音楽編123456789

直感DE雑感4

ライブバンドの音のバランス

とにかくボーカルの唄う言葉が聴き取れなくてはハナシにならないのだが、とくに小さい場所でのハードロック系のそれはとても難しい。
小さい場所では、PAがほとんど機能しないことが多い。なぜならアンプやドラムから出た音が間近にいる観客にダイレクトに伝わってしまうからだ。
アンプを通しているエレキギターやエレキベースは、ある一定の音量を出さないとナチュラルなサスティーンや音圧感が出せないし、ドラムはアタックを強く出さないとニュアンスを出すのが難しくなる。そんなものだから、つい音量を上げてしまったり一貫して思い切りデカイ音で叩いてしまったりする。すると、肝心のボーカルが聴こえなくなる。 ならばと、ミキサーはボーカルを目一杯上げようとするがハウリングを起こすこともしばしば。
好みや、そのバンドの音楽性にもよるが、ボーカルがなにを言っているか聴こえなければ、どんなによい演奏をしてもオレには不満が残る。

男と女の時事問答

女)
お誕生日、おめでとう!このケーキ美味しいでしょ♪

男)
いやぁ、なんて美味しい手作りのケーキだろう!ありがとね♪あ!そうそう。ところで景気っていったいなに? オレ、さっぱりわからんのよ。

女)
そうね・・・。つーか、イキナリナンヤネン!(一_一;)
あやふやで言葉が独り歩きしてるわよね。どういう状態が好景気なのか、よくわからないもの。世間の一般庶民の顔が明るかったら好景気?なんでもモノが買えるような錯覚のもてる時期が好景気?いつも不景気になってから、あぁ好景気だったのに・・・と言うんじゃないかしら。

男)
今まで世間的に言われている"景気がよかった"時期は、1950年代後半にも80年代後半にもあったようだが、だからといって永遠に続くわけでもなく、必ずいつか反動があるわけで、そんなものを政治ではどうにもならんのよ。

女)
えぇ。バブルの時期だって、よかったという人もいれば、わるかったという人もいる。
とんでもなくオイシイ思いをした人がその味を忘れられなくて、ふりかえってばかりいるんだと思うけど、記憶に手錠をかけられてしまった人は、これから先、絶対においしい思いにありつくことはないと思うわ。後ろばかり見ている人に前から来る波は見えないし、乗って行くことなんてできないもの。

男)
うん。それに「景気が良い」からといって、人々のくらしが本当の意味で豊かになるわけではないし。「景気をよくしてほしい」なんていう有権者も理解できないし、「景気をよくする」と公約する政治家も理解できない。
指標はあるが、景気って数値だけでははっきり示せないし、定義らしきものもないし、世間の曖昧な気分のような気もするし、それを求めることも理解できない。

女)
うんうん。デマを流したらおもしろいかもしれないわよね。

「好景気の入り口に差し掛かっています。光が見えてきました。この波に乗り遅れないようにしましょう!みなさん、どんどん古いものは処分して、あたらしいもので生活をきれいに整えましょう!好景気ですよ!好景気が来ましたよ〜〜〜!!」食らいつく人がいたら 世の中まわるかもしれない(ぉぃ男)
ぐふ。オレも一回突っ込みを入れておく。(ぉぃ -_-;難しい経済学などさっぱりわからんが、景気という実体の無い幻想に世間は振り回されているような気がしてならないんだ。

女)
安心感だけはお金で買えないからむずかしいよね。でも、今 みんながいちばん欲しがってるのは「安心感」だと思う。

男)
うん。その「安心感」というのも、なにをもって安心できるのだろうね、、、うーん。

…誕生日というのに、こんな話題でよいのか戸惑いながらも、ケーキをパクつきつつ考える二人であった。

64ビット

先日、世界初の64ビットパソコン(G5)を発売するアップル社の新聞全面広告を見たと思ったら、数日後の新聞記事ではWindows版の64ビットCPUがAMDから発売された、とあった。
そのCPUを搭載したパソコンの価格はおおよそ30万円。といっても、従来のWindowsXPは32ビットのみの対応だそうで、WindowsXP・64ビットエディションがまず英語版で発売される。ということは、あと1、2年すると64ビットのCPUを搭載したパソコンが当たり前になるわけか。。。
しかし、動画が今よりスムーズに活用できるようになったとしても、コンテンツが追いつかないだろう。いや、コンテンツが増えたとしても、派手に出てきたBSデジタル放送が大苦戦をしているように、(一日約17時間しか起きていない人間の情報処理能力には限界があるわけで、)いくら媒体が増えても、人間が向かい合う時間を媒体が奪い合うだけで、パソコンマニア以外でどれだけの人たちが有り難がるのだろうか、と思ったりする。
なーんて書いているこのテキストも、2年後に読んだらオレは赤面するのだろうか?

アマチュアな自分

小谷さんがコラムやネットラジオで、「なんでもかんでもインディーズを名乗っているのはおかしい」というようなことをおっしゃっていた。ふむふむ、たしかに最近はそうだよなぁ。。。「インディーズ」という呼び方が出てきたころは、メジャー意外の独立レーベルからレコードやカセットやCDをを発売している人たちを指していたと思うが、簡単にCD(−R)が作れる最近は、確かにかなり曖昧になってきている。
また、本来はまったく意味が異なるのだが、インディーズとアマチュアがごっちゃになってしまい、アマチュアという言い方も死語になりつつある。自ら関わっている、“ネットインディーズ紹介サイト・音道楽”も曖昧なうたい文句だ。(苦笑)しかし、これ以上説明臭く長いうたい文句もどうかと思うし、いい加減でよいだろう。便宜上の差別化はジャンル分け同様に難しく、こちらで定義するものでもないし面倒くさい。メジャー予備軍のCDも、趣味で作った自主制作のCD−Rも、すべて並列表示。それでよいと思う。
オレ自身はなにかって?CDも作らず、プロ意識もないから単なるアマチュアと思っている。

カタカナ

カタカナ表記の氾濫については様々なところで語られ、不要なものはなるべく日本の言葉で表現しようという流れがあるのに、それに逆行して、メディアで最近よく使われるようになったものがたくさんある。
スキルは「技術力」でよいだろうし、モチベーションは「動機付け/やる気」でよい。マニフェストは「政策綱領」のことらしいが、わかりやすく「具体的な政権公約」でよいじゃないか。どれも、なにか新しい意味合いのような錯覚があるが、以前からある概念だ。そういえば、テンションて本来、「緊張」の意味なんだけど、「気合いが入っている」ことを「テンションが高い」というのも、違和感がある。ピッチングスタッフは「投手陣」でよいでしょ、長嶋茂雄さん。。。

スタンス

ネットで自作の音楽を配信していると誰かが聴いて感想をくれる。その人もネットで配信している。彼の音楽を聴いてみると、とても好感がもてる。共感もする。いっしょに音楽を作ったりする。そんなことが繰り返され人の輪が広がる。
(反発する人もいるだろうが)これは、いわば同人会のようなものだ。そしてそれでよいのだと思う。
音楽そのものを楽しみ、そしてそれを作った人の人柄に触れることが楽しい。刺激も受ける。
しかし、それでは満足できない人ももちろんいる。いつか必ず売れてやろうと、大海に飛び出していく。さて、そうなるとこちらの見方も変わってくる。もちろん応援したい。仲間だから心からそう思う。と同時に、一リスナーとしてひいき目なしに、“商品”としての彼の音楽に接することになる。

彼の音楽に固有の説得力があるのか?購入代金に見合うだけの質を提示しているのか?そして、これはたくさんの人の心をゆさぶる音楽なのか?人に勧めたい、売れてほしい音楽なのか?
仲間であると同時に、(仲間意識を排除し)単なる一アーティストとしても接しようと思う。ある意味で、それこそが(彼に対して無礼にならない)誠実な接し方なのではないだろうか。

凄いもの

《とんでもなくすごいライヴだった。まさにぶっちぎり。歌や演奏はもちろん、髪形、メイク、衣装、火花や炎、花火を使った舞台装置まで、なにもかもが規格外の、まさに「きちがいと紙一重」の世界。ありきたりな音楽、ありきたりな美意識、ありきたりな価値観を断固拒否するおそろしくストイックで鋼のような意志を感じさせる超絶的なパフォーマンスだった。》

これは、ミュージックマガジンに小野島 大さんというライターが書いたビョークのライヴ評の引用。こういう音楽への接しかたが出来るか否か、既成の自己の価値観の外にあるものを受け入れられるか。改めて、自分に問いかけてみた。

毒気にタジタジ

オレの地元は日系ブラジル人の方たちがたくさん住んでいる。関連コラム
近所のブラジルショップでサッカーのビデオを何回かレンタルしたことがあるのだが、いい加減なダビングもので、サッカー部分のあとに、なぜかあちらのテレビの音楽番組が録画してあった。しかもポルトガル語ではなく、「グラッチェグラッチェ」と言うところからしてスペイン語の番組のようだ。わけがわからん。アルゼンチンかコロンビア向けなのか??? 
で、内容はというと、簡単に言えば「ザ・ベストテン」と「夜のヒットスタジオ」と「ヤンヤン歌のスタジオ」が混ざったようなかんじ。アイドルもベテランもあり、スタジオもライブ中継もあり。司会は精力的にしゃべりまくり。
肝心の音楽はというと、これがリズムの大洪水。シンコペーションの嵐。客は踊りまくり。それも一曲がみんな長い。10分から15分がほとんど。ひたすら体を揺らす。休まない。延々と繰り返す。正直言って、いつのまにかキモチヨイのを通り越してつらくなってきた。まさにカルチャーショック!
日本人は(自分も含めて)外国の音楽をつまみ食いするのが得意だが、生活に根ざしたあちらの大衆音楽に本気で接する場合、時に慣れるのは容易でないものだ。なにせ、基盤にある生活習慣も体力も価値観もまったく異なるわけだから。あと食い物も。

産科と婦人科の病棟を分けて

自分の立場からすれば縁遠いことだが、だいぶ以前から強く思っていたこと。
たまたま、そのことに触れた記事が読売新聞にあった。卵巣ガン患者と出産をする妊婦がひとつの病棟で顔を合わせるなんてむご過ぎる。子宮を摘出する患者と、子供を生む(んだ)女性やその喜びに沸く家族が同じ病棟なんてむご過ぎる。

産婦人科に限らず、病院というものは治癒する者とそうでない者が隣り合わせになるもの。それはある意味、やむを得ない。しかし、産科と婦人科は根本的にまったく別物ではないか。病棟を分けるべきと思う。

掲示板

“ネチケット”という単語自体は最近まで知らなかったが、今更言うまでもなく、掲示板の書き込みには最低限のモラルが必要。とはいっても、内容の善し悪しは別にして、思ったことを好きなように書けるのも掲示板。掲示板を管理している立場では、それを覚悟しておく必要がある。そして、管理者それぞれがあくまでも自己の判断で責任をもって対処すればよい。

自分が他人の掲示板に書く上では、文章が不特定多数の人間に読まれることを多少は意識していたい。その程度の想像力は持っていたい。第三者を巻き込むことを少しでも気にかけるなら、メールという手段があるのだから。と書いたところでいったいナンになるのか、という思いも一方ではあるのだが。(-.-)

民主・自由の吸収合併

賛成。現実的な二大政党制へのプロセス。
“選挙のための理念なき野合”と自民党は批判しているが、自民党も同じ。極右からリベラルまで、よくいっしょにいられるわ。というか与党の旨味の前では、理念なんかどこかに吹っ飛んでしまっている。(かつては自社連立なんてのもあったしね。。。)ガラガラポンで二つに分かれればいちばんわかりやすいが、現実的には離合集散を何度も何度も繰り返していくことしかないのだろう。

著作権

たとえば自分の音楽に対して、誰かが独自のコンテンツで使用したい−と言ってきたとする。営利が絡んでいない場合、お互いの信頼関係さえ成立していれば基本的に問題がない。しかし、営利が絡んだ場合は著作権者として報酬を要求する権利が生じる。
だからそれを見越して、先方は著作権が登録されていないことを前提に「使用したい」と言ってくる場合がある。たとえアマチュアだろうが、自由をとるか?権利をとるか?難しいね。

勝手にシンドバッド

25年ぶりに再発された「勝手にシンドバッド」がオリコンのチャートで一位になったそうだ。このサザンオールスターズのデビュー曲を初めて聴いたのはザ・ベストテンのスポッッッッッットライトのコーナーで、ライブハウスからの生中継だったと記憶している。たしか「夜のヒットスタジオ」にも出ていたな。

音楽業界ではデビュー前からかなり注目されていた。彼らはデビュー前に、「イースト・ウエスト」というYAMAHA主催の全国規模のロックコンテストで入賞している。入賞曲は「女呼んでブギ」。その頃のサザンの印象はというと、大学の軽音楽サークルの延長という雰囲気で、音楽的にとくに新しいものとは思わなかったが、それまでのニューミュージック(死語)にはなかったバタ臭さと小粋さが新鮮だった。
サザンが登場する以前の日本の音楽状況はというと、【テレビに露出する歌謡曲VSテレビに出ないニューミュージック】という対立関係が存在していた。その対立の次元を軽いフットワークで飛び越えて、お茶の間にやってきたのがサザン・オールスターズだった。しかし、これほどまでに人気が持続するとは、想像もしていなかった。凄いなぁ。

辻本清美って、そんなに悪いことしたのか?

これが率直な印象だ。断っておくが、自分は彼女の親衛隊でも支持者でもない。
たしかに法的にはまずかった。“国のカネを流用した”わけだから道義的には悪だ。しかし心情的には−(名義だけの)公設秘書の給与を私設秘書に回したことが、そんなに悪いことなのか?
読売新聞によると、公設秘書から“献金”してもらっている国会議員は21%、親族を公設秘書としている議員は26%だそうな。
法的なことは別にして、家計のやりくりは誰もが考えることだ。親族を形だけの役員にしたり、名義を分散したり、管理だけの別会社を作ったりして、税金を節約することは当たり前に行われている。
心情的には、公設秘書の給与を私設秘書に回したことは同等の次元と思う。問題は−現実に私設秘書をたくさん抱えなければ議員活動がままならず、私設秘書に相当な給料を支払わなければならない−その根本的な構造にある。それと、国の税金を投入する[公設秘書制度]自体が形骸化していくことは初めから気づけたはずなのに、欠陥制度を作ってしまった国にこそ大いに責任があると思う。

時が流れて

2002年から2003年の初めごろまでの間、ある種の盛り上がりが確かにあった。
小谷さん率いるA.R.T.がコラボレーションを推進する企画を組み、その場に集まる形で人間関係が膨らみ、さらに、WAJINさん、Kin'sRooさん、ローラブのWAGAKAFuさんたちの求心力が加味され、まるで想像もしていなかったふたつのオフ・イベントも開催された。(一度でも直接お会いするということは、まったく会ったことがないのとは大違いになる。)

ところが、A.R.T.さんの企画変更による新たな展開や、それぞれの私的な事情による音楽制作の停滞や“ネット落ち”などがたまたま幾重にも重なり、今となっては“祭りは終わった”感がある。
思い返せば一抹の寂しさはあるが、同じ状況、あるいはそれ以上の熱気を帯びた状況が永遠に続くわけがないことも、また当然のことだろう。自分自身はどうかというと、今現在パソコンを買い換えたばかりでまともな音が出せない状況。(苦笑)環境が整えば、また気ままに音楽を作ろうと思っている。

ジミー大西

NHKテレビの人間ドキュメント「画家 ジミー大西」を観た。
「東京」という作品の創作過程を軸にしたドキュメント。意外にも、彼は自分で撮ったポラロイド写真を元に、デッサンをする。一見アバンギャルドな作風なれど、写実するところから自由に発展させていく手法が興味深かった。
彼は基礎をまったく学んでいないし学ぶつもりもないらしい。“90%の遊び心と10%の閃き”世の中をなめている。(笑)そこがいい。キャンパスをはみ出すような作品、ぜひ描いてほしい。

ベッカム様の来日

夕飯時、NHKのニュースを観ていたら、ベッカムの日本での様子を連日にわたって放映していた。
英国人のプロサッカー選手の私的な来日をエヌエチケーがニュースで取り上げるとは!なぜ?どんな裏があるんだろう?????と思った。(えぇ、私はヒネクレものです。)

読売・朝刊の囲み記事に「ベッカム狂列島・ホワ〜〜イ?」という見出しで、今回の騒動を海外のメディアが奇異の目で捉えていたことが書かれていた。その記事の最後は“ちなみに日本の次に訪れたタイでは、空港でのファン出迎えはほとんどいなかった”と、締めくくられていた。ベッカム狂のみなさん、さすがにタイまでは追いかけなかったようだわ。。。ベッカムをどう思うかって? 優れたプレーヤーでハンサムだよね。でもオレには台湾でキャーキャーいわれていた初代・加勢大周のように見えたのだった。

ナニゲニマジメニ

大学の頃、軽音楽部に所属していた。入学して“音楽をやりたい”という単純な動機はあった。
右も左もわからずなんとなく躊躇していたのだが、とりあえず2年生の時に遅れて入部した。近隣の総合大学にはたくさんの音楽サークルが存在しているようだったが、自分の入学した単科大学では、音楽関係のサークルは合唱部と吹奏楽部とそれしか無かったのだ。所属してみると、もちろん帰属意識に裏打ちされた連帯感の中で楽しくはあったのだが、一方では、月例発表会や年1回の定期演奏会のみが音楽をやる動機付けになっていて、(それが当然と思いつつも)“なにか違うなぁ”という思いがずっとあった。

発表会のために自分は音楽をやっているわけではないゾ!そして、作り上げていく過程を面白がらずに、和気あいあいの馴れ合いの中で、「練習不足でスミマセン!」とか言い訳しながら本番をやってしまう、これでいいのかいな??

そんなことを常日頃思っていたのだが、“言ったところでなにも変わらないし煙たがられるだけだ”と、情けなくも最後まで流されてしまったのだった。
確かに任意の団体に所属していれば、それなりの行事計画に沿って活動しなければ団体である意味はない。
しかし本来音楽は、お稽古ごとでもなく、お披露目のためのものでもないと思っている。誤解を承知の上で一言で表すなら、オレは音楽を楽しみたいのだ。

2年くらい前からネットで音楽を発表しているが、どこの団体にも所属することなく、幸いにも気の合った個人同士で共同作業を行い、なににも縛られずに好きなときに発表している。

軽音楽部でいっしょだったみなさん、今でも音楽好きですか?

癒し系ピアノ曲

なんか多いね、最近。それも似たようなメロディ。たしかに耳障りがいいやね。
ナントカゆずるっていう人、興味ないけど、その人の影響が大きいようだ。
そういえばだいぶ前だけど、サカモトの戦メリやYMOの東風のメロもこの雰囲気だったな。で、それを聴いたリスナーさんたち、「郷愁を感じる。懐かしい♪」という人が多い。
しかしそれは大きな錯覚だ。だって、このたぐいの元メロは中国だもの。日本には無かった。このネタ、じつはM.K.WAJINさんのもの。言われてみて激しく同意したのだった。

一般大衆薬

小泉内閣の規制緩和政策の一環で、大衆薬のコンビニ販売を解禁する方向だそうだ。
夜中に急に腹が痛くなったり熱が出たりした時に、コンビニに薬が置いてあれば便利だろうね。たしかに、現実にはドラッグストアなどではセルフ形式で薬が売られ、パートのおネーチャンがレジにいるだけ−というコンビニと同じ状態がすでにまかり通ってはいる。

“ヤクザ石”の立場からすれば(利害は別にして)、「本当にそれでいいのかよ」という思いがある。たとえば風邪薬や鎮痛剤には劇薬に相当する成分が入っているし、大量投与で意識が失せることもある。車酔い止めの薬と鼻炎薬には同じ成分が入っていて、いっしょに服用するとかなりの眠気が出て、小便の出も悪くなる。などなど。。。それらを知った上で服用している人が、どれほどいるのだろうか。
乱用悪用が容易にできる状況では、なにが起こってもまったく不思議ではない。製造者責任を明確にしたPL法がある。ということは、なにか事故が起こっても責任はなく、メーカーがアフターケアをしてくれる、という売る立場の甘えが存在していることも事実だろう。
試しに風邪薬に封入されている注意書きを読んでみてもらいたい。メーカーのトラブル事前防衛の証である細かい文章がたくさん書いてあるはずだ。相談は信頼のおける薬剤師のいる薬局で、常用大衆薬の購入はコンビニやドラッグストアで、ということか。どの程度の線引きになるのかは政治的な思惑が絡んで、現時点(2003.6.22)では不透明だが、テレビのコメンテーター、経済評論家、政治家の安易な言動にはしばし呆れる。
石●都知事曰く、「ふつうの頭痛薬くらい、(コンビニで売っても)いいじゃないの!」その“ふつう”ってなに?逆に、ふつうでない頭痛薬ってなに???

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