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BAND
1.
山下達郎、大貫妙子、村松邦男、鰐川己久男、野口明彦
1と3分の1.
山下達郎、大貫妙子、村松邦男、鰐川己久男、野口明彦、木村真

1と3分の2.
山下達郎、大貫妙子、村松邦男、鰐川己久男、上原裕、伊藤銀次
2.
山下達郎、大貫妙子、村松邦男、寺尾次郎、上原裕、伊藤銀次
3.
山下達郎、大貫妙子、村松邦男、寺尾次郎、上原裕

※75年と76年の山下達郎のRADIOでの話や実際に見たものを書いてます。
他のSugarBabe Storyとは若干異なるかもしれません。
コピペすると恥かくかも。従ってコピペはご遠慮ください。
なにかございましたら、ここまでお願いいたします。


SugarBabe STORY
 1972
  • 達郎は池袋のYAMAHAを拠点にアマチュア・バンド活動。はちみつぱいの本田信介とは麻雀友達だったので、機材を借りて、鰐川らと自主制作版 Add Some Music To Your Dayを作成。
  • 村松はブリティッシュロックのアマチュアバンドにいた。
  • 中学時代にギターを始め、高校時代からママス&パパスなどをカバーしていたター坊は、渋谷YAMAHAで2人の青年に声を掛けられる。彼らはすでにレコード会社と契約をしていた。そして3人組フォークグループ・三輪車としてのデビューが決定する。レコード会社の企画は北原白秋の詩にプロの作曲家が曲をつけるというもので、オリジナルにこだわりグループを飛び出す。そのアレンジャーをしていた矢野誠の勧めで四谷のロック喫茶ディスクチャートに行く。そこで会った徳武弘文と「午后の休息」をDEMO録音。歌詞は他の人が書いた為、後の「午后の休息」とは全く違う。なおター坊は当時「歌える染物家」を目指していた。
  • 初代ドラムの野口も同じ店に通っていた。後のマネージャー長門芳郎はお店のスタッフ、その高校時代の友人が小宮康裕(やすゆう)。
  • 達郎も友人が偶然同じ店に出入りしていた為、顔を出すようになり、ター坊と「運命的な出会い」をしてバンド結成を決意。本当の意味のオリジナルSugarBabeは達郎とター坊の2人のみ(※1)。
1973
  • 4月から練習開始。出会った時は、達郎(ドラム)、村松(ギター)、鰐川(ギター)、ター坊(フォークギター)の楽器歴。達郎はリードボーカルの為ギター、ハートのあるギターを弾く村松がリードギター、速弾きの得意な鰐川はベース、「女の子はピアノでしょ」で小学校の頃ピアノを習っていたター坊がキーボードと云う編成になる。ドラム不在の為、「たまたまドラムをやろうと思っていた」野口が加入。
  • 8月に伊藤銀次から電話があり。高円寺のMovin'でAdd Some Music To Your Dayを聴き大瀧詠一に知らせたところ、呼んで来いと云われたとの事(※2)。なお一緒に聴いていた駒沢裕城は「ビーチボーイズの海賊版だ」と言い張ったらしい。
  • 夏の暑い日に大瀧詠一が誰だかよく知らずにマネージャーと共に達郎が福生に出向く(※3)。大瀧詠一からコーラスが得意なら、との事で、9.21.はっぴいえんど解散コンサートに出演決定。
  • 8月23日に長崎にて初ステージ。大震祭Vol.4(※4)。
  • 9月21日はっぴいえんど解散コンサートにコーラスで参加。世間一般にはコーラスグループと思われる。
  • コーラスやCMの仕事が入る。斉藤哲夫・荒井由実のコーラスや三愛バーゲンのCMなど。
  • 12月27日青山タワー・ホールでデビューコンサート。
1974
  • レコード・デビューの話が持ち上がり、4月3日にニッポン放送にてDEMOテープ録音。Show、パレード、夏の終りに、指切りの4曲。
  • 渋谷ジャンジャンの昼の部に定期的に出るようになる。その他、池袋シアターグリーンのホーボーズ・コンサートにも出演。木村真を加えた6人編成の時もあった。
  • 秋からファースト・アルバルのレコーディングをエレック・レコードのスタジオで開始。ター坊はエレック・レコードの守衛に「ファンの子は入っちゃダメ」と云われる。
  • クリスマスの日は荒井由実のコンサートに3人でコーラスとして出演。演奏中にバックバンド=ダディーオーの大野久雄のギターが壊れ、達郎自慢のグレコ・テレキャスモデル・ギブソンピックアップ付きを貸す。
1975
  • 1月24日にセカンド・コンサート。当時としては斬新なステージとなる。
  • 3月、鰐川脱退。大瀧詠一の勧めでココナツバンクの伊藤銀次と上原裕、ハイファイセットのバックバンドにいた寺尾が加わり、野口と正式メンバーだった時期があるのか不明だが木村真(PER)も脱退(※5)。
  • 4月25日にナイアガラ・レーベルからシングル「Down Town」、アルバム「Songs」をリリース。発売元は今はなきエレックレコード(※6)。
  • 6月に伊藤銀次脱退。5人になる。達郎がハンドマイクで歌えたのは3ヶ月のみ。
  • 様々なコンサートに出演。センチメンタル・シティ・ロマンスやめんたんぴん(サポートのピアノは2003年7月までハイロウズ)などとの共演が多かった。
  • 12月23日にクリスマスコンサート。
1976
  • 1月08日、達郎のオールナイト・ニッポンが始まる。
  • 2月24日にステージ上から突然解散を宣言。
  • 達郎は吉田美奈子とFlying Kid Screwのメンバー兼バンドマスターになった。同時にソロアルバムは海外録音との構想を発表。
  • ター坊は当時ティンパンアレーのいたクラウンからソロ・デビューの話が来る。正式契約は5月になってから。
  • 3月31日・4月01日に解散コンサート。
※敬称を省かせていただきました。申し訳ございません。

※1: 82年に村松邦男がラジオでター坊を「SugarBabeでは僕より古い」と発言。
※2: 76年のアールナイトニッポンでは達郎は「中野のMovin'」と言っていたがたぶん記憶違い。また大瀧氏のホームページでは吉祥寺の喫茶店となっている。また、この銀次がMovinで自主制作盤を聴くという出来すぎた話は、長門芳郎氏のSugarBabe売り出し計画のひとつとの見解もあり。つまり、銀次に聴かせればば、大瀧と合う機会が出来、そこからデビューへの近道になるのでは・・と考えたのではとの事。
※3: 76年のRADIOでは達郎は「はっぴいえんどは知っていたがあまり・・・」と言っていたが、75年の大瀧詠一によると「僕が誰か知らないで来た」そうです。
※4: 長門芳郎氏主催の彼の地元でのイベント。なお、前年8/05のVol.3は「はっぴいえんど」が出演して「ちぎれ雲」などを歌った。なお、長門芳郎氏は、パイドパイパーハウス消滅後、ドリームズヴィルレコード(夢街名曲堂)を興している。
※5: この脱退・加入の順番は次の通り。野口脱退&ユカリ+銀次加入、鰐川脱退+寺尾加入。Live受けするBandとしたい達郎の意向によりユカリと銀次が加入したが、西海岸及び南部サウンドの銀次は東海岸サウンドのSugarBabeに合わず、数ヶ月で脱退。「分数コードなんか使った事なかったし、ター坊の声と俺のギターは合わなかったし・・」(銀次)。
※6: エレック・レコードはごく初期の吉田拓郎、泉谷しげる、佐藤公彦、丸山圭子、生田啓太郎、ずうとるび、まりちゃんず、海援隊、ピピ&コット、カメカメ合唱団などを手がけたフォーク中心のレコード会社。本社は新宿にあったが、このレコーディング・スタジオは最悪のコンデションだったらしい。のちに「宮本武蔵100枚組み」などの在庫過多の為、倒産した。また発売日に諸説ありますが、エレックの場合「25日発売」とあっても場合によっては、前月に店頭に並びました。当時のエレック・レコードのNEWS4月号には(安い紙を使っていたらしく、もうぼろぼろ)、「4月25日、アルバム・シングル同時発売」となっていましたので、これが公式な日付だと思う。


参考資料
エレックレコードNEWS 75年4月15日号
山下達郎のオールナイトニッポンの放送内容
大滝詠一のGo Go Niagaraの放送内容
ミュージック・ステデイ 83年3月号
Fairy Land of Opechoco Family

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