とにかく肝心の国内リーグの充実が先だろうが。

ナショナリズム?

「スポーツの国際試合で応援する近頃の若者を見ていると、ナショナリズムに傾いているようで心配だ」などという短絡的なエセ左翼の意見をたまに見かけるが、アホか。笑ってしまう。
身近なものを応援しているだけで、日章旗を振ったり「君が代」を歌ったからといってそこに思想や信条は存在していないって。要するにナショナリズム”ごっこ”ってことだ。関連雑記

逆説(東京ペシミストリートにちなんで)

ミュージックガバメントの作品は田近さんの語学力を生かした英語詞が多いが、日本語のものもイケている。2、3年前に発表された「僕は君が大嫌い」の歌詞は逆説的な恋の歌にもとれるし、自分のことを嘆いているようにもとれるしで、ニヤニヤしながら聴いていたものだ。

ボクが参加した「東京ペシミストリート」は、否定的な文句を並べて、そんな街が”大好き〜!!”と叫んでいる。ペシミスティックな言い回しの奥にはちょっと屈折した対象への愛情が内包されている(ように思う)。
これはある種のユーモアであり、日本人の表現にはあまり見かけないものだ。

話は飛ぶが、アフリカ系アメリカ人の葬送でブラスバンドが奏でる「聖者が街にやってくる」は、人が死んだというのにやたら明るい曲だ。ブラスパートはそんなことを思い出しながら作った。

根性!根性!根性!か

オリンピック期間中には国内でも高校野球やプロ野球も行われていて、本日(04.8.18)の読売36面中スポーツ関連は実に9面にも及ぶ。
そのプロ野球では工藤投手がついに200勝目をあげた。読売に彼の高校時代のエピソードがあり、愛知県大会準決勝で右目に死球を受け流血しているにも関わらず、「続行不能」という医師の判断を遮って(!)投げ抜き勝利を掴んだ−そうだ。
たしかに結果は事なきを得たようだが、こんな非常識で危険な行為までも美化してしまうのはおかしなハナシと思うのだが。

初めにリズムありき

あるロックボーカリストが言っていた。「バンドってさ、ドラムとベースがしっかりしていれば、ギターやボーカルはなにをやってもよいんだよ。」 名言だ。その通りだ。
もちろんこれは、あえて究極の言い切り表現を試みているわけだが、言いたいことはよ〜くわかる。

ボクは、バンド形態にしてもオーケストラにしてもピアノバラードであっても、リズム、ノリが気持ち悪かったらノーサンキューだ。モタろうが走ろうがかまわない。気持ちよいかどうかってこと。
作る立場でも、ドラムとベースのコンビネーションから作ることが多い。メロディはリズムトラックやコード楽器を作ってから、やっとそこで乗せている。
元々打楽器が好きだったということもあるが、自分でリズムが気持ちよくないとダメ。
メロディは、音楽を作る上で、そんなに大きな要素とは認識していない。むしろ丈夫な骨格(リズム要素)があるからこそ、結果、これでなきゃというメロディが生まれるような気がする。これは一概にはいえないだろうけど、個人的にはそんなかんじだ。

今、巷では、リズムトラックが打ち込みの音楽は当たり前に存在する。ネット上で聴かれるアマチュア/インディーズの音楽は90%?がそれだろう。
しかし、いくら綺麗なメロディであっても、ギターソロがカッコよくても、リズムコンビネーションがあまい、ノリがあまいと、「あぁとてももったいないなぁ」と思ってしまう。

オバちゃん、長嶋ジャパンを語る

長嶋氏がアテネ行きを断念したことについてのワイドショーの街角インタビューで、どこかのオバちゃんが「(アテネ行き断念による)選手の動揺が心配ですね」などと、ピントはずれなことを言っていた。
逆だよ、オバちゃん。長嶋さんがリハビリ中の身でアテネ行きを強行したら、それこそ周囲は動揺してしまう。そういうオバちゃんの軽はずみな発言を堂々と放映してしまう無神経なテレビ局もテレビ局だ。

アメリカ人がたまたまJ-POPを聴いた時の感覚に似てるか?

職場の有線放送は、ジャンルが細分化された数百チャンネルのほうではなく古い24チャンネルの契約なのだが、最近話題の韓国のテレビ主題歌は「ポピュラー」というチャンネルでよくかかる。
う〜ん、たしかに外国語のポップスには違いないのだが、最近の洋楽の中に突然昭和50〜60年代のしみったれた日本の叙情フォークが紛れ込んでいるような感覚で、とても違和感を覚えるのだ。

木綿のハンカチーフ

まさに不意打ちとはこのことなり。
車で走っているとき、普段民放のAMラジオなど聴かないのだが、きょうはたまたまボタンを押してしまい、偶然に太田裕美の1975年の大ヒット曲、「木綿のハンカチーフ」が流れ始めた。そして♪ハンカチーフ下〜さい♪と曲が終わるころには目頭に熱いものがジワ〜〜〜ン、、、。いや、歌詞のようなことが昔あったわけではないですよ。
歌詞、歌唱、メロ、編曲とも完璧。歌詞を追っていくと行間の主人公の想いも浮かぶ。
これ、松本隆&筒美京平コンビなんだよなぁ。時系列で対話形式の切ない歌詞なのに、軽やかなサウンドがかえって膨らみをもたせるのだった。

これがCDでもって自らの意志で聴いたのでは、おそらくジワ〜〜〜ンにはならなかったろう。仕事のことを考えつつ、車を走らせている時の不意の出来事だったからこそ、かもしれない。

ロバート・クワイン

ギタリストのロバート・クワインが亡くなったそうだ。彼のギターはルー・リードのイタリアでのライヴCDとニューヨーク・ボトムラインのライヴLDでしか知らないが、ボクにとっては”ツボ”のギタリスト。弁護士資格を持つインテリで、頭髪もかなり薄くやや中年太り。風貌はいわゆるロックらしさがまるでないが、ギターフレーズは禁欲的で金属的で衝動的でまさに”ロック”だった。

王様の耳はロバの耳

某サイトで発表と同時にたくさんの方に聴かれている曲があり、ふーん、どれどれ、、、と聴いてみた。
印象は、率直に言ってあまり気持ちよいものではなかった。 オケは生音もどきなのにベロシティ一定の“どベタ打ち”MIDIで、合いの手フレーズは明らかにボーカルと調和していない。ボーカルはメロディを追うのがやっとで、のっぺりしていてスウィング度0%、歌詞は無個性でありきたりの言葉をつなげただけ。つまり、すべてがバーラバラで、それぞれが好き勝手にやったものを重ねてみました−としか聴こえない。
しかしBBSを見ると、社交辞令はあるにせよ、おおむね"絶賛"されているぞ。これでいいのか?ボクの感性がおかしいのか?
いや、これでいいのだろうね。彼らが心から楽しんで音楽をやっているのなら。

学生の頃、音楽サークルで身内のみの発表会が度々あった。最初から「練習不足デース!笑って許してくださーい」なんて馴れ合いもあったが、時にはお互いを率直に批評(批判ではない、誤解なきよう。)し合えたし、熱くなって喧嘩もできた。それはみんな面と向かっているから可能だったんだな。
しかし、ネットの世界は基本的に文字のみのコミュニケーションだから、よほど慎重にやらないと直接の批評は難しいもの。つい通り過ぎてしまうのだった。

無敵のC-Am-F-G7

仕事上のBGMは有線。たまにオールドポップスのチャンネルに合わせてみる。かかっている曲はみんな有名なものなんだが、やはりC-Am-F-G7のコード進行が圧倒的に多い。
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ブルース・スプリングスティーン、1978年のブートレッグのライヴビデオ(β)を持っている。1985年に東京新宿のそのスジの店で1万円以上で買ったもの。画質は最悪だが、会場スクリーン用に撮られたかのコピーで、その日のステージがなんの演出もされずに丸まる収められている。
なにしろ彼のステージは昔から長い。3時間は”ふつう”なのだ。社会的なテーマのもの、恋愛を歌ったもの、生きざまを歌ったものなどテーマは色々だが、シリアスな傾向の曲が休憩を挟んで2時間以上歌われたあとに、アンコールは一変!照明をすべてつけ、まさにパーティー会場と化する。
当時のアンコールにはゲイリー・US・ボンズの「クォーター・トゥ・スリー」が必ず演奏されていた。これが上記のC-Am-F-G7のまさに典型的な曲。そして観客とのコール&レスポンスを絡めて10分以上続けられる。
バンドマンが「ライヴは打ち上げで美味い酒を呑むためにやっている」などと本音とも冗談ともとれることを言ったりするが、スプリングスティーンの場合はアンコールのロックンロールパーティをしたいがために本編のシリアスな作品群が存在するんじゃないかと思えたりする。とにかく心の底から楽しめるアンコールの”パーティ”なのだ。
そして、「クォーター・トゥ・スリー」の冒頭、C-Am-F-G7のアカペラリフが始まったとたん、使い古された感のあるこのリフがこれほどまでにカッコイイものなんだ!と感激し、体中に電気が走るのであった。関連雑記

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