あとがき
私は中学1年生の時はニッカンで、2年生からはラッカー仕上げのYEP-321を使用しました。私の中学時代は「ユーホニューム」と呼んでいました。
「ユーホ何とか?という聞き慣れない楽器名に戸惑う中学1年生の私に、「君の担当する楽器は、バリトンだ、」と吹奏楽部の顧問が宣告した日の事を、今でも鮮明に覚えています。もっとも生まれて初めて聞いた名称なので、「ユーホ?バリトン?バリカン?」いったいどのような楽器か、実物を見るまで全く解らなかった想い出があります。当時の中学の顧問は、「バリトン」と「ユーホニューム」の区別はしていなかった、ということです。
ラッカーの剥げたニッカンのユーホニウムを黒い台形のケースから出して、金属磨きの白い溶剤を含ませた布で楽器がピカピカになるまで毎朝磨きました。楽器を磨き終わる頃には、この溶剤を含んだ布は真っ黒になり、手に染み付いた記憶があります。
私の中学はマーチングバンドで、顧問の先生は声楽とピアノがご専門の音楽の先生でした。当時、私がユーフォニアムの専門の先生に習う事が出来たのは、年に1回の講習会だけです。私が始めて参加したのは、横浜の青葉台中学を会場にして行なわれた初心者講習会でした。受講生が使用していた楽器は、私を含めてニッカンが2〜3割であったと記憶しています。その他は全てYEP-321で、銀メッキのYEP-321Sはまだ数本でした。マーチ「ナイルの守り」を練習したのですが、顧問から当日渡された楽譜が、in B♭のへ音の楽譜で、自分だけ全て音がずれるのはなぜ?という状況下で悩みました。それと、「祝典行進曲」もin B♭のト音記号のバリトンとin Cのへ音記号のユーフォニアムの別々のパートの楽譜を全部ユーフォニアムで演奏していました。今思えば当時の指導者はずいぶんと乱暴な事をしたな、と思いますが、吹奏楽の基本編成が米国スタイルの吹奏楽の編成で統一される過程での一コマであったと思います。講師の先生は音大生だったと記憶しています。
ですので、私は中学時代に「小バス」という名称は全く聞いた事がありませんでした。またこの名称を使っている方にも残念ながらお会いした記憶がありません。私の新入生時は楽器が足りずに、ニッカンを使用していましたが、上級生になった時には、学校の楽器が全てYEP-321に置き替えられました。私はニッカンの最後の生き残りです。
私の高校時代は「ユーフォニウム」と呼んでいました。私の高校は昭和30年の創部で、創部当時「バリトン」と「小バス」と呼ばれた楽器が購入されました(鎌倉学園同窓会報第16号2007年による)。ニッカンや田辺の時代です。しかし、昭和54年入部の私の時代にはこれらの楽器は既に使用されていませんでした。私は学校の備品のYEP-321を使用しましたが、初代のOBの方々に「バリトン」や「小バス」のお話を学生時代に聞く機会が得られなかった事を大変残念に思います。
私達がユーフォニアムの歴史から学ぶ物があるとすれば、それは人間の英知です。人間の身体のサイズや使う息の量は、昔も今もそんなには変わりません。この「人間の身体の機能を利用して音を出す」という制約の中で、いかに「より豊かな美しい音」を奏でる楽器を製作するか、これがユーフォニアムの制作の歴史です。また、作曲家と演奏家がその腕を競い合うからこそ、ユーフォニアムはその性能を十二分に引き出してもらえる、ということです。
イギリス産業革命やフランス革命という人類の偉大な歴史の転換により近代国家が誕生しましたが、この産業革命と国民国家の成立と同じ時期に金管楽器の夜明けとも言えるヴァルブが完成して、金管楽器が飛躍的に発展し、ユーフォニアムが登場する条件が整いました。
バッハやモーツァルトが活躍した時代、演奏会の会場は王侯貴族のサロンでしたが、市民革命後にはたくさんの一般大衆が屋外の演奏会場へ足を運ぶようになり、コンサートホールも大型化しました。ユーフォニアムが誕生した頃は各国の軍楽隊は屋外での演奏で、どれだけ大きく吹いても音量が足りないというような状況に置かれていました。現在の技術では、マイクやスピーカーを使って、会場の音量を自在にコントロールできますが、当時はその問題を克服する為に各国は競って楽器を開発しました。
バルブの改良が進み、様々な形状の楽器が考案されましたが、試行錯誤の結果、ユーフォニアムの基本的な構造が徐々に確立し、ユーフォニアムは聴衆を楽しませる楽器として改良を重ね、近年にはオーケストラの演奏会にソリストとして呼ばれるまで成長しました。
この事は、人類の歴史と音楽の関連として誠に興味深い事実です。日本における西洋音楽の発展を考えると、その初期に於ける軍楽隊の役割は非常に大きく、その評価は正当にされなければならないと考えます。そして、国民国家が誕生し、私達はこのように表現の自由の下に音楽を奏でる事が出来るようになりました。また、産業革命が達成されて、廉価で性能の良い楽器を市民が手にする事も出来るようになりました。産業革命や国民国家の成立が、私達に与えてくれた素敵な贈り物、芸術を表現する楽器、それがユーフォニアムであると私は思います。
さて、これから、ユーフォニアムはどのように発展していくのかを考えると、楽器を太くし、金属を厚くすれば、それだけ「逞しい」音は出ると思います。時代の要請の本質はいつも変わりません。しかし、その分繊細な表現からは遠ざかるのではないかとも考える事が出来ます。様々な意見があるとは思いますが、ダブルベルのユーフォニアムが廃れたのは歴史の当然の結果だと感じるのは私だけでしょうか。複雑な物よりも、よりシンプルな物の方がより「美しい」ということはここでも証明されていると思います。私は、よりシンプルで、繊細な表現が出来て、なおかつ他の楽器に負けないような豊かな音色と広い音域・音量を担当できるユーフォニアムが必要だと感じています。それが、「美しさ」であると共に、これからの音楽界で勝ち残る「強さ」という条件であると思うからです。
ユーフォニアムが登場し、オフィクレイドと入れ替わるのには数十年の月日が必要でした。今、私達が次の世代を担う楽器を作っています。
ユーフォニアム奏者 深石宗太郎
謝辞
1870年に薩摩藩軍楽隊の尾崎平次郎がユーフォニアムを始めて吹いてから134年後の2004年に同郷、鹿児島県出身の航空自衛隊中央音楽隊の外囿祥一郎氏が東京芸術大学に初の講師として就任しました。歴史の不思議な巡り合わせを感じます。ユーフォニアムという楽器について、この資料を通してより深く理解して頂けましたら、これ以上の幸せはないと思います。最後になってしまいましたが、これらの資料や年表を作成する過程で貴重な御教示を頂きました、三浦徹氏、千脇健治氏、梅田徹氏、井上歩氏、小島修一氏、伊東明彦氏。また洗足学園音楽大学大学院の修士副論文をまとめ上げた福田博和君を始め御協力頂きました多くの関係者の皆様に感謝を申し上げます。
2005年6月1日 深石宗太郎
この度、内容についてより正確を期す事と目的として、HP開設以来、年表と一緒に扱ってきたこの稿を独立して扱う事にしました。内容につきましても、一部に手直しをしました。
あらためまして、これらの資料を作成する過程で貴重な御教示を頂きました、三浦徹先生、千脇健治氏、梅田徹氏、井上歩氏、小島修一氏、伊東明彦氏、山岡潤氏、馬渡健氏、岡山英一氏、洗足学園音楽大学大学院の修士副論文をまとめ上げた福田博和君をはじめ、お世話になりましたした皆様方に感謝申し上げます。
2006年7月26日 深石宗太郎
前回の改訂以来、内容について書き足しを続けた結果、一部で内容が重複する事が増えて来ました。このウエブを管理して頂いている伊東氏の助言もありまして、レイアウトから全て一新する事に致しました。あらためまして、お世話になった先生方、諸氏に感謝申し上げます。
2006年のクリスマスの日に感謝の気持を込めて 深石宗太郎
この度、戦前、戦後のニッカンのユーホニウムについての項を書き足しました。ニッカンの楽器について、その機種名や歴史について、ヤマハアトリエの山領茂氏、管設計の松隈 義彦氏より貴重なご意見を賜りました、この場をお借りしまして、厚く御礼申し上げます。
2007年2月12日 深石宗太郎
この度、文中で使用する用語等について見直しを行ない、レイアウトも含めて大幅な改訂を行ないました。また、ビュッフェ・クランポン(株)技術課の長島智宏氏より、ベッソンブランドの楽器の改良についての説明を賜りまして、年表及び本文にその内容を反映させて頂きました。厚く御礼を申し上げます。
2007年9月 深石宗太郎
このたび、都賀城太郎氏の発表による「戦前日本の学校文化とスクールバンド」(洋楽文化史研究会第98回例会)を拝聴しました。この資料を参考に「3-2-2. 吹奏楽の民間への普及」につきまして一部加筆、修正をしております。また、「3-5. 戦時下のユーフォニアム」の項につきましても、都賀城太郎、奥中康人氏よりご教授いただきました資料を基に一部加筆、写真の追加をさせていただきました。都賀城太郎、奥中康人両氏に感謝申し上げます。
2019年3月16日 深石宗太郎
参考文献
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深石宗太郎『第二次世界大戦と戦後復興期における日本のユーフォニアムについての考察』洗足論叢 第38号 洗足学園音楽大学 2009年
三浦徹『ベッソンの革新と伝統』スティーブン・ミード&外囿祥一郎 ユーフォニアム・デュオ・リサイタル・ツアー2010 プログラム解説 2010年
名器の系譜 ベッソン・ユーフォニアム : 三浦徹・深石宗太郎 パイパーズ 2012年4月号(368号)
雑誌『ミュージックトレード「喇叭太平記」第17回』ミュージックトレード社1973年6月号
都賀城太郎 『戦前日本の学校文化とスクールバンド』洋楽文化史研究会第98回例会 発表資料 2019年
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