欲望の流れ、虚構と語りの合間で
[2007]
グレゴリー・シャトンスキー


Flux, entre fiction et narration
[2007]
Gregory Chatonsky



 今大事なのは欲望の流れの虚構化が2パターンありえるということである。1)すでに存在している欲望の流れに存在していない(その意味でフィクションの)流れを加えていく。2)ある欲望の流れを選び、それに本来の意図とは違った内容を語らせる。つまりある欲望の流れを翻訳しつつ、原義を反映させた翻訳ではなくて新しい意味の可能性を生み出していく翻訳にしてしまう。こういった変形を加えることで語り手(彼自身、事実を伝えてくれているわけではなく、事実そのものを根底から変形してしまっているのだが)の権力が解体されていく。
 2002年の『ニューヨークで革命は起こった』から次作、ジャン=ピエール・バルプとの共作『人は足りない』(07年)までの試みがそうだった。だが「絶対性」の論理(部分対象を排除して空間の全体を想定する)には加担しない。これまでの作品が生み出してきたのは不完全さだった。何かが欠けている。何かが余っている。ネット上の時代精神はこちらに鏡を向けてくる。この時代の精神を見てごらんなさい、と。虚構は断片しかもたらさない。全体にはまとめられない断片。『人は足りない』が動いているのもこの有限性である。まずは物語の発生装置が訪れる(この訪問が鏡となる。新しい人生。ただし私の実人生ではない)。そして様々な架空の人生が作り出されていく。ネット上で拾ってきた写真、ビデオ、音がこういった人生を目に見える形に翻訳していく。オンライン上にある資料から架空の回想を生み出していくのである。とはいえ全員に会えるわけではない。その意味で「人は足りない」。幾つかの人生を垣間見るのだがそれ以上ではない。架空の人生がどんな風に結びついているか、そもそも関係があるのかどうか、全てを知ることはできなかったりする。ここには複数の人生を全体にまとめあげていく「地図(カルトグラフィーク)の原理」がないのである。「超越性」の不在。
 06年の『この地上で.net』にも似たような問題設定を見て取れる。フィクションを生み出していく。そこには語り手(語りの権力)が欠けている。物語にできるものを一周してみることは出来ない。一生かかっても間にあわないのだから。参加者は欲求不満に置かれたままになる。全てを理解できないから。全体として見ることができないから。だが実人生でも全体を見ることなどしていない。できないのである。断片が支配している。舞台演劇についてベルグソンが語っていたように、筋を通してみようというアートの役割が日常に欠けているのではないだろうか。「全体」という絶対性の欲望に加担していない物語を人々は受け入れることができるだろうか。不完全で、断片で、私たちの実人生にこんなにも近いこの虚構を。欲望の流れにこんなにも近い架空の物語を。

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