欲望の流れ、虚構と語りの合間で
[2007]
グレゴリー・シャトンスキー


Flux, entre fiction et narration
[2007]
Gregory Chatonsky



 流れていく欲望[1]の映像化から生まれてくるもの[infosthetics.com]と、欲望の流れの虚構化[mouchette.org]は区別しないといけない。
 欲望の流れを映像化した前者の方は、どれほど見た目が綺麗であろうと[packetgarden.com]与えられたデータの再現-翻訳という舞台で動いている。例えば何か、記号といったものを別な形、映像で視覚化してみせる。その意味では古くから続いている引用、自己言及の仲間になる。結局この欲望の流れは翻訳されても欲望の流れであることに変わりはないのだから。マチウ・ロレット[2]がTVに何度も現れてくるのも同様。美しさという点ではるかに「役に立つ」情報を根こそぎにしていくオンライン上の流れを目に見える形にしてくれる試みの全てがこの部類になる。
 これこそが有名な「時代精神」概念である。ある時代の考え方、解釈可能なデータをある段階で量化し、映像化したものを「時代精神」と名づけるのは今のネット上ではおかしなくらい当たり前になっている。時代精神とは欲望の流れで行われた一瞬の切断である。コードを解除していく作業だともいえる。ここではある時点での欲望の流れの中身が語られている。様々な精神が語られているのである。量による効果は圧倒的で、(都市の住人の密かな呟きを聞いているかのように)ネットワーク上の静かなる共同体、時代精神に触れている気さえしてくる。欲望の翼。

1-2-3-4

[1] 欲望の流れ (flux) : ガタリの概念をシャトンスキーが独自の文脈に流用したもの。例えばオンライン上のデータとして現れる意味/欲望の流れをさしている。ガタリは一度「リビドー/フリュクス」の表現を使ったことがあります。
[2] マチウ・ロレット (Matthieu Lorette) : 仏在住の「自称」メディア・アーティスト。ここで言及されているのはTV番組に観客として参加していく《登場[Apparitions]》と思われる。