「リディア」

Lydia

 フォーレはその長い生涯のうちに、99の歌曲を書いている。フォーレがその生涯のすべての時期に書きつづけた歌曲の分野は、ピアノ独奏曲、室内楽曲とともに最も身近な、そして最良の領域であった。フォーレの歌曲は、作曲時期によっておおむね4つの時期に区別することができるが、「リディア」は初期の作品である。

  「リディア」は1870年に書かれたと推定されている。詩はルコント・ド・リールのもので、フォーレは生涯にこの詩人から5篇を選んでいるが、その最初の曲である。詩は、4行を1節とし、4節で構成されている。フォーレは、その2節までを一つの端正な旋律にまとめあげ、第3節と第4節のためには、これをごくわずかに変形して繰り返している。

 旋律をみると最初のフレーズはファを主音としシ@を固有音にもつ旋法、つまり<リディア旋法>と解して良いと思われる。和声的にはこのシ@は転調を行うことによって導入されたものとして位置づけられるが、奥深い情熱をたたえながら、古典的な典雅さを併せ持った響きになっている。

(藤崎 美苗)

「別れを告げるアラビアの女主人」

Adieux de l'hotesse arabe

 ジョルジュ(アレクサンドル・セザール・レオポルト)・ビゼー(1838〜1875)は、音楽家の両親の元で一人っ子として育った。4歳になると母から文字と音符を同時に教えられた。父は息子を音楽家にしようといつも考えていたので、ビゼーが書物に熱中した時には、音楽を怠けることが無いよう両親は本を隠したほどであった。10歳になる直前、ビゼーはパリ音楽院に入学し全科目を通じて優秀な成績をあげた。わずか19歳でローマ大賞を与えられローマに留学する。

 ビゼーは劇場音楽を得意とし、28もの作品を書いたが、その中には有名な「真珠採り」、「アルルの女」や「カルメン」が含まれている。 ビゼーは「カルメン」を非常に力を入れて作曲したが、この作品が今までのオペラの習慣からはずれて、あまりにリアリスティックであったことから、「卑猥」である、あいまいである、などの不評を受けた。これが原因ともなってビゼーは重い扁桃腺炎を発病し、1875年6月に亡くなった。

 白人の恋人に捨てられたアラブ娘を歌った「別れを告げる女主人」(1866)は、ビゼーの歌曲における唯一の明らかな傑作として挙げられる。歌い手が精魂を傾ける、情熱と異国的な背景は、リズミカルな伴奏音型、半音階的和声やペダル音などで表され、エキゾティックな世界の味わいを持っている。

 ビゼーは歌曲を重視しなかったので、1868年以降は歌曲の作曲をほとんどやめている。

(田村由貴絵)


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