「邦楽ジャーナル」2001年10月号掲載

<続>異国見聞尺八余話 (5)

いつか王子さまが

倉 橋 義 雄


怒り狂いながら尺八指導する筆者(ニューヨークにて)

 外国人に尺八を教えていて「ええかげんにせー」と言いた くなるのは、何でもかんでも「英語に訳して」とねだってく ること。日本の古い言葉には英語に訳せないものがあり過ぎる わい。そういう日本語が悪いのか、おねだりするのが悪いのか。 日本語でそのまま理解せー。とくに曲名なんか、どうしようも ないのが多いのじゃ。
 たとえば「八千代獅子」、これどう訳すの? うーむ「永遠 のライオン」か。何のこっちゃ。「越後獅子」は「新潟ライオン」、 「難波獅子」は「大阪ライオン」、もし「西武獅子」という曲があ ったら「西武ライオンズ」。「御山獅子」は「マウンテンラ イオン」、おっと、これは実在の猛獣の名だぞ。「吾妻獅子」 は「私の妻はライオンです」、ここで初めて男ども深くうなづ き「私の妻も同じです・・・・」
 「まゝの川」を「自由の川」と訳せば、まるで自由民権運動。 「けしの花」を「ポピーの花」と訳せば「まあ恐ろしい。麻薬 の音楽はいけません」と説教される。「萩の露」を「ブッシュ クローバーのしずく」と訳せば、たいていの西洋人は顔をしかめ る。ブッシュクローバーってのは、西洋ではただの醜い雑草に すぎないとのこと。「宇治巡り」は「宇治観光」、「名所土産」 は「観光地のおみやげ」。ぜんぜん美しくない。
 ひじょうに説明困難なのが、「茶音頭」「萬歳」「こんかい」 「新娘道成寺」「千代の寿」「さらし風手事」「調べ下り葉」 「三谷菅垣」「一二三鉢返しの調」「慷月調」などなど。
 では同文同種の中国人なら問題ないかというと、そうはトン ヤがおろさない。「鹿之遠音」と書いたら「・・?」って顔をする。 そういう表現が中国にはないらしい。意味を説明したら「遠方 的鹿的声音」と改題されたから、こんどはこちらが「・・?」。ただ し最近は中国でも「鹿之遠音」はそのまま通用するようになっ たらしい。「鹿之遠足」と書いたものを見たが、これは単なる ミスプリント。
 困るのは同じ漢字なのに意味が違うとき。たとえば「娘」と いう字。日本では「女の子」だが、中国ではなんと「母親」と いう意味らしい。だから「新娘道成寺」は「新しいお母さんの 道成寺」、ちょっと意味深長。中国で「女の子」は「クーニャ ン(姑娘)」だから「新姑娘道成寺」つまり「新しいクーニャ ン道成寺」と訳すと、いやらしい語感があるという。どうした らええねん。ある演奏会のプログラムを見たら「新婚道成寺」 と書いてあった。これ、ちょっと違うんやけどなー。でも、こ れ訳した人、困り果てて、苦肉の策で、こないしたんやろなー。 まあええやないか。
 ええかげんにせー、尺八勉強するんやったら、もっと日本語 勉強せー、曲名くらい日本語で言うてみー、と言うて日本語曲 名をそのまま発音させても、かえってややこしくなる場合が多 い。「リウキウグミノミンノヨウノヨルノキョクノグミ」「あ んさん何言うてんの?」ようく耳を澄ましたら「琉球民謡によ る組曲」のことと判明した。難しくて正しく覚えられんのか。 「フネノフネノウタ」、これは「利根の舟歌」。日本語版ツァ ラトゥストゥラかフィラデルフィアかといったところ。舌かみ まっせ。
 「ンヤ」はたいてい「ニャ」となる。だから「深夜の月」は 「シニャの月」、「三谷」は「サニャ」。「神保三谷」が誤 読も含めて「ジャンボサニャ」となると、まるで年末宝くじ。
 横文字タイトルの曲だって、分かりそうで分かりにくい。
 「サネ」って何?そんな曲知らんぞと思ってたら「ソネット」 のことだった。「テイク」と聞いて英語かと思えば、実はこれ 横文字ではなくて「竹」のことだったりして。
 私の名前は「ヨッショーキュラーシ」。誰のこと?
 困るのは、英語では長音と短音の区別がないこと。ソシキ (組織)とソーシキ(葬式)は同じ単語とみなされる。だから 「道成寺」は「ドジョジ」、「萌春」は「ホシュン」となっ て、どうもしまりがない。「信濃の抒情」は「シナノーノージ ョジョ」。
 某アメリカおばさん「私だってまだ夢は捨てていないわ」と 目を輝かせ、「ほれ、あの白雪姫がうたう歌、日本語では何と いう題名だった?」と聞くから、「いつか王子さまが」と教えた ら、「そうだわ、私はまだ望んでいるの、いつか白馬に乗った オジーさまが、ああ、いつか私のオジーさまが・・・・」。私はあ えて訂正しなかった。

(第5話終)