欲望の流れ、虚構と語りの合間で
[2007]
グレゴリー・シャトンスキー


Flux, entre fiction et narration
[2007]
Gregory Chatonsky



 欲望の流れの映像化は「完全」を指向している。虚構化の方は「不完全」を指向している。実際のところ、映像化では普通なら断片でしか見れないものを見せようとしている(部分対象から脱出しようというのがこの領域での夢である)。全体を見せようとしている。それが束の間のものだったとしても。ネット上をサーフしているとネットワークの微かな一部しか見えていない気がしてくる。そしてこの断片がネット上での移動と一致している。オンラインでは移動に伴う空間と場所の分割が再現されていて、ネット空間を動いているとより大きな「全体」があるのではないかと思えてくる。そこに「絶対性」が現れている。ドイツ語由来、「時代精神(ツァイトガイスト)」という哲学概念がFlickrやYahoo、さらにはGoogle(www.google.com/press/zeitgeist.html)といった企業の発言に入りこんできているのは偶然ではなかったりする。「時代の精神」という言葉の内側には「国家精神」という概念が鏡のように反映している。「時代精神」とは歴史性であり、素材として意味作用に影響を与えている(カール・レーヴィット)。「これって今の時代の空気にあってるね」、たとえばそんな表現にもあらわれてくる。ここで言われている「空気」こそが時代であり、諸々の精神を結び付けていく。この「空気」こそがネットワークとなって欲望の流れを循環させている。ヴォルテールやヘルダーは「時代精神とは何か」を理解しようと自問を続けていた。彼らの時代の精神。一つの精神、あるいは複数の精神に向けられたこの問いかけには憑りつかれているのではないかという何かが響いている(ジャック・デリダ)。時代精神、とは戻ってくるものなのだろうか。それとも全く予測のつかない怪物じみた新しい形でやってくるのだろうか。時間を計算可能な未来として捉えるのか、それとも予測不可能な未来として捉えるのかといった考え方にも時代精神の規定が及んでいる。カントからヘーゲル、ヘルダーからシラー、マルクスからハイデガー、同様に『弁証法的理性批判』のサルトルまで、「時代精神」を緻密に分析していかないと現在のこの繁栄振りは理解できない気がする。

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