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あの人にこの歌
aug.28.2002
ジョージ・ハリスンの評伝によれば1973年ころに当時ブライアン・フェリーの全曲カバーのアルバムにインスパイヤーされて彼もカバーのアルバムを考えていたというところがありました。フェリーのものはスタンダードも含んではいるものの1960年代のナンバーを多く取り上げたもの。またアメリカン・グラフティのヒットもあったのでしょうが1974年くらいには懐かし(ビートルズちょっと前くらい)のポップスの名盤(といってもこの時点で10年くらい前)が復刻されていました。カーペンターズの「NOW and THEN」もありましたね。この数年後にパンクがやって来てある種のまき戻しが起るのも同じ流れなのかもしれません。そう言う意味では今の邦楽のカバーブームはある種の-見方によっては終焉への-前兆かも(^^;
ということであの人にこの歌-尾崎亜美編。
まずはちょっと反則ですが、スターダスト・レビューで「オリビアを聴きながら」。もうステージではア・カペラでやられているんですよね、この曲。レコーディング希望ということで。
アイドルがどうしてもハロー・プロジェクトに収斂してしまって、なおかつ本丸はあんまり歌だけの魅力が薄い(^^;(もちろん中には原曲が良いとはいえ松浦亜弥の「ひこうき雲」のように意想外にかなり沁みるような歌唱もあります。)そういうシーンの中で上品な歌が聴けるのが乙葉。いやほんとに。その乙葉で「気粉れ予報」。結構面白いと思うんだけど。
あと誰かカバーしてくれないかなぁと思うのは「インスピレーション」比較的歌いやすそうですしね。星野真里とかでどうでしょう。
最後に本命ですが aiko : For You。ほとんど捻りがありません(^^;。というよりこれが為のテーマだったりしまして。たしかになんとなく想像もつくのですが、聴いてみたい。そういえばaikoさんオーディションでは浅香唯のC-Girlを歌ったそうですが、これも aiko + ピカデリー・サーカスでやったら面白いでしょうね。
継承
aug.22.2002
「今時の子供のように小さい頃からラップを聴いていたらどうなるんだろう?皆凄いリズム感を持つようになる?」なんて言う人もいるのですが、ほんとはどうにもならないように思います。かつてジョン・レノンは彼のところにいるメイドが赤ん坊をあやすときにR&Bをバックで流していると話していました。だから独特のグルーブがとも言っていたけど、確かに馴染むかもしれないけれど、だからって特別なグルーブを生み出せるというわけでもないみたいですしね。
以前は女子大生で最近は女子高生という違いはあってもその符牒を知っていることで若ブルというのは相変わらずで、ちょっとした指向の違いで世代間のギャップを言いたてる手法も相変わらず。どうも手垢のついた手法の方は相変わらず。
いくつかの可能性があるにも関わらず一つの方向が決まるとかなり不合理でも切り捨てて進んで行く。切羽詰っているならまだしもそうでもないのに進んで流されて行くんですね。まあ表面的に合わせているなら良いんだけど、ホントにほかの可能性は切り捨ててしまう(実は楽だからね)。バブルしかり、今回のCCCDしかり。CDが売れない理由なんて単純にPCコピーだと言いきれる分けないのに、他の可能性はもう探らないらしい。
音楽文化文化と言う割には旧譜に対する態度はKOOLというよりCOLDであるし、リマスターも含めて手間のかかることは御免らしい。で、いいですか、こういうことをやっているのは1960年代の音楽を聴いていた人たちなんですから。たかが音楽聴いたぐらいでどうかなんてなるわけはありません。
それにしてもコピーコントロールが行き渡っても相変わらずCDが売れない場合はどうするのかなぁ?かなり切羽詰った状態になると思うけど。
ところであのグルーブあふれるモータウンのかなりの楽曲もペットサウンズのちょっと変わった緊張感を生むベースも Carol Kaye という同じベーシストのプレイ。きわめてリーズナブル。
Post Modern
aug.13.2002
1940年代にはビング・クロスビーが、1950年代にはエルビス・プレスリーがそして1960年代にはビートルズがいた。1970年代は誰が?
多分ビートルズ登場前にはこんなアナロジーはなかったでしょうね。売れたという点はともかく強引に共通項を探してもクロスビーとプレスリーには歌唱法で革命を起こしたということはあったとしてもビートルズは必ずしも革命的な歌唱法とはいえませんから。もっともプレスリーにしてもほんとに無から有を生んだわけではないけれど。
まさに1970年代のポスト・ビートルズを待ちかねる、あの感動をもう一度という、話には聞いているけど見たことのない世代や商業的な収益を望む人たちの欲求があの言い回しを生んだように思います。丸でホントニ1970年代にそんな人が現れるみたいに・・・
最初の犠牲者は-メロディメーカーのポップポールでビートルズを破ったレッド・ゼッペリンでもなく、「アビー・ロード」をチャートの1位から下ろしたキング・クリムゾンでもなく、T.Rex。確かに華々しいスタイルと人気。ビートルズの最初の映画監督がリチャード・レスターだったからというわけではないでしょうがリチャード・スターキー(リンゴ・スター)の初監督作品は「ボーン・トゥ・ブギー」。ポール・マッカートニーは「T.Rexこそはビートルズの後継者」とリップ・サービスをしています。
有体に言ってビートルズという意味は大きく拡散してしまい、逆にいえばだからこそ多くの人が再度の降臨を望んだわけですが、そんな都合のよい存在が生まれるわけはありません。その辺がクロスビーやプレスリーとは意味が違っていたわけです。
振りかえればスティービィ・ワンダーはその音楽性やプラック・ミュージックの聞き手を広げたことから言っても少なくとも1970年代前半の活躍は突出しています。また売上で言えばエルトン・ジョンのセールスも群を抜いています。にも関わらずこう言った裏付けをもったミュージシャンですらとても「ビートル」とは呼ばれませんでした。
カーペンターズすら擬せられようとしていた頃に登場したのがBay City Rollers。ヒット曲を連発した彼らは一挙にポスト・ビートルズへと。なかなかセンスの良いカバーをやっていたりするのですが、しかし望まれるものがあまりにもベラポー。アルバムを沢山セールスすることだって並大抵のことではないのに、それすら一要素に過ぎないなんて(^^;
このBay City Rollers の登場したのが1975年。なかなか意味深な年ですね。日本でも夢よ再び派の強い支持を受けて熱狂を持って歓迎されていました。面白いのはこのグループ、離脱(卒業とは言わなかった(^^;)メンバーがまた新しいユニットを作ったりして、なんだかちょっとプロジェクトみたいな感じもありました。
もう一つ興味深いのはこの頃最初は割とマニアックなファンが注目したバンドが一挙にアイドルになり日本発のメジャーバンドになっています。Queen、Cheap Trickがほぼ同時期のバンドだというのも、一面ではそろそろ1970年代、私たちのビートルズが現れてもという幻想がどこかで裏打ちしていたような気がします。
Bay City Rollersは1977年に「It's A Game」というもうひとつのビートルズの呪縛であるコンセプトアルバム(実のところビートルズには大したコンセプトはなかった(^^;)を発表してほぼ表舞台から降りて行きます。なんといっても時代はPUNK一色になったのですから。
1977年に付け加えればビートルズの落とし子であるアップルを冠したコンピューターがウォズニアック-ジョブスの手によって生み出されています。ビートルズというよりはクオリーバンクの出会いといったものかもしれませんが。
ジャケット
aug.05.2002
1970年代後半を描いた映画の評論に「バブル前のまだ瞳に希望があった時代」と書いているものがありました。そうか、あの頃は瞳に希望ががあったのかぁとちょっと面白かった。バブルとの関系でもかなり雑駁な印象はあるのですが、一方で評者が20代前半なら仕方ないかという気もします
10年くらい前に「ありがとう(水前寺清子と石坂浩二が恋人役の高視聴率番組)」が再放送(実は2002年7月からCSでも再放送されている)されていました。この第3部(1973.4.26-1974.4.25)のなかで肉屋の店主役の佐野浅夫が「今は最悪で大変な時代だ」というようなことをシミジミと語っているシーンがありました。多分1974年明けた頃でしょうね。年表的に言えば「円」が変動相場制に移行し(ある意味では大人になったわけです)、第4次中東戦争が起り、そしてオイル・ショック。
たまに当時の映像が流れると大抵トイレット・ペーパーやティッシュ・ペーパーの争奪シーンだったりします。値段も上がっていました。実は今(2002年)よりも高くなっていた。そして石油が不足するということで石油加工製品の塩化ビニールも高騰すると言われてレコードのリリース計画にも影響が出ました。
この1974年辺りには新人のキャンペーンで自分のレコード用の塩化ビニールを確保するため古いシングルレコードを回収する、なんてことも行われたようです。もちろん実際にそんなことは出来る訳もなく(レーベル剥がして再処理なんて不可能とは言いませんが、当時の技術では馬鹿馬鹿しくコストがかかった筈)話題つくりだったのでしょう。また紙不足から(本当の意味で不足していたとは思えない(^^;)アルバムのジャケットはシングルにすることも決まったようです
実際にアルバムのアナログ盤は薄くなり、ジャケットはシングルになりました。で、山下達郎さんの話によればこの通達はレコード会社毎というよりはもう少し広くレコード協会の内規になっていたような節があります。
CDの時代になると全く意味はありませんが(^^;ダブルジャケットはデラックス!という印象がありました。インナースリーブがあって色々と工夫も凝らされていました。もっとも1960年代にはそんなに拘りはなかったのかもしれません。例えばビートルズは猛烈に売れ出した For Sale 以降もシングルジャケットです。結局ダブルでリリースしているのはSGT ペパーズ、ホワイトアルバム(2枚組)、レット・イット・ビーの3種類(ちなみに日本盤(東芝)は For Sale、Help! に来日記念盤とうたった初期の2枚が独自仕様のダブルジャケット)。
1970年代になると例えばRoxy Musicはデビューアルバムからダブルジャケット。そのままポスター代わりになるとは Bryan Ferryの弁。シングルジャケットになるのは4枚目1974年夏にリリースするCountyr Lifeから。6枚目のlive 「Viva!」(1976)ではダブルジャケットでリリース(ちなみに日本盤東芝もダブルで出ています)。
ところでダブルジャケットのアルバムを出したかった為、山下達郎さんは1978年!ライブの2枚組をリリースしたとのこと。つまり4年たっても例の内規は生きていた?
ということで初期の亜美さんのアルバムは全てシングルジャケット。「マイ・ピュア・レディ」の売れたあとの「マインド・ドロップス」もコンセプトがあった「リトル・ファンタジー」も。ジャケットがダブルに、そして様様な意匠を凝らすようになるのは1980年、移籍後の「メリディアン・メロン」からです。
Terpsiphone - 三条六角
aug.04.2002
Terpsichore: 9人のミューズのうちの合唱隊・抒情詩・踊りの担当テルプシコラー。この後ろのchore が-phoneになると、terpsiphone atrocaudata :サンコウチョウ(三光鳥)の学名になります。うーん、なんだか音楽関連では良いみたいと、その気になったものの、長い。でもwebは登録してしまったこともあってハンドルは取り合えず和名の三光鳥にしようと、そんな話しをしたところ「三条道」って何?という答えが返ってきました。三光鳥、あまり有名でないようです(^^;字面で見ると宗教臭いと言われるし。で、まあそれならいっそ「三条鳥」でもと。そういえば凧(しかも地元では烏賊と呼んでいるらしい(^^;)の「三条六角」と言うのもあったなぁと。なんだか京都っぽくて実は別というのも野趣があって面白いなぁ、と言うわけでbbsなどのハンドルは「三条六角」としました。ちなみに京都の通りでは三条と六角は一筋違いで平行に位置しています。一筋で三から六へと倍になるのもちょっと良い感じです