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それではあなたも、音楽のある環境では育たなかったわけでしょうか。 Mike:母方の祖父がヴォードヴィル芸人だったけどね。家庭の中にそういうのはなかった。音楽にハマったのはD・ブーンのせいだったんだ。すごく仲が良かったから、一緒に遊ぶ口実として始めた。音楽を仕事にしようなんて夢にも思わなかったよ。 彼とは幼馴染みだったんですね。学校も一緒だった? Mike:そう。13歳の時に出会ったんだ。彼のお袋さんに言われてベースを始めた。というのは、貧民街だったから親たちは放課後に子供を外で遊ばせたがらなかったんだ。彼の家が地域の児童館みたいな役目をしてた。 なぜあなたがベースだったんでしょう? Mike:D・ブーンがギターだったし、もう一人ドラムをやる息子がいたからだよ。だから必然的にオレはベース。本当にたまたまだった。友達と遊びたかったから弾き始めただけなんだ。 その頃はどんな音楽をやっていたのですか? Mike:クリーデンス・クリアウォーター・リヴァイヴァル。こういうチェックのシャツを着てるのもそのせいだけど。 (笑)。 Mike:D・ブーンはCCR以外に知らなかった。彼の親父はバック・オーウェンズ(カントリー)しか聴かなかった。だからオレがザ・フーとかクリーム、アリス・クーパーなんかを彼に紹介した。初めて行ったコンサートは71年のT−レックスだった。ところが、76年にハイスクールを卒業したら、突如パンクロックが現れたんだ。ちょうどいい時期にちょうどいい場所にいて、なんてラッキーだったんだ、って思うよ。ロサンゼルスにはそれまでクラブシーンなんてものはなくて、オレらはミュージシャンなんかじゃなかったけど、パンクが空から降ってきたんだ。突然、どんなやつでもステージに立てる時代になった。それまではずっと自分たちの部屋で演奏してた。パンクが起こって、すべてが変わった。だから、オレはいつまでもパンク・ムーヴメントに恩義を感じ続けるだろう。その頃のことを若い子に説明するのは難しいんだよね。今の子供達には生まれた時からパンクがあったから。彼らにとっては髪型の一種に過ぎない。あの頃のオレたちにとっちゃ、パンクはそんなもんじゃなかった。あらゆる扉を開くものだった。音楽スタイルの一種ともいうよりも、クレイジーになって羽目を外す方法だった。『ロッキーホラーショー』みたいなもんだよ(笑)。あの映画のファンは、暗記してるセリフを映画館で叫んで、トーストを投げたりして楽しんだんだよね。 あの頃のパンクのクラブもそれに似たものがあったんですか。 Mike:ああ、同じやつらが来てたし(笑)。San Pedroという町は、ハリウッドから30マイル離れてる。ロサンゼルスは一つの町というよりも、140個の町に広がってる地域なんだけど、パンク・シーンはハリウッドに集中していて、周りの小さな町から変な奴ばかりがハリウッドに吸い寄せられてた。映画もパンクも、そういう奴等がクレイジーになるのにうってつけだったんだ。 そして、あなたの個性的なベース・プレイは、後続のミュージシャンに大きな影響をもたらしたわけですが、この独特のベース・プレイは、どのようにして出来上がっていったのでしょうか? Mike:さっきも挙げたけど、まずクリームとザ・フーがあった。ジョン・エントウィッスル、ジャック・ブルース、ギーザー・バトラー……。ベースを始めた頃、ベースっていうものがどんなものか知らなくて、いろんなレコードを聴いてもどの音がベースが分からなくてね。基本的にはD・ブーンに影響されて弾いてたんだよ。オレのベース・プレイはD・ブーンが元になっている部分が大きいんだ。彼がベーシストじゃなかったにも関わらずね。ベースは普通バックグラウンドにいるもんだ、っていうことをオレは知らなかった。勝手に前面に出て演奏してて、それでいいんだと思ってた(笑)。それに、パンクのアグレッシヴさが加わって、今の形でプレイするようになったんだ。 ライヴではストゥージズのカバーとともに、『BALL-HOG OR TUGBOAT?』にも収録されていた、ファンカデリックの“MAGGOT BRAIN”のカバーも披露してくれましたね。やはり、ブラック・ミュージックもたくさん聴いてきたのでしょうか? Mike:ブラック・ミュージックにも多大な影響を受けてるよ。なにしろ、ブラック・ミュージックではベースが強力だからね。そういう役割の面以外でも、ブラック・ミュージックでの演奏のされ方にも影響を受けた。ブラック・ミュージックでは、ステージ上で個々のミュージシャンがバラバラに演奏している感じはない。お互いの音を注意深く聴きながら、お互いの動きをよく見ながら合わせてる。少なくとも、オレたちの頃はそうだった。ヒップホップではそれが分かりにくいけど。でも、ヒップホップでもみんなお互いの音をよく聴いて反応してるよね。ラップっていろんな意味でパンクに近いと思うよ。不遇な者や弱者のサイドのものって言うか。あとジョン・コルトレーンにも大きな影響を受けたよ。ジャズは大人になってから聴き始めた。D・ブーンが死んでから知り合った、レイモンド・ペティボーンという親しい友達がいるんだけど、彼の影響でジャズに凝って、コルトレーンやチャールズ・ミンガスが好きになった。黒人の音楽にはとてもインスパイアされるんだ。実際、どんなミュージシャンも黒人には感謝しなければならないと思う。アメリカ人のいいところの一つは、様々な文化を混ぜることだ。カントリーと黒人音楽が合わさってできたのが、ロックンロールというおかしな音楽だった。リトル・リチャード、チャック・ベリー、ジョン・コルトレーン、チャーリー・パーカー……その後では、スライ・ストーンやラリー・グラハムが大きいね。初めて親指でベースを弾いたのは彼だった。フリーじゃなくてね(笑)。フリーも素晴らしいベース・プレイヤーだけど、大元はラリー・グラハムだ。フリーに訊けば同意すると思うし、レス・クレイプールもそう言うと思うよ。ゲディ・リーじゃなくてね。 (笑)。あなたは、SSTレコードのレーベルメイト達とともに、90年代に入ってから全米を席巻するオルタナティヴ・ムーヴメントの基礎固めを行なったわけですが―― Mike:その通り。これをアメリカのプレスは無視しがちだ。すべてはニルヴァーナから始まったことにしたがる。ニルヴァーナの誰に訊いても、そんなことはないって言うはずなのに。嘆かわしいね。でも、ここへきて正しい歴史を記すことを目的にした本が書かれるようになってきて、オレも幾つかインタビューに答えたよ。オレはSSTに11年間所属した。ミニットメンの『PARANOID TIME』がSST-002だったことからも分かるように、レーベルの最初期からいたんだ。 はい、その後オルタナティヴがメインストリーム化し―― Mike:あるいはポップ化。オフスプリングとかリットとかな。 ええ。そして、やがては商業ヘヴィ・ロックにとって代わられる状況になりましたが、それをどのような気持ちで見ていたのですか? Mike:決して初めての出来事じゃないよ。歴史を振り返れば、パット・ブーンがカバーした“Tutti Frutti”の方がリトル・リチャードのオリジナルより遙かに売れたってこともあったわけだし。ずっと昔から繰り返されてきたお決まりの手順だ。衝動性が失われて、退屈な方程式に成り下がる、っていう。先鋭的なものが万人向け、にね。カッコよければ共産主義だって商品化されるさ(笑)。何の問題もなくね。クラッシュの時だってゲリラ・ファッションを流行らせようとしてたし。いつも言ってるんだけど、ロックは人民による音楽だ。リアルなものは必ず地下室から生まれてくる。ハートやマインドから生まれるものがリアルなのであって、ショッピング・モールからではない。生まれた時から消費社会にどっぷり浸ってきた若い子にそれを理解してもらうのはなかなか難しいけどね。でも、少しでも他人と違ってたり、社会に順応できなくて辛い思いをした経験がある奴にはピンとくると思うよ。 メジャー・レーベルからも素晴らしいアルバムを何枚かリリースしながら、fIREHOSEが解散してしまったのは、やはりインディーズのスピリッツがメジャーのレコード会社の体質によって変化を余儀なくされた、というようなことが原因なのでしょうか? Mike:変化を強いられたことはなかったよ。コロンビアと結んだ契約は、ほとんどSSTの時と同じようなものだったからね。SSTで11年やってて仕組みを理解してたからラッキーだった。こっちは完成したテープを届けるだけで、向こうに口出しはさせなかった。fIREHOSEはオレの意向で解散させた。7年半続いたから、ミニットメンより長い。fIREHOSEでできることはやってしまったと思ったから解散したんだ。レーベルは関係なかった。メジャーと契約した時も、金よりは自由を取ったんだ。D・ブーンが言ってたんだけど、バンドの活動にはフライヤー的なものとギグの2種類がある。ギグじゃなければフライヤーだ。レコードもビデオもインタビューもフライヤーだ。つまりギグに人を集めるための手段。そういう哲学でやってたから、メジャーとの契約も創造面での自由が約束されるなら何の問題もないと思ってたよ。具体的に言うと、前金をあまり要求しなかったってことだけどね。
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