第二十八巻 夏の巻
ひふみ神示 第28巻 夏の巻
第一帖
与へられたもの、そのもの喜ぶようにすれば楽にゆけるよう、暮しむきもたのしたのしで暮せるようになってゐるぞ。あり余る程 与へてあるでないか。生かして使へよ。生活に何故アクセクするのぢゃ。与へてあるもの殺すから自分も死の苦しみするのぢゃ。有限でなければモノは顕われないぞ。モノに顕わすと有限となるのぢゃ。総てに感謝せよと申してあろうが。総てのものに、それ相当の意義あるぞ。全体的には喜びせねばならん。愛をもって接しなければならん。信をおかねばならん。ぢゃと申して局部々々に於ては、それぞれ、その時に応じて処理せねばならん。只その場合は、ゆとりをもって処理せよ。綱長くしておかねばならん。
第二帖
がよろこびであるぞ。また の はムでもあるぞ。内から外に向って行くのが のやり方、外から内に向って行くのが、がいこくのやりかた。 から に行くのは、マコトが逆であるから、マコトのことは判らん。外から行く宗教や哲学や科学が元を判らなくしてゐるのぢゃ。元わからんで生きのいのちの判る筈ないぞ。今の世は逆様ぢゃ。先祖から正せよ。原因から正して行かなならんぞ。 から出て にかへり、無限より出て有限に形し、有限から無限にかへり、又有限に動くのがマコトのやり方であるぞ。マコトの理解者には甘露の水ぞ。
第三帖
人間は神と共に自分自身で生長して行かなならん。人間から見れば全智全能の神、あるのであるぞ。このことよく判りて下されよ。マコトの理解と迷信との別れる大切ことぞ。
第四帖
何神様とハッキリ目標つけて拝めよ。只ぼんやり神様と云っただけではならん。大神は一柱であるが、あらわれの神は無限であるぞ。根本の、太 (ヒツキ)大神さまと念じ、その時その所に応じて、特に何々の神様とお願ひ申せよ。信じ合ふものあれば、病気も又たのしく、貧苦も亦たのしいのであるぞ。例外と申すのは、ないのであるぞ。他の世界、他の天体、他の小宇宙からの影響によって起る事象が例外と見えるのぢゃ。心大きく、目ひらけよ。
第五帖
なりなると申してあろうが。なると申すのは内分は同じであるが、形の変ることであるぞ。ウムとナルとは同じであって同じでないぞ。
第六帖
ほんとうにモノを見、きき、味はい、消化して行かなならんぞ。地の上にあるもの、人間のすること、その総ては霊界で同じことになっていると申してあろうが。先づ霊の世界のうごき大切。霊の食物、霊の生活、求める人民 少ないのう。これでは、片輪車、いつまでたってもドンテンドンテンじゃぞ。そのものを見、そのものに接して下肚がグッと力こもってくるものはよいもの、ほんものであるぞ。キは総てのものに流れ込むもの。信仰は理智的にも求められる、完き情である。真理を理解するのが早道。確信となるぞ。
第七帖
神も人間も同じであると申してあろう。同じであるが違ふと申してあろう。それは大神の中に神を生み、神の中に人民生んだためぞ。自分の中に、自分新しく生むときは、自分と同じカタのものを生む。大神弥栄なれば、神も弥栄、神弥栄なれば人民弥栄ぞ。困るとか、苦しいとか、貧しいとか、悲しいとか云う事ないのであるぞ。理(ミチ)ふめと申すのは、生みの親と同じ生き方、同じ心になれよと申すことぞ。人民いくら頑張っても神の外には出られんぞ。神いくら頑張っても大神の外には出られんぞ。
第八帖
見へるものから来る幸福には限りがあるが、見えんものから来る幸福は無限ぞ。つきんよろこびは常に神から。
第九帖
ウムと申すことは、自分をよりよく生長さすこと。一つ生めば自分は一段と上に昇る。この道理わかるであろうがな。産むことによって、自分が平面から立体になるのであるぞ。毎日、一生懸命に掃除してゐても、何処かにホコリ残るもんぢゃ。まして掃除せん心にホコリつもってゐること位、誰にでも判ってゐるであろうが。神示で掃除せよ。大病にかかると借金してでも名医にかかるのに、霊的大病は知らん顔でよいのか。信仰を得て霊的に病気を治すのは、一瞬には治らんぞ。奇跡的に治るとみるのは間違ひ。迷信ぞ。時間もいり手数もいる。物も金もいる。大き努力いるのであるぞ。取違ひ多いのう。
第十帖
過去も未来も中今(ナカイマ)。神も人間と同じで、弥栄して行くぞ。悪いくせ直さねば いつ何時までたっても自分に迫ってくるもの変らんぞ。おかげないと不足申してゐるが、悪いくせ、悪い内分を変へねば百年祈りつづけてもおかげないぞよ。理屈なしに子は親を信ずるぞ。その心で神に対せよ。神が親となるのぢゃ。目と口から出るもの、目の光りと声とは、実在界にも実力もってゐるのであるぞ。力は体験通して出るのであるぞ。
第十一帖
カタは形をもたねばならん。念は語ることによって現れるのぢゃ。 が無なればなる程 は有となるであるぞ。このことよく判りて下されよ。肚の中のゴモクすてるとよくわかる。
第十二帖
キがもとと申してあろうがな。人民は総てのもののキいただいて成長してゐるのであるぞ。キ頂けよ。横には社会のキを、縦には神の気を、悪いキを吐き出せよ。よい気 養って行けよ。【見分ける鏡与へてある】でないか。道わからねば人にきくであろうが。判らんのに判った顔して歩き廻ってゐてはならん。人にたづねよ。これと信ずる人にたづねよ。天地にたづねよ。神示にたづねよ。
第十三帖
ウとムは相たがいに相反するのであるが、これが一つになって動く。ウム組み組みてと、申してあろうがな。今の人民の智では中々解けん。ウの中心はム、ムの廻りはウであるぞ。中心は無限、周辺は有限であること知れよ。
第十四帖
上にたつ程働かねばならん。働いても力はへらん。働くにはキ頂かねばならん。キから力生れるのであるぞ。働くと申して動くばかりでないぞ。動かんのも働き、動くのも働き、よく心得よ。よせては返し、よせては返し生きてゐるのであるぞ。始の始と始が違ふぞ。後になるほどよくなるぞ。終りの中に始めあるぞ。祈り、考へ、働きの三つ揃はねばならん。
第十五帖
生めば生む程、自分新しくなり成り、大きくなる。人間は大神のウズの御子であるから親のもつ、新しき、古きものが そのままカタとして現れゐて、弥栄えてゐる道理ぢゃ。人間の総てに迫り来るもの、総てを喜びとせよ。努力せよ。モノ喜ばせばモノは自分の喜びとなり、自分となる。心の世界は無限に拡がり、生長するのであるぞ。神にとけ入って宇宙大に拡がるのであるぞ。神と共に大きくなればなるほど、喜び大きくなるのである。一神説いて多神説かんのもかたわ、多神説いて一神説かんのもかたわ、一神則多神則汎神である事実を説いてきかせよ。
第十六帖
人民は神のいれものと申してあろう。神の と人間の と通じて居ればこそ呼吸するのぢゃ。 と と通じて居ればそれでよいのぢゃ。神の と人民の と通じて居るならば、神の と人民の と同じようにしておかねばならんと申すのは、人間の誤りやすい、いつも間違ひ起すもとであるぞ。神の と人間の と同じようにしておくと思うて、三千年の誤りしでかしたのぢゃ。 と と結んでおけば後は自由ぢゃ。人民には人民の自由あるぞ。神のやり方と自ら違ふところあってよいのぢゃ。天の理と人の理とは同じであって違ふのざと知らしてあろう。心得よ。
第十七帖
神の姿は総てのものに現われてゐるぞ。道ばたの花の白きにも現われてゐるぞ。それを一度に、すべてを見せて、のみこませてくれと申しても判りはせんぞ。判るところから、気長に神求めよ。総ては神から流れ出てゐるのであるから、神にお願ひして実行しなければならん。この判り切った道理、おろそかにして御座るぞ。そこに天狗出てゐるのぞ。
第十八帖
自分が自分生むのであるぞ。陰と陽とに分れ、更に分れると見るのは、人間の住む次元に引下げての見方であるぞ。陰陽分れるのでないこと、もとのもとの、もとの誠の弥栄知れよ。
第十九帖
その人その人によって、食物や食べ方が少しづつ違ふ。身体に合わんもの食べても何もならん。かえって毒となるぞ。薬、毒となることあると気つけてあろうが。只歩きまわってゐるだけではならん。ちゃんとめあてつくって、よい道 進んで下されよ。飛行機あるに馬に乗って行くでないぞ。額に先づ気あつめて、ハラでものごとを処理せねばならんぞ。形ある世界では形の信仰もあるぞ。偶像崇拝ぢゃと一方的に偏してはマコトは判らんぞ。
第二十帖
人民の智の中に現われてくるときは、もはや大神ではないぞ。神であるぞ。原因の原因は中々見当とれん。
第二十一帖
始めは形あるものを対象として拝むもよいが、行きつまるのは目に見える世界のみに囚はれてゐるからぞ。タテのつながりを見ないからであるぞ。死んでも自分は生きてゐるのであるぞ。大我に帰したり、理法にとけ入ったりして自分と云ふもの無くなるのでないぞ。霊界と霊と、現界と現身(うつしみ)とのことはくどう説いてあろうが。神示よめよめ。大往生の理(ミチ)、弥栄に体得出来るのであるぞ。霊と体と同じであると申しても、人間の世界では別々であるぞ。内と外、上と下であるぞ。取りちがいせんようして下されよ。
第二十二帖
つくり主とつくられるものとでは無限にはなれて行くのぢゃ。和ないぞ。和のないところ天国ないぞ。こんな判りきったこと、何故にわからんのぢゃ。尻の毛まで抜かれてゐると申してあろう。早うめさめよ。悪の道、教にまだ迷うて御座るが、早うめざめんと間に合はんぞ。
第二十三帖
無限のものと、有限のものと、ムとウとをまぜまぜにして考へるから、人民の頭は兎角ウになりがちぢゃぞ。慾、浄化せよ。
第二十四帖
すべて世の中の出来ごとはそれ相当に意義あるのであるぞ。意義ないものは存在ゆるされん。それを人間心で、邪と見、悪と感ずるから、狭い低い立場でゐるから、いつまでたってもドウドウめぐり。それを毒とするか薬とするかは各々の立場により、考へ方や、処理方法や、いろいろの運び方によってしるのであるから、心せねばならんぞ。「今」に一生懸命になりて下されよ。三月三日、ひつく神。
第二十五帖
二十二のように知らすぞ。神の仕組、間違ひなし。どしどしと運べよ。三月八日、ひつく神。