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Tokyo, 2007. 11. 25
text by Yoshiyuki Suzuki
interpretation by Stanley George Bodman
translation by Satomi Kataoka


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2007年の暮れ、元ゴッドフレッシュのジャスティン・ブロードリックが率いるイェスーが来日を果たした。その時にドラムを担当していたのがテッド・パーソンズだ。これまでにスワンズ、プロング、キリング・ジョークといった強力なバンドで叩いてきた彼にぜひ話を聞いてみたいと考え、取材を申し込んだところ、まさに「人に歴史あり」としか言い様のない、すさまじく濃密なインタビューがとれてしまった。インタビューして本当によかったと思う。

「ジャズ・コールマンもマイケル・ジラもトミー・ヴィクターも、みんなスゴくユニークな連中だけど、こっちとしてはとにかくそれぞれの性格を知って、いつ口を閉じるべきかを判断し、そして自由に話をしていい時に言うべき意見をしっかり伝える――それが彼らとつきあっていく秘訣だね」

子どもの頃には、どんな音楽環境の中で育って、どういうことをきっかけに音楽に興味を持つようになったのかを教えてください。

Ted:初めて自分で買ったレコードは……両親がクリスマスに小さなレコード・プレイヤーをプレゼントしてくれて、「シングル盤でも買ってらっしゃい」って、お小遣いもくれたんだけど、それで“サーフィン・バード”を初めて買ったんだ。何度も何度も聴きまくったよ。ザ・トラッシュメンの“サーフィン・バード”さ。でも、窓の側に置いといたら溶けちゃってね。

(笑)。

Ted:で、またすぐレコード店に飛んで行って、新しいのを買ったんだ。たぶん5歳か6歳の頃じゃないかな。その後は、ごくスタンダードな、ビートルズとかビーチ・ボーイズなんかも聴いてたし、あと姉貴のコレクションから失敬した(笑)ローリング・ストーンズやT-レックス、ステッペンウルフのレコードとかも聴いたよ。子どもの頃は、あまり他の子ども達と一緒に遊んだりすることがなかったんだ。スポーツもやってなかったし、それより部屋にこもって音楽を聴いていたいタイプだった。あと、ジャズ・ドラマーをやってる叔父がいて、祖母と同居してたんだけど、しょっちゅうその家に遊びに行っては、彼の叩くドラムに聴き惚れてたよ。実際、かなり優秀なドラマーだったんだ。マーチング・バンドにも在籍してたしね。で、よく俺にも叩かせてくれて……それがドラムを始めるきっかけになった。確か6歳か7歳だったと思う。そこで、両親にドラムキットを買ってくれと懇願したんだけど、普通、親は我が子にドラムを最初に覚えてほしいとは、まず思わないよね(笑)。親にしてみれば、騒々しくてたまったもんじゃないだろうから。でもどうにか母親に、安物のドラムキットをガレージセールか何かで買ってもらうことに成功して、初めてのドラムを手に入れたんだ。で、当然だけど「これ以外は自分のお金で買いなさい」って言われて、小遣いを節約してグレッチのドラムキットを手に入れたんだよ。まずバスドラを買って、次にフロア・タム……という具合にね。ドラムの先生に、グレッチのドラムが一番だと勧められてさ。親も、土曜日になると必ず3〜4時間家を空けてくれてね――「テディ、今日はママたちが戻るまで、1日中ドラムを叩いていいわよ」って。俺は、デカい洞窟みたいな自宅地下室にドラムをセットして、レッド・ツェッペリンやディープ・パープルといった、いわゆる70年代化石ロック・ナンバーに合わせてプレイしてた。やがて13くらいの時に初めて、フライング・ガーズっていうバンドを学校の食堂で極秘裏に結成したよ(笑)。ベースが弾けるやつに声をかけて秘密のミーティングを開いて、「(小声で)よし、バンドやろうぜ!」、「ああ、わかった!」ってね。

(笑)。

Ted:で、「じゃあどうしよう?」ってことになったんだけど、その時点でドラムの俺とそのベース担当と、あとピアノが弾けるやつがいて、俺は親に確認をとる間もなく「うちの居間で練習できるぜ」って宣言してたんだ。父親がピアノを持ってたからね。でも……演奏はヒドいもんだったな(笑)。確か録音もしたはずなんだけど、どんな音を鳴らしてたか想像もつかないよ。というわけで、それが俺の少年ドラマーとしてのスタートだった。高校でも色んなバンドでプレイしてたよ。キッスが大好きだったから、キッスのカヴァー・バンドで、学校のダンス・パーティのバンド演奏の前座をやったりもしたんだ。ちゃんとメイクもしてね――俺も猫のメイクをしてさ。でも、メイクのやり方が間違ってて、ステージで汗をかき始めた途端にどろどろに溶け始めてね。

(笑)。

Ted:マーブル模様に変身しちゃったよ、アハハハ(笑)。レパートリーはほとんどキッスの曲だったけど、あとツェッペリンの“コミュニケーション・ブレイクダウン”とかもやってたな。高校時代まではそんな感じだったね。その頃のバンドで初めてやったギグが、実は俺にとって生まれて初めてのギグだったんだけど、会場が何と精神病院だったんだよ。俺たちのマネージャーになりたいって言ってきたやつの勤め先が、その病院だったんだよね(笑)。みんな「初めてのギグ、めちゃくちゃ楽しかったよなあ!」って……だってステージの前にデカいバリアまで立ててあるし、ギグの最中に発作を起こした患者が3人もいたんだぜ(笑)。車椅子に座った男が後ろにひっくり返ったり、踊りすぎて発作を起こしたやつがいたり……それが、俺にとっての初の正式なギグだったんだ、アハハハ!

そりゃスゴいですね。さて、一般には、あなたのドラマーとしての大きなキャリアの第一歩というと、やはりスワンズに参加したことだと言われていますが。

Ted:ああ、まさにそうだね。70年代の終わり〜80年代の初め、アート・スクールに通うためにニューヨークに引っ越したんだけど、アートの勉強よりクラブ通いの方に熱心で、毎晩のようにグレイトなバンドのライヴを観て過ごしてたんだ。マクシズ・カンサス・シティもまだやってたし、CBGBの全盛期だったし、あらゆるクラブに毎晩のように出没して、大好きなバンドをチェックしてた――そのほとんどが、当時のパンク/ニュー・ウェイヴ・バンドだった。まあ、スワンズの前にも、ニューヨークに引っ越して以来、色んなバンドで活動してたんだよ――たとえばテン・ヘイル・メアリーズとか……つい2週間前、メンバーのひとりから曲が送られてきたよ。相変わらずバリバリのパンク・ロックだったな(笑)。フォールっぽさとパンク・ロックがミックスした感じさ。で、その後スワンズに参加したんだ。

彼らとは、どういう経緯で出会ったんですか?

Ted:ベース・プレイヤーのアレジスと知り合ってね。CBGBで俺の前のバンドが演奏した時、あいつがふらりと現れたんだ。当時あいつのことは知らなくて、俺にはものすごく変わったやつに思えたよ。妙なスカーフを巻いたりして、最初はゲイかと思ったくらいさ。ヘビメタ版クウェンティン・クリスプ(※スティングの“イングリッシュマン・イン・ニューヨーク”のモデルになった英国出身のゲイ作家・俳優)か何かみたいだったよ(笑)。「(ガラガラ声で)あんたたち、ヴェノムみたいだな」って言われて、「誰、そのヴェノムって? それにあんた誰?」って(笑)。すると「俺の名前はアル。会えて嬉しいよ」って自己紹介されてさ。で、次の日にはヴェノムのレコードを買いに走って、聴いた瞬間にほれ込んだよ。それをきっかけにクロスオーバー系のメタルが好きになって、アルともすごく仲良くなったんだ。その後シンガーのマイク・ジラとは、バーかどこかで会ったんだと思う。そしたらアルに「2〜3ヵ月ほどツアーに出るんだけど、スワンズに参加する?」って誘われて、でも実は当時の俺は、スワンズがそれほど好きじゃなかったんだよね。どういうバンドかは知ってたよ――いつもソニック・ユースやなんかとプレイしてることもさ。でも結局、ヨーロッパで3ヵ月っていう話に惹かれて「いいねえ。ああ、仲間に入れてくれ」ってことになったんだ。リハーサルは本当に楽しかったな。当時はドラマーがふたりいてね。それで、3ヵ月間ヨーロッパをツアーして、最高の経験をさせてもらった――ライバッハにアインシュテュルツェンデ・ノイバウテンにテスト・デパートメントと、色んなアーティストに会えたしね。どれもそれまで聴いたことなかったけど、みんなスワンズのことをすごく気に入ってて……とにかく素晴らしい経験だったよ。ポーランドとか東ヨーロッパも回ったしね。それから正式にスワンズのメンバーになって、4年間在籍した。スワンズのメンバーとして初めてレコーディングしたアルバムは、“A Screw”が入ってる『Holy Money』で、次が『Children Of God』、あと『Great Annihilator』にも参加したな。以上が俺にとってのスワンズでの歴史さ。

なるほど、話が横にそれるんですが、おととい実は、ノイバウテンのブリクサ・バーゲルトにインタヴューしたんですよ。

Ted:あ、そうなんだ。えーと……ブリクサについては、何てコメントしたらいいか分からないんだけど、すごく神経質なやつとだけ言っておくかな。スピードをやりまくってたし。俺が親しみを感じてたのは、アレキサンダー・ハッケの方で、彼とは今でもよく話をするよ。すごくクールでいいやつさ。ブリクサよりずっとしっかりしてるしね。

(笑)アレックスには去年インタビューしました。ブリクサは、今はワインがすごく好きみたいですね。

Ted:ああ、あいつは大酒飲みさ。それでも初めてノイバウテンのショウを観た時は、やっぱりぶっ飛んだよ。あんなショウを観たのは生まれて初めてだった。すさまじいメタル・サウンドで、実際にのこぎりとか使ってたし、文字通りインダストリアルという言葉がピッタリくるバンドだったね。最近はサンプラーさえあれば、誰もがインダストリアルになれるけど、ノイバウテンやスロッビング・グリッスルこそが、本物のインダストリアルだった。それにライバッハもね。ライバッハとは、リュブリャナ(スロベニアの首都)で2〜3日いっしょに過ごしたことがあるんだ。音楽だけじゃなくアート・グループも結成してて、素晴らしい絵を描いてる。スワンズにいたおかげで、それまで意識もしていなかった色んな新しいものに目覚めることができたよ。ただ、スワンズではよくこういう冗談を言ってたんだ――「ステージでプレイしてる最中、次のビートを叩くまでに楽屋に戻ってサンドイッチを作ることができる」って(苦笑)。曲のテンポがすごくゆっくりなんだよね。でもだからこそ、拍子というものの存在を強く感じながら演奏させられた。パンクをやってたそれまでは、とにかく速く叩けばいいって感じだったけど、一方のスワンズの音楽はパワーが全てで、あのすさまじくラウドな音楽をプレイするうちに自分でもトランス状態に陥りそうだったよ。その時のツアーに持っていったPAはドイツのメーカーのやつで、とにかくものすごくラウドなんだ。全てのクラブでそのPAを使ったけど、バーミンガムのクラブでは天井が落ちてきて(笑)めちゃくちゃスゴかったな。ベースのアレジスも、フルヴォリュームでパワー・コードを弾いてたし。当時のサウンドマンのジャック・ボルシュは、スネイクフィンガーやレジデンツを担当してたこともあって、さらにはライバッハやテスト・デパートメントのミックスをやったこともある人物で、思い切りラウドでしかもクリアな音をミックスするのは、もうお手のものなわけ。ショウを観に来た友達のひとりは「音があまりにすごくて、首根っこにパンチを食らってる気分だった」って言ってたよ(笑)。音の衝撃がそれくらいスゴかったんだ。スワンズの音楽は、とにかくラウドでなきゃ始まらなかったからね。でも……そのうちだんだん飽きてきた。ツアーもすごく多いし、他のこともやりたくなってきたんだよね。ハイハット使ったり、フィルを入れたりしたくなったんだ。それで、新聞にトミー・ヴィクターが出したメンバー募集広告を見て、応募したんだよ。「ジャンルはブラック・フラッグからブラック・サバスまで」って書いてあったっけ(笑)。

それがプロングだったんですね?

Ted:そう、それがプロングだった。そこで広告に載ってた番号に電話して、トミーと会ったんだんだ。すぐ意気投合して、いい友達になったよ。そこからスタートしたんだけど、当初は趣味としての活動みたいなもんだった。まだアート・スクールで絵を描いてたから、そっちの方にも重点的に取り組もうとしてたしさ。それでもCBGBとか、ありとあらゆるハードコア系のクラブでプレイしたよ。実際、誰とでも対バンしてたね。トミーに会った頃、そういうハードコア以外にも、当時出始めてたニュー・メタル――スレイヤーにエクソダス、デストラクションなどなど――にふたりともハマってて、しかも、クロームやキリング・ジョーク、ストラングラーズといったバンドも大好きだったから、ふたりとも音楽的なバックグラウンドや音楽の趣味が、かなり似通ってたんだ。とにかく、そんな感じで、趣味とは言ってもニューヨークではかなり演奏活動をしてて、そこからボストンやワシントンDCへ活動範囲を広げて行った。オンボロのヴァンを買って、トミーが住んでたマンハッタンのバワリー通りの駐車場に停めてたんだけど、一度、通りにたむろしてるホームレスのやつらに、車の中に不法侵入されたこともあったっけ。中で居眠りしてるやつらを「ほらもういいだろ、出て行け。これからギグなんだ」って追い出して(笑)……でも、その頃は何かに期待したりとかは全くしてなかったよ。どのレーベルも俺たちと契約しようとしなかったから、Spigotていう自主レーベルを立ち上げて、そこからレコードを出して。もともとトミーはCBGBでサウンドマンとして働いてて、オリジナル・ベース・プレイヤーのマイク・カークランドはCBGBのドアマンをやってたんだよね。で、俺はCBGBの“ビール担当”、つまり常連客でビールを飲んでた、と(笑)。あそこは自分にとって、もうひとつの我が家かオフィスみたいな場所だったな。パティ・スミス、トーキング・ヘッズ、ラモーンズと、たくさんのグレイトなアーティストがあのクラブでプレイしてたわけだけど。

まさに。

Ted:とにかくプロングはものすごく楽しかったよ。ソニック・ユースから、クロ・マグスやウィップラッシュといったメタル・バンドに至るまで、色んなバンドと共演したし、その中でオーディエンスを増やしていったんだ。あと、当時Relativityレーベルの一部で、ハードコアをたくさん扱ってたIn Effectっていうレーベルとも仕事してたし、それにジョン・ローダーのレーベルのイギリスのサザン・レコードからも、アルバムをリリースしたことがある。ジョン・ローダーは伝説のプロデューサーで、2005年に亡くなったけど、初期のクラスとかジーザス&メリー・チェインとか、あのへんみんな彼が手がけたんだよね。初めてイギリスに行った時、1000人の観客の前でプレイして、「すっげぇ! こんな大勢の前でやるの、生まれて初めてだ」って感激したのを覚えてるな。その後ヨーロッパもツアーして、俺が自分で車を運転して、しかもドラムのセッティングもグッズの販売も、全て自分自身でやってたっけ(苦笑)。でも、その頃いちばん金を稼いでたのも事実なんだ。かなり人気もあったしね。しばらくして、CBGBでライヴをやった時、ある男が話しかけてきたんだ――当時CBGBにはリヴィング・カラーもよく出てたんだけど、「ヴァーノン・リードが“プロングと契約すべきだ”って言うから、観に来させてもらった」って言うわけ。それで確か3回観に来て、3回目で「ソニーと契約しよう」って言われて、即座にOKさ(笑)。でも今振り返って考えると、あまり賢明な策じゃなかったかもって気がする――インディにとどまってた方が、多分よかったんじゃないか?ってね。ただ、俺たちとしてはツアーがすごくやりたかったから、ソニーからその資金をもらいたかったっていうのもあるんだよね。実際にソニーとは、すごくいい関係だったと思うよ。エピック・ソニーでは確か、アルバム6枚作ったんじゃないかな(※在籍時代にレコーディングされたものは実際には4枚)。クレイジーなショウもガンガンやらせてもらえたしね――ブラック・サバスやオジー・オズボーンとやったり、オズ・フェストに出たり……モーターヘッドとかパンテラとか、色んなバンドの前座もやったし。実際、パンテラはプロングの大ファンで、いつもライヴに呼んでくれたんだ。一方では、相変わらずクラッチとかコロージョン・オブ・コンフォーミティとも一緒にやってたし、とにかく四六時中絶えずツアーに出ていた。もう、めちゃくちゃ疲れたよ。1年のうち8〜9ヵ月間はツアーに出てたからね。でも当時は、アンダーグラウンドのクロスオーバー・メタル・バンドが売れるためには、ツアーが不可欠だったんだ。メタリカだって、そうやって成功したしね。ラジオではあまりプレイしてもらえなかったけど、絶えずツアーをやってプロモートし続けたおかげで、レコードが売れるようになったんだ。別にあそこまで成功したいと思ってたわけじゃないけど、もっと大勢の人の前でプレイして、自分たちの音楽をもっと広めたいのはやまやまなわけで。で……前回日本に来たのが確か97年頃かな? 俺がプロングに在籍してたホントに最後の時期だったんだけど、その頃にはトミーと俺の友情も冷めつつあったし、まるで結婚生活が破綻した夫婦みたいに、同じ部屋にいるのも苦痛なほどだったんだ。ベース・プレイヤーも、マイク・カークランドからトロイ・グレゴリー、ポール・レイヴンと3人代わって……でも最後のラインナップのプロングが、たぶん一番よかったんじゃないかな。初期のプロングはとにかく荒削りで、初めてリリースした『Primitive Origins』なんかまさにタイトルの通りというか、文字通りプリミティヴなアルバムだったからね。

はい。

Ted:で、その後ゴッドフレッシュに加わったんだけど、ゴッドフレッシュとプロングはそれまでにも何度も一緒にライヴをやったことがあったし、トミーと俺はゴッドフレッシュのファースト・アルバムの大ファンだったんだ。素晴らしいアルバムだよ。多くのバンドがそうだったように、俺たちもゴッドフレッシュの影響をすごく受けてた。ああいうバンドは他になかったからね。で、87年か88年頃、ゴッドフレッシュと共演した時、メンバーのジャスティン(・ブロードリック)へ「ドラマーが必要な時はいつでも電話してくれ。ドラム・マシンと代わってやるから」って言ったのさ(笑)。ジャスティンは「マジで?」って感じで……というのも、ジャスティンはスワンズの大ファンだったんだよ。彼はスワンズを崇拝してたんだ。で、10年後ついに電話をもらったよ(笑)――プロングも解散した後にね、ハハハハ! ゴッドフレッシュでやった全米ツアーは、最高に楽しかった。相変わらずヴァンで移動しながら古びたモーテルで眠る毎日だったけど、何しろゴッドフレッシュだし、またそうやってプレイできるのが嬉しくて仕方なかったんだ。プロングが解散した後は、「俺、これからどうすればいいんだ?」っていう状態だったからね。人生のうち10年をプロングに捧げてきたわけだしさ。トミーが「もうプロングなんかどうでもいい」って言い出して……ソニーをクビになったのが、あいつにはかなり堪えたみたいだった。パール・ジャムとかレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンとか、ああいうマルチプラチナ・ヒットを飛ばしてるようなバンドと競争しなきゃならなくなって、でも当然俺達にそんな力はなかったし、実際ソニーも俺達と契約してみたものの、どう扱えかえばいいかずっと見当もつかない状況だったんだと思う――「こいつら、メタルなのか? それともパンク? 何なんだ?」ってね。(契約したのは)時代的に、ヘルメットが注目される前で、ミニストリーがどんどんビッグになりつつあった頃なんだけど、ソニーとしては、俺達をそういうシーンのどこに位置づけて売ればいいのか、いまひとつ分かんなかったんだろうな。

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