音楽編123456789

直感DE雑感9

テーマレス

たとえば、いわゆるスタンダードなジャズのインストなどでは、決められたコード進行上で最初と最後には決められたテーマ(のメロディ)があるものだ。
自作のインスト作品を振り返ってみれば、なぜか、テーマが存在しないものが多い。
これは他人に指摘されたこともある。「テーマがあったほうが落ち着くというか、聴き手がわかりやすいんじゃないか」と。
なぜテーマレスなのだろう?と、ふと思った。
まぁ、よくわからんのだが、タイトルと全体の雰囲気で“テーマ”は提示しているつもり(のようだ)。絵に例えれば、抽象画のようなものってことかな。とはいっても散漫な印象を持たれないように工夫する必要はあるね。 関連雑記

なにかが終わりなにかが始まる

タイトルが思わせぶりにみえるかもしれないが、それをまさに実感する瞬間が人には必ずある。そして、今、生きていることを静かに噛みしめられたりするものだ。

本人がweb上で公にしているから名前を出すが、いっしょに音楽を作ったことがあり、mixiでも交流のある美麗唯さん。彼女のお腹の中には、初めてのお子さんが育っているそうだ。
彼女はおばあちゃん子。幼い時はご両親が働いていたこともあり、ほとんどお祖母さんに面倒をみてもらっていたそうだ。その大好きで大切なお祖母さんが先日息を引き取ったのと時を同じくして、新しい命の存在がわかったという。※美麗唯さんが自ら語っている音声はこちら。

オレは運命論者でも神の存在を肯定する人間でもないはずなのだが、彼女が「おばあちゃんが授けてくれた」と信じていることを、けして否定する気持ちにはなれないでいる。

振り返ってみれば、不思議で仕方のない物事の流れが、オレ自身の中にも二、三度ある。実は、今年にも…。
日々の悲喜を超えたところで、素直に身を任せていこうと思う。そして、それは幸せなことと思う。美麗唯さん、おめでとう。 関連雑記

2006.12.2

リアル日記

高校1年から社会人1年目くらいまで、何気なく大学ノートになぐり書きした日記帳がある。
これをいつまで仕舞い込んでおこうか、いつ思い切って処分しようか、迷ったまま今まできている。何度も捨てようとしたが、結局捨てていない。しかし、自分がこの世からいなくなれば誰かの目に留まるわけで…。

日記というものは、【いつか誰かに読まれるものであり、どんなに個人的なことを書いていても、無意識にそれをわかって書いているものだ】という説もある。言われてみればそんな気がしないでもないが、中には目茶苦茶恥ずかしいことも、シャレにならない最悪なことも書いてあるから、やはり誰にも読まれたくないな。

わかっていても出来ない、という意味では“タバコをやめないこと”と似ている。

カラオケ

音楽文化の衰退の大きな要因だという意見もあるようだが、カラオケは好きだ。というよりも、唄うことが好きなんだろうな。
そして人が唄うのを見て、意外な面がみえるのも興味深い。まさに、その人らしい歌を唄う人もいるし、逆に見かけに似合わない歌を思い入れたっぷりに唄ったりする場合もあり、びっくりする。
また、場の流れに気を配り慎重に曲を選択する人もいるし、誰がなにを思うか我関せずで思いっきり唄う人もいる。慣れていて自信のある人は、閉めになる頃を見計らって十八番を披露したりもする。
二人で唄うのも楽しい。とくに日頃親しくもない人とでも、いっしょに盛り上がったりする。そして、うまくハモれたら最高だ。
ビートルズばかりで行こうとなった時の話だが、唄いながら、その音楽構造に改めて感心したりもした。サザンオールスターズにもそれを感じたことがある。こういうことって、やってみなければ実感としてわからないものだ。

いじめ

オレは子供の頃、仲間外れをやったこともされたこともあるが、とくに事件にもならず、いつのまにか時は過ぎていた。いじめを目撃したこともあったけど、死ぬヤツなんて一人もいなかった。
正直、なぜ自殺までしてしまうのかわからん。
新聞に「学校に甘さ・自殺防げず」と大見出しがある。たしかに甘さはあったかもしれない。そして事無かれ主義も歯がゆい。ただ、そんな100%未然に防ぐなんて無理だ。その点は教師に同情してしまうよ。

人が他人を見下し、それを態度に現すことって、永遠に無くならないだろう。子供だけでなく、大人の世界、社会人になってからだって、いくらでもある。でも、どうにかそれなりに、みんな生きているじゃないか!とあえて言いたい。
いじめや仲間外れをされた経験があれば、それだけ他人にやさしくなれるはずなのに。
いや、“いじめ”といっても、ちょっとしたからかいから集団リンチまであるわけで、ひとくくりにしてしまうのは、安易かもしれない。でも、自殺するだけの意思を持てるのなら、“そこから逃げる勇気”に、どうにか転換出来ないものか、と思ってしまう。

知られたくない、見られたくない。

◇仕事場でお客さんや患者さんに説明する上で、第三者が近くにいる時はそれなりに気を遣う。大きな門前薬局では仕切ボードで囲っているところもあるのよね。う〜ん。。。

◇病院でも(風邪くらいならなんてことないが)人に知られたくない恥ずかしい病気の場合、問診の会話が待合に漏れるのは困ったものだ。
ある皮膚科の先生は、懇切丁寧に説明をすると評判なのだが、声がでかくて周囲に丸聞こえ。陰部疾患の患者さんは困惑しているとのこと。

◇銀行との金の出し入れは、通常はATMを使ったり銀行員が訪問した時にやっているが、場合によっては銀行へ出向き、窓口でまとまった現金を引き出すことがある。
名前か番号を呼ばれて、「お待たせいたしました。ご確認ください。」と銀行員。しかし、そのカウンターの位置は人が行き交う出入り口にいちばん近い場所で、札束が周囲から丸見え。物騒でゆっくり確認など出来ず、さっさとバッグに仕舞い込むしかない。
近所にある取引銀行の二つとも同じカウンター位置だ。あれ、なんとかならないものかな。仕切ボードで囲むとか、せめて、カウンターのいちばん奥にするとか。

七並べ

PCにあるゲームの中で、七並べが好きだ。最初に配られたカードの条件に勝敗が左右されるところも多分にあるが、相手になる3人をソフトが受け持つから、その3人は出せるカードがあっても、わざとパスするようなことまではしない。従って20回もやれば必ず首位になる。そこが勝負事としては適度に生温くて楽しい。

新聞は毎日ひととおり読んでいる。なぜにこれほどまで人は不幸を続けるのか。
殺人、汚職、国同士の争い。
欲望は果てし無く、快楽を求めるのは人間の業かもしれないが、世界中の人たちが七並べをやれば平和になるのにと、言ってみたくもなる。

事故や不運で予期せぬ死がやってくることもあるが、たとえ大きな不幸を抱えなくとも、人は必ず衰え、死がやってくる。
だから、死ぬまでの日々、淡々と過ごすことがいちばん良いように思う。

なにかを創作するにしても、人の心を打つものは、それこそ身を削るような負荷がかからないと生み出せないものだとしたら、自分には向いていない。なにしろ平凡に生きているから。

芸術・アートには、創るほうにも接するほうにも、負荷を伴った経験に基づく感性(=ある種の知性)が必要であり、それがなければ、その人にとってはまったく無用のものだ。

自分にとっては、七並べで遊ぶことが心地よい。人生は暇つぶし。

咀嚼

人は大概において、自分に都合のよいことを言ってくれる、または、してくれる他者を求めるものだ。
しかし、時には、都合の悪いことに耳を傾ける勇気も必要なんじゃないのかな。その場その場の気分だけで取り込まず、なぜ、あの人はこんなことを言ったのだろう?なぜ、こんな不愉快なことを自分にするのだろう?と。
すぐにはわからなくとも、わかろうとすることから逃げないことも、時には必要なんじゃないのかな。

また、自分の信念にあえて自ら疑いを突きつけて、単なる狭い思い込みなのではないか、都合よく言い訳しているだけなのではないのかと、考え抜くことがあって良いのではないだろうか。

(注)特定の個人を指しているわけではないので、誤解無きよう、ヨロピクネ。

無題

老人ホームに入居している60代後半の夫婦。余生を淡々と過ごすにはまだ若い。

実は、二人はそれぞれ仕事を持っていて、施設から通勤している。リタイアしたからではなく、むしろ、社会と接点を持ち、仕事を続けたいがために入居したそう。
つまり、身の回りの世話を他人に任せる分、自分のやりたいことを続けられるからこそ、老人ホームのシステムを利用している、ということだ。

表向きに囚われず、知恵を持って生きているな、と思った。


生とは不思議なもの。

小鳥が老衰死の直前に、死を予告するように元気よく鳴き出す、という現象を聞いたことがあるが、認知症の老人の中には、息を引き取る間際に一瞬、生気を取り戻すことがあるらしい。
介護人をしっかりと見つめ、「ありがとう」と。

時に、人間の脳には想像を超えた不思議なことが起こる。それは、障害部位を他の部位が突発的に代替する現象ではないかと言われている。

web2.0

簡単に言えば、「企業、団体、(個人)のサイトがあり、そこから各個人に単純に拡がっていくこと」をweb1.0といい、「企業、団体、個人が隔たり無く、双方向または縦横無尽につながっていくこと」をweb2.0というそうだ。(もっとうまい言い方があるかもしれないが…)

などがweb.2.0の代表的な例。
個人個人が自分の得意分野について発信し、それが大きな渦になり、企業や団体ではなし得ない社会的影響力を発揮する、ということか。
事実、企業が売れるわけないと無視していたモノが、個人の発信から突然話題になり、商品化された例もたくさんあるとか。
これらは別に驚くことではなく、webが進化すれば当然あり得る話だ。

で、ふと思った。すべてが性善説の上に成り立っているじゃないか、と。
実際は“やらせ”や“成りすまし”による情報操作も可能なわけだ。なんてったって自由になんの制限もなく匿名で書き込めるわけだから。
企業が一般人に成りすましてなにかを煽ることもあるかもしれないし、自分に都合の悪いことが発信されていれば、容易に書き換えることもできてしまう。また、誰がどんな発信をしようが、その発信者には原則的に責任は生じない。

しかし、そんなことを心配している記事は、今のところあまり見かけない。
たとえ悪意や嘘による情報操作がされたとしても、善意で誰かが修正し、結局はある一定の正しい方向に収斂されていく、と考えられているのだろうか?

役人の信条

岐阜県の17億裏金が話題だが、過去には、北海道76億、福岡58億、秋田44億、山梨43億、青森31億、福島30億、三重12億という“輝かしい実績”があるそう。
しかし、刑事責任をとられたのはまれで、大半が地方公務員法の懲戒処分で済んでいる。現・県執行部が、身内に対して業務上横領としての告発に消極的だからだ。(民間だったらそうはいかないはず。)

地方公務員には、もちろん真面目で誠実な方もたくさんおられるだろう。むしろ、そのほうが多いかもしれない。
しかし、仮に裏金作りに協力するよう上司や同僚から促された時、毅然とした態度で拒否するのはなかなか勇気のいること。また、精神的な負担も大きいはずだ。
そういう場合の避難所というか、拒否する人に対して社会的なフォローをするシステムが公的に整備されていると良いのだが…まだまだなのかな。

自由

社会集団の中においての真の自由とは?・・・なんてことは、今までどれだけ多く語られたことだろう。そして、その真の自由を体現することは、実は大変難しいことを誰もが実感している。

2006年8月30日の読売・朝刊に興味深いコラムがあった。東大・政治哲学の助教授である宇野重規さんという方が書いたもので、サッカー日本代表における歴代監督の選手に対する「自由への意識付け」を例に挙げている。

現監督のオシムは、“一人一人が状況を見極め、自分の判断でリスクを引き受けて行動し、その結果の責任を取ること” を自由の意味とした。そして、自分の意思で選んだ真に自分らしくなるための苦闘を伴ったものこそが「自由」であり、それは日本人全体への啓発にもなり得ている、と結ばれている。

そういう視点も兼ね備えて、日本代表を応援するのも意義深いと思う。そして、わがままを自由と履き違えないようにしなくちゃね。

読売新聞 ウィークリー時評2006.8.30
自由の意味

ニュートラル

音楽への関わり方って、観たり聴いたりすることと、作ったり演ったりすることがある。では、どちらに趣を置いているかというと、どちらでもないように思う。
また、後者だけで考えても、特別クリエーター指向でもないし、プレーヤー指向でもない。だからといって、なんでも器用にこなしているかといえば、そんなことはない。今の環境とスキルで出来ることをやっているに過ぎない。(あんまり金かけていないし、費用対効果は結構いいかも?笑)

一言で言えば、ただ音楽が好き、ということなのだろう。そして、これからも型にはまることは、おそらく無いだろう。

お菓子バトン

月木蘭のままからバトンを受け取ったのだが、数ヶ月前の検診結果を踏まえて、最近は甘いものを控えているので悪しからず。

◆お気に入りのお菓子
ヤマザキの薄皮パン、森永牛乳プリン、エクレア

◆土地のお菓子
由緒ある手焼き煎餅なら数件ある。有名。
甘いものは?

◆懐かしのお菓子
今は無き、甘太郎の今川焼き

◆うまい棒の味
知りません。。。

◆「お菓子の会社」と聞いて真っ先に思い浮かぶのは
不二家

◆和菓子と洋菓子
どっちも好きだけど、選べって言われたら洋菓子。
クリーム系が好きだから。

◆ついつい買ってしまうお菓子
最近は自粛している。

◆食事をすべてケーキに変えた場合、何日もつか
一日くらいはなんとか。
小学生の頃、ショートケーキのみの昼食を何度か経験。
先生から注意された。

◆もう二度と食わないと決めた菓子
特になし。

◆おまけのついたお菓子を買うか
買わない。
が、おまけに好きな曲のCDが付いていたら買うかもしれない。

◆好きなケーキ
チョコレートケーキ

◆駅の売店でよく買うお菓子
買わない。

◆譲れないこだわり
こだわらない。
口に入るお菓子はなんでも食べてみる。

◆回す人5人を、この人は「絶対このお菓子食べてる」の予想と、その理由と共に
薄皮友の会・東京支部のWAJINさん。
いろいろ食べてると思うが、あっさりした甘さが好きかな?

薄皮友の会・三重支部のひろまま
そりゃ、やっぱり薄皮系は外せないでしょ?

薄皮友の会・隠れ名古屋支部の谷口朝美さん。
この人も甘いもの大好きでしょう!なに食っているかは知らんが。

mixi関係は別の機会に。今回はこれだけ。

灰皿is beautiful

ネット上ではブログ全盛だね。使い勝手が良いし、検索に引っかかりやすいし、コミュニケーションもとり易いし。ミクシィだってソーシャルなんとかなんて言っているが、結局は会員制のブログのようなものだ。それなりの良さはある。
しか〜し、誰が来ようが来まいが自己満足と言われようが、手作りの自分のサイトはやめないつもり。文字通り、「ホーム」という認識がある。

お役所は体裁を好む

(以前に書いたこれと連動しています。)

「向精神薬は、(他の薬剤とは別に)一定の場所にまとめて保管し、営業時間外は鍵をかけておくこと」という決まりがある。
それに従い、扉の付いている場所に集めて、ホームセンターで買ってきた安物の鍵を取り付けている。これでオッケ〜決まりごとはクリア〜♪ 抜き打ち検査をされても、文句を言われることはない。

しかし、これってあまり意味無いのよね。
もし、オレが向精神薬が欲しい泥棒だったら、他の薬には目もくれず、鍵のかかっている場所に注目するだろう。そしてバールを使って鍵を取り付けてある元部分のネジを引っこ抜き、簡単に手に入れるだろう。
つまり、いかにも「ここにありますよ」という保管をするより、他の薬剤に紛れて置いてあるほうが、かえって盗まれにくいと思うのだ。
へそくりを「へそくり」と書いて保管していたらすぐ見つかってしまうようなものだな。

会話力

日本のサッカー・ワールドカップ2006が終わった。散々な結果である。専門家、マスコミが様々な場所で、分析、検証をすることだろう。


ブラジルと日本のレベルの違いを野球に例えてみよう。
それは「メジャーリーグ・オールスター選抜」対「日本の高校野球優勝チーム」ということになるか?
では音楽に例えてみよう。
「凄腕ジャズミュージシャンで構成されたコンボ」対「日本の高校吹奏楽コンクール優勝チーム」ということになるか?

例えがかなり強引かもしれないが、つまりなにが言いたいかというと、
精神的にも体力的にも技術的にも、そして判断力、想像力においても、日本チームは未熟だったということだ。
ジーコ監督は規律に基づく管理されたプレイよりも、個々の能力に基づいた自由なプレイを重んじた。そしてそれが結果的には裏目に出た。
日本チームは「プロ意識が足りなかった」というジーコの発言もそこからきているように思う。

日本人には、狩猟民族の個人主義とは異なる、個性を殺してでも和を尊ぶ農耕民族としての風土が根付いていると言われる。換言すれば、ひとりひとりの能力が劣っていても、それを補う組織力で挑むという方法論。ノルマを与えられ、それを忠実に100%こなすことが尊ばれた。
それは、(善し悪しは別として、)高校教育の一環としての部活動である野球や吹奏楽に垣間見られる。

「高校生たち」が、プロ意識を持った「メジャーリーグ・オールスター選抜」や「凄腕ジャズミュージシャンで構成されたジャズコンボ」に追いつくために、日々の努力によって、いずれは、強い精神力、強い体力、卓越した技術力、を習得することは可能かもしれない。また、判断力は経験を積むことによって養われるかもしれない。
しかし、想像力に基づいた意外性のあるプレイは、努力のみではなし遂げられない個々の高度なセンスであるからして、非常に厄介なものだ。仮にその高度なセンスが一個人にあるにしろ、他のチームメートがそれを理解し、瞬時に対応できる会話力がなければ、良い結果は生まれないだろう。
(言うだけなら簡単だ…ね)

YouTube

いつ閉鎖されてもおかしくないYouTube。
しかし探せば、宝の山。
雑食音楽愛好家としては、幸福感に包まれる。

あまりマニアックな異端音楽を紹介してもドンビキされそうなので、比較的ポピュラーなものをご紹介。

Barry Manilow -"Can't Smile Without You"
中産階級の白人女性の人気者バリー・マニローだが、男の隠れファンは意外と多い。そういうボクもそのひとり。好きです。

Elvis Costello -"Alison" (Storytellers)
冒頭、やや長めのエピソードの語りがあるけど、それを待つと名曲が歌われる。
これは大学時代に歌詞を辞書片手に訳した思い出深い曲である。
もちろん英語の歌詞も暗記したのだった。

Devo -"Satisfaction"
ローリングストーンズのあの有名曲をタテノリでカヴァー。メジャーデビューの1977年くらいのスタジオライヴか。インパクトが大きかったね。

浜田省吾-"イメージの唄"(吉田拓郎の曲をカバー)
実はこれの30cmシングルを持っている。
ロサンジェルスのスタジオミュージシャン(カラッとラウドな音像)+アコギで拓郎が参加。

Bruce Springsteen- "Kitty's back"
スプリングスティーン(禁竹揃ってフェィバリット)の貴重なテレビ用スタジオライヴ。
風貌からして数年前のだな。歳は食っても超強力なグルーヴ!

生姜(ショウガ)

朝起きてから午前中は鼻炎のような状態が当たり前にあり、ある程度体を動かした午後になると収まっていた。
これは一般的にもよくあることで、午前中は体が冷え気味なのが原因と思われる。だから逆に体が温まると、鼻腔に向かっていた水分の排出が体表の発汗に向かうわけで、鼻炎症状は和らぐ。
そこでサンプルの生姜湯があったので、朝食時に熱湯に溶かして飲むようにしたら、朝からぴったりと症状が無くなった。
生姜は漢方でも応用されていて、葛根湯や辛夷清肺湯などにも含まれている。発汗、解熱、健胃作用を有している。

社会保険庁

社会保険庁の国民年金保険料免除の不正には呆れかえるね。現在(06.5.30)、26都道府県で11万件が明るみに出ているそうだが、まだすべて確認されたわけではない。いったい、全国でどれだけあったのだろう。
倫理観のかけらもないし、しかもまったくの浅知恵。。。
子供騙しのような手法で体裁繕って、いつかバレることを想像できないのだろうか?組織自体が腐っているとしか言いようがない。
もちろん関わった職員は処罰されるだろうが、不正書類作成においてのバカにならない費用も国民の支払った保険料で賄われていたわけで、更迭処分だけでなく罰金もしっかり科してもらいたい。

ハバナ

革命前はアメリカに依存していたキューバ。その首都ハバナ旧市街の紹介番組を観た。世界遺産のひとつなんだね。
革命時に裕福なアメリカ人が置き去りにしていったシボレーなどのクラシカルなアメ車は、今でも整備を重ねながら現役!で街を走っている。使い捨てライターは改良して捨てないで使っているし、欧米の支援がなく貧しくとも、その分モノを本当に大事にしている。
そして音楽がとても盛ん!楽器は今の日本でいえばケータイのようなものか? 様々な楽器を持ち寄って手軽に奏でていて、文字通り、生活に根付いている。
キューバで生まれた素晴らしい音楽は、アフリカ起源の打楽器とヨーロッパ起源の管楽器や弦楽器がほどよくブレンドされている。
そして、明るく陽気な国民性。経済的には貧しくとも、心が豊かってのはこういうことだな。
もちろん、キレイ事ではない影の部分もあるのだろうが、日本人が見習わなくてはならない部分も多いんじゃないかな。

裕福になれば幸せなのか?、勝たないと生きていけないのか?と下に書いたが、そのひとつの答をハバナに見た。

放言

小泉首相の進めてきた構造改革の重要課題である規制緩和は、ある程度成功しているとはいえ、一方では、それに伴う競争原理の拡大で、貧富の差が激しくなり“格差社会”が生じてきた、とも言われている。また、マスコミにおいては《勝ち組と負け組》などという言い回しも、よく使われている。

意見は様々あるようだが、格差の増長は、“小さな政府”を目指す日本社会が成熟していく上での、どうしても通過しなければならない“痛み”なのだろうか。

そこで、少し角度を変えて疑問を持った。
そもそも、貧しければまずいのか?富を得たら幸せなのか?勝負に勝ったらエライのか?負けたらダメなのか?、ということだ。

人は、なにかを欲し、時にどうにもならない現実がそこにあっても、それを受け入れながら、どうにか生きてきたのではないか?
人々の「経済的な安定」のみを基準とした政治的論調は一元的だ。格差うんぬん以前に、(大げさに言えば)過去の文明・文化の多様性、精神性からの学習がまったく行なわれていないようにさえ感じる。政治とはそういうものなのか?
裕福になれば幸せなのか?、勝たないと生きていけないのか?


家に引き篭ってパソコンやゲームと向かい合うだけで定職に就かない若者(成人)が増えていることが、社会問題になっている。《ニート》ってのだ。社会人として社会になにも貢献せず、親に甘やかされて大人になりきれないのは間違っている、と。
そこで、疑問を持った。
その若者たちがどうなろうと、どうでもいいじゃんか、と。自己責任なんだからほっとけと。親以外は口出すなと。そして、本人がどうしたいのか、本心を見極めるべきだ。

実は、今に限らず、社会に背を向けていた若者は、それなりにいたものだ。要するに“自覚的なニート”だ。
絵描きになりたくて、作家になりたくて、家に篭って空想ばかりしていたり、山に篭って自給自足で生活してみたり。他人に理解されずとも、社会生活を尊ばず自己の世界から抜け出さない、いわゆる“変わり者”はいたのだ。

テレビで、識者といわれる人が“自覚的なニート”に質問していた。「親のすねをかじったままで、申し訳ないと思わないのか?もし、親が大病になったり事故で倒れたら、あなたどうするの?」
若者は答えた。「その時に考えますね」
識者は言い放った。「甘いよ!」

識者の質問は愚問だ。そして若者の答えは間違っていない。

なぜなら、彼は自分の生活スタイルを貫いているだけだし、彼は誰かのために生きているわけではないのだから。
親が大病になったり事故で倒れることを想定してまで誰も生きてはいない。夫婦間だって同様だ。起こる前から身近な人の不幸を想定して生きるなんてことは、ナンセンスだ。

人は、自分の行動に責任を持てば良いだけのこと。自分が幸福かそうでないかは死ぬ時になってみなければ誰にもわからない。
社会に共存、貢献しようがしまいが個人の自由であり、それでどうなろうと、その人間の人生である。

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