『我が心の父アート・ブレイキーを偲んで』 B

− 普段着の親爺 −

Moanin’

 一見「順風満帆」な人生を全うしたように見える人物でも、その実際は古今東西を違わず大変なものである。我々凡人なら他人は放っておいてくれるのだが、彼(ブレイキー)のような存在になると色々誘惑もあるし、中身は普通の人間なんだから、それらに振り回されたり流されたりもするのは至極当然である。

 アメリカにおいて御大がどれだけポピュラーだったかは今の僕には推し量ることは出来ないが、左のレコード・ジャケットを見ていただきたい。言わずと知れた「Moanin’」(モーニン)のジャケットだが実はこれはシングルLPである。要するにジューク・ボックスにも使えたレコードだ。A面はタイトル曲、B面は「ブルース・マーチ」である。このようにシングル・カットされていたことからも彼の当時の人気度がうかがえる。

 彼がまだ若かった大昔のことは別にして、’60年代後半から’70年代後半にかけての10年間は彼のみならずジャズ界全体の中だるみ期で音楽界全体の多様化への移行期間でもあった。この頃、メッセンジャーズのメンバーの入れ替えは時と場所とギャラ(?)によって結構頻繁に行われた。それは彼の音楽への模索というより、人脈の多さとしがらみ、それに自身のお人好しからくるものであったらしい。裏を返せばいいかげんとか優柔不断とかいうことになるのだが彼の不名誉なことはあまり述べたくないので、ここではそういうことには触れることを避けたいと思う。

 たとえば、こんなことがあった。僕は日本からたまたま来ていた友人のピアニストと一緒にワシントンス・クエアの北にあった「ブラッドレー」というジャズクラブで飲んでいた。はっきり覚えていないが確かジュニア・マンスのトリオが出演していたと思う。出入り口に近い4人がけのテーブルに我々がいたのだが、そこへ御大が何人かと連れ立って、のそのそと入って来たのである。彼は入ってくるなり僕の名を呼び、抱きしめてから開いていた横の椅子に腰掛けたのである。それから連れのレゲエおじさんに同席を促した。ピアニストのセシル・テーラーだった。僕達がしばらく雑談していると御大はおもむろにチェック(伝票)を取り上げバーテンダーに彼のつけにするようにとそれを手渡した。一見良くある気前のいい親爺の話だが、ちょっと違うところは彼が普段僕にそんなことはしなかったのである。彼にとってそういう行動をとるということは気を使うということだった。御大は僕のその時の状況を見て気を回したのだ。彼らが去ってからしばらくの間友人は放心状態だったが、僕にとってはちょっと得意げだったかもしれない。その辺のところの気遣いが御大にはあったのだ。

 御大に関する逸話は結構たくさんあるみたいで、別に弁護するわけでもないが、それぐらい他人に対して気遣いをみせるお人好しな人物が彼のような立場にあった場合、他人に振り回されたり、だまされたりすることは多少あっても良いんじゃないかと思う。たとえそれによって迷惑を被る人々があってもそれはそれで致し方のないことだろう。それにいつも普段着の親爺を皆は愛したんではないだろうか。だからこそ素晴らしい功績を音楽史に残したのだと思う。