第三章 〜「主」〜
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「やはり無いか。行くときは持っていないように見えたのに。」
その声は、とても低く、落ち着いていた。聞いたことはもちろん無いけど、ここが方舟だからか、その声はノアのようだった。世界が震えて音になっている、そんな声だった。声の主は部屋からすぐに出ていった。そして階段を下りていく音がして家を出て行く。僕は暗闇からしばらく動けずにいた。誰か家にいるじゃないか、しかもきっと、いつきの父さんだ。ってことは工場長。見つかっていたら僕の父さんも母さんもどうなっていたか分からない。戻ったらいつきになんて言ってやろう。僕は怒りと興奮と恐怖で今していることがとんでもないことだと、その時、改めて分かったんだ。きっと、いつきの父さんは体育着を探していたんだろう。本当にタッチの差だった。まだ心臓が僕を揺らしている。この薄暗い部屋から早く戻ろうと扉に手をかけると電気のスイッチがある。さっき足や手に当たってなにか壊していないか確認のつもりでつけてみた。
そこにあった、それが一つ目の出会いだった。