欲望の流れ、虚構と語りの合間で
[2007]
グレゴリー・シャトンスキー


Flux, entre fiction et narration
[2007]
Gregory Chatonsky



 第二の形、虚構化の方は別な伝統から生まれてきている。芸術と実人生を絡み合わせ、切り離していく。人生をゼロから作り出す。全く別な人生を描き出してみる。異なった欲望の流れを作りあげる、そんな伝統である。「偽の」アイデンティティーを作ってみよう、「嘘の」情報を流してみよう。そういった作業なのだけれど、欲望の流れを切断・抽出しようとするのではなくて欲望の流れにさらに欲望の流れを延々と加えていく形になっている。この手のアイデンティティーや情報は欲望の流れの映像化と違って語ってはいない。欲望の流れを虚構に変えているのである。この違いは根が深い。というのも前者(映像化)の場合、大事なのは「語り」であり、欲望の流れと我々の間には仲介者である「語り手」が存在している。この語り手は語りの権力を持っている。この権力があるからこそ欲望の流れというデータを別な物に翻訳していくことができる。その都度の恣意的な判断に基づきながらデータを映像化し、なんらかの形で感じ取ったり理解できたりする物に変えていくのである。簡単に言えば素材(データ)を選び、別な形を与えていく。欲望の流れを虚構化していく場合にはこういった権力がない。真実とか時代精神の発想(「見てみて、今の時代の考え方を見て。今ここでオンラインの欲望の流れが語っているのを見て」)に基づいてはいないので、初めからそんな効果とは無縁なのである。虚構は最初から虚構であると告げられている。

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