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Tokyo, 2002.12
text by Yoshiyuki Suzuki
interpretation by Stanley George Bodman
translation by Ikuko Ono

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傑作アルバム『ワン・ビート』を携えて、2002年の暮れに待望の再来日を果たしたスリーター・キニーは、それはもうマジで素晴らしいライヴを見せてくれた(サポートを勤めたイースタンユースも大好演だった)。コリン・タッカー、キャリー・ブラウンステイン、ジャネット・ワイスの3人が打ち鳴らすビートは、女性バンドにつきまとう様々な形容句を全てとっぱらったところで、間違いなく世界で最も鋭いロックンロールのひとつと言い切れる。この時の取材では、卓越したドラミングでバンドの屋台骨となっているジャネットに、個人的なことからバンドのことまで色々と話を聞かせてもらった。おそらく他では読めない彼女の2万字インタビュー、是非じっくりと読んでみてください。そしてスリーター・キニーというバンドが持っている、知性や品格を感じとっていただければ嬉しいです。

「同時多発テロ事件以降、私たちにとってはライヴがこれまで以上に大切なものになってきている。特に今みたいな時代、お互いとの繋がりを感じさせてくれて、生きている実感を与えてくれるものって本当に貴重だと思う」

まず最初に、あなたの生まれ育った音楽環境は、どんな感じだったのかを教えてください。

Janet:私の家は両親ともミュージシャンなの。プロじゃないけど、父は6才頃からハーモニカを吹いてて、母はクラシックのピアノを弾いていたわ。だから私は、毎日音楽が流れてる家で育ったのよ。10代の頃には、他のどんなことよりも音楽に夢中になって(笑)、ミュージシャンになる前は本当に熱心な音楽ファンだったの。ライヴを観に行ったり、自分の部屋でヘッドホンをかけて音楽を聴くことをこの上ない楽しみにしていたわ。音楽を使って自分の理想の人生を思い描いていたのね(笑)。実際にギターを弾き始めたのは17才か18才の頃だったと思う。で、何年か弾き続けた後、サンフランシスコの大学に通ってる頃に、あるバンドにドラマーとして誘われて、一緒にツアーに出る事になって。それが22歳の時よ。音楽を聴くだけでなくて楽器をプレイすることに心から惚れ込んだのは、その時が初めてだったわね。

どうしてまた、ドラムをやることになったんですか?

Janet:実は偶然なのよ。ザ・フューリーズっていうバンドだったんだけど、彼らがどこからか、私がドラムのレッスンを受けているって聞きつけたらしいの。私、ドラムのレッスンなんて受けてないのに(笑)。ドラムに全く興味がなかったわけじゃないけどね。で、彼らはツアーの予定が組んであったのに元のドラマーが行けなくなって、なぜか私に「ツアー開始前の2週間を使って曲を覚えて、一緒に来る気はないか」って声をかけてきたってわけ。そこで私はドラム・キットを借りて、彼らのレコードに合わせてプレイしてみたの。何時間も延々とね。それでなんとか使えるレベルになって、ツアーについていったのよ。いかにひどいバンドだったかの証明よね、たった2週間練習しただけの素人ドラマーを入れたんだから(笑)。だから自主的にドラムを選んだというよりも、ドラムに選ばれた、という感覚なの。実際にプレイし始めると、ステージの上でみんなの目にさらされながら覚えていくのは恥ずかしかったけど、そのぶん早く上達したわ。

その時、それまで経験のなかったドラムを、そんな大変な状況でも引き受けてみようって思ったのは何故なんでしょう?

Janet:うーん……ドラム自体に対する興味というより……バンドの前面に出てプレイするんじゃなくて、後ろの方で座ってて、それでも音楽に貢献してるっていうポジションに惹かれたのかな。ギターは楽しんで弾いてたけど、それほどしっくり来なかったのよ。……結局その時は、ツアーに出るってことに一番興味があったのかもね(笑)。

その当時はどんな音楽を好んで聴いていたんですか?

Janet:ハイスクールの頃は、クラッシュとかR.E.M.、X、ドリーム・シンジケートなんかを聴いてて、地元LAでのショーを観に行ってたわ。16〜17歳の時も偽造の身分証明を持ってたから、いろんなショーが観れたの。バーがあって未成年が入場できないショーでもね。特にXは何度も観て、すごくインスパイアされたわ。その時は自分がステージに立ってプレイするようになるなんて思いもしなかったけどね。その後R.E.M.とかの他に、ミニットメン、ミート・パペッツ、ハスカー・ドゥといったSSTレーベルのバンド達のライブを観ることによって初めて、自分もステージに立ってみようっていうことをリアルに感じるようになったの。

なるほど。ちなみに、もっと小さい頃に聴いていた音楽はどんなものだったんでしょう?

Janet:子供の頃は主にAMラジオを聴いていたのを思い出すわ。KHJというステーションがあって、素晴らしく多様性のある音楽を流してたのね。ボブ・ディラン、ジャクソン5、スライ&ザ・ファミリー・ストーン、カーペンターズ……。そういった70年代の曲から音楽教育を受けたようなものね。当時のラジオは今と違って、音楽的スタイルの違うものを一緒に並べてプレイすることが、びっくりするくらいに自然だったのよ。それが音楽に関する私の一番古い記憶。

そして17歳の頃にパンクの衝撃を受けた、っていうことになるんですね?

Janet:もうちょっと後だったかな。大学に入って、デッド・ケネディーズを観に行った18歳の頃。大学のキャンパスでライブがあったの。あれは確かになかなか衝撃的だったわ(笑)。スカッとしたというか。それより若い頃は、パンクって男の子のものだと思ってたの。パンクのショーっていうといつも、半裸の男の子たちが渦巻いてるピットがあって……って感じでしょう。そこに入っていくことなんて考えられなかった。だから例えばクラッシュとか、よりソフトな、ハードコアではないバンドの方に共感して聴いてたのね。だから、私にとってインパクトがあったのは、アメリカン・パンクのセカンド・ウェイヴ、生まれ育ったLAのバンド、大学のあったサンフランシスコのバンド、そして移住先の米北西部のバンドだった。ビキニ・キルやカラミティー・ジェーンのように、実際に知り合いになったり、ちっちゃなクラブで観たりしたバンドに一番影響を受けたと思うわ。そういえば、ここに来る前にオーストラリアで、ボブ・モウルドと食事をする機会があってね。とってもエキサイティングだったわ。畏れ多くてかしこまっちゃったけど、すごくいい人だった。「キャーどうしよう、ボブ・モウルドだ!」って内心興奮してた(笑)。

(笑)。さっきの話だと、クラッシュとかR.E.M.を聴くようになっても、まだその時は聴いていただけで、自分でもステージに立てる可能性を考えるようになったのは、ハスカー・ドゥやミニットメンを観てから、っていうことだったみたいですけど、SSTのバンドのどういったところが「自分でもやってみたい」という気を起こさせたのでしょう?

Janet:彼らの佇まいがそう思わせたんじゃないかしら。自分達で楽器をセッティングして、ギターのチューニングもショーの後片づけも自分達でやってて……バンドっていうものの仕組みを見せてくれたから。大勢のローディーに任せてるようなバンドとは違ってた。空いてる時間にはバンドの人達と直接に話をすることもできたし。カリカチュアされてない、話の通じる人間がやってるんだ、っていう感覚があったのね。私も、ミニットメンのドラマーだったジョージ・ハーリーに話しかけたいがために、くだらない質問をしに行ったのを覚えてるわ(笑)。そのことで『この人達も普通の人達なんだ。私にもできるかも』って思えたのね。だから今では私達もなるべく、ショーの後でファンの人達とおしゃべりする時間を持つようにしているし、アメリカではセッティングも自分達でするようにしてるの。ずっと以前から今に至るまでそうしてるわ。ファンの人達に親しみやすいバンドでいることは私達にとって大切なことなのよ。特別なパフォーマーでなく、みんなと変わらない普通の人達だって感じてもらうためにね。

素晴らしい考え方だと思います。ところで、ちょっと地理関係の整理をしたいんですけれども、生まれがロサンゼルスで、大学がサンフランシスコで……その後の経緯を教えてくれますか?

Janet:生まれたのはハリウッドよ。17歳で大学入学のためにサンフランシスコに移って、大学に5年通った後、もう1年サンフランシスコに住んでて。それからオレゴン州のポートランドに引っ越したの。それが1989年。それ以来13年間、ずっと同じ家に住んでるわ。

ポートランドに引っ越した理由は?

Janet:ある日、シアトルまでドライブ旅行をしたの。その時はシアトルに引っ越そうと思っててね。日曜日だったんだけど、フリーウェイでものすごい交通渋滞に巻き込まれちゃって。それでシアトルに引っ越すのは取りやめたのよ(笑)。でも、途中で通過したポートランドがとても気に入ってたから、ポートランドまで引き返して、そこに住み着いたってわけ。本当にチャーミングな街だからすぐに惚れ込んだわ。ここ何年かでずいぶん変わったけどね。私の家も当時よりずっと値上がりしてるし(笑)。質のいい生活環境が得られる、クリエイティヴな活動をするのに適した街よ。それと、シアトルはサンフランシスコに景色がよく似ているの……坂があって、海辺があって。ポートランドはだいぶ違ってたから、変化を求めてた私達にはそっちの方がよかったのよね。

僕も7年ぐらい前に一度だけポートランドへ行ったことがあるんですけど、確かに、それまでに行った世界各地の街の中でも唯一、「ここには引っ越して来てもいいかも」と思うようなところでした。

Janet:そうそう。私もいろんなところを見て回ってるけど、ポートランドに住んでることには満足してるわ。特に、アメリカの中ではベストだと思う。最近は、さらによくなってきてるのよ。

で、ポートランドに引っ越して来て、そこの地元の音楽シーンというのは、どういう感じだったんでしょうか?

Janet:90年代初頭っていうのは、ポートランドの音楽シーンにとって史上最高の時期だったんじゃないかと思うんだけど、ザ・ワイパーズとかポイズン・アイディア、デッド・ムーンなんかが精力的に活動してて。新しいバンドの流入もあって、ザ・スピネインズやヘーゼル、クラッカー・バッシュ、カラミティー・ジェーン……いい音楽がたくさんあったわ。一週間のうちどの日でも、いいバンドを観ることができた。クアジのサム・クームズと私は、最初のバンドであるモーターゴートをスタートさせたばかりだったの。たくさんの素晴らしい地元バンドの前座をやらせてもらって、最高に楽しい時代だったわね。……その頃サブポップにいたポンドは日本にも来てるんじゃないかな。サブポップが全盛期だった90年代の始めにね。

その、サブポップについてはどういう風に見てましたか?

Janet:サブポップは、ポートランドのバンドともいくつかサインしてたのよね。スピネインズやポンド、ヘーゼルなんかがそうだったんだけど。私達はシアトルのグランジ・バンド達より、そういうバンドの方に親近感を持ってたわ。でも、実は私……ひそかにグランジ・ミュージックを愛してるの(笑)。特にサウンドガーデンは大好きよ(笑)。

おお(笑)。そんな風に近くにある、シアトルとかオリンピアといった町と、ポートランドのシーンとの交流っていうのは盛んだったのでしょうか?

Janet:3つのシーンはそれぞれ分かれて存在してたと思う。シアトルがあって、それと対照的なオリンピアがあって、その中間的な所にポートランドがあったの。ポートランドはシアトルともオリンピアとも交流があったけど、よりインディペンデントで独特だったわ。オリンピアほど突飛じゃなかったけど、シアトルよりは変わってたかも。シアトルのバンドって総じて男っぽかったけど、ポートランドとオリンピアはあそこまで男っぽいシーンではなかったのよね。

確かに。例えば、シアトルにはサブポップ・レーベルを始めたジョナサン・ポーンマンとブルース・パヴィットっていう二人がいたし、オリンピアにもカルヴィン・ジョンソンっていう人がいるわけですけれども、そういうキーパーソンみたいな人がポートランドにもいたんでしょうか?

Janet:ううん、そういうのはなかったわね。でも、ポートランドにはトレイス・シャノンという人が経営してたX-レイ・カフェっていうクラブがあって、彼がポートランドの音楽シーンの親玉みたいな存在だったかな。彼がポートランドのバンドに実験的なことをやる場を与えてくれたのね。バンドを組んだその日にX-レイで演奏することも可能だったわ。逆に、あまり普通だと受け入れてもらえなかったの。そこでは通常の枠に囚われず、ミュージシャンとしてのチャレンジ精神があって、商業的成功に興味がない方が望ましかった。50人しか入れないハコだったしね。たくさんのバンドがそこを出発点として、大きくなっていったわ。私もそこで、人前でプレイしながら、ミュージシャンとしての自分を見つけていくということをやらせてもらったの。ただ、今でもポートランドの音楽シーンの問題として、中心となるような成功してる地元レーベルがない、ということが挙げられると思う。レコードを出そうと思ったら、どうしてもポートランドの外でレーベルを探さなければならないのね。キル・ロック・スターズやKのようなレーベルがなくて残念だな、ってずっと思ってきたわ。

なるほど。では次に、あなたが現在もスリーター・キニーと平行して続けている別バンド=クアジが結成されることになったいきさつについて教えてください。

Janet:サム・クームズ(※元ヒートマイザーのベーシストで、かつての同僚エリオット・スミスのバックでも弾いている)と一緒にポートランドに引っ越して、家の地下室に8トラックの貧弱なスタジオを作って(笑)、一緒にプレイしてたのね。1年半ぐらいモーターゴートっていう名義で一緒にデモテープをレコーディングしてて、3人目のメンバーとしてベーシストを雇ったこともあるけど、すぐクビにして(笑)、2ピースでどこまで行けるだろうって考えながら活動してた。で、ある時、ポートランドで毎年夏に開催されてたAIM FESTっていうイベントに出演してみたらそれがウケて、以来ずっと続いてるってわけ。AIM FESTはオルタナティヴ・インディペンデント・ミュージック・フェスティバルの略よ。

そのフェスは今でもやっているんですか?

Janet:もうやってないわ。90年代にはずっと開催されてたんだけどね。

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