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●オインゴ・ボインゴに関する事実
オインゴ・ボインゴがホームグラウンドのロサンジェルスで活動を始めたのは70年台の中頃のことで、最初はザ・ミスティック・ナイツ・オブ・ジ・オインゴ・ボインゴ(The Mystic Knights Of The Oingo Boingo)と名のっていた。ミスティック・ナイツはともかくとして、オインゴ・ボインゴとはわけの判らない名前だが、特にこれといった意味はないとメンバーは主張している。ボイン・ボイン(Boing Boingo)なら、セクシーな女性を見たときに思わず口に出してしまう言葉である。しかしそれとも関係はないようだ。
スタートした頃の彼らはロック・バンドというよりは、前衛的な音楽芝居集団といった感じで、音楽そのものよりは、滑稽で馬鹿馬鹿しく、時には卑猥にもなったりするパフォーマンスで話題を集めていた。表現の場も路上やどこかの裏庭など、なかなかにゲリラ的だったのである。
しばらくするとザ・ミスティック・ナイツ・オブ・ジ・オインゴ・ボインゴは、カラフルな舞台装置などを使って本格的なミュージカル・ショウを手がけるようになる。彼らのステージは好評で、戦前のベルリンのキャバレーの演物(だしもの)と比べて語られたりもしていた。
1978〜9年頃になると、彼らは凝った舞台装置や演出に頼ることをやめ、バンド名もオインゴ・ボインゴと短くした。 そしていわゆる普通のロック・バンドとして活動することになったのである。
オインゴ・ボインゴはロサンジェルスのクラブ・シーンに出演しつつ、聞き手の層を広げていき、79年には地元のライノ・レコードのサンプラー・アルバムのために初めてのレコーディングを行った。その曲「I'm Afraid」が、やはり地元のインディペンデント・レーベル、I.R.S.レコードの関心を引き、彼らはレコード契約にまで漕ぎ着けてしまう。そして80年の9月にI.R.S. から4曲入りの10インチ・アルバム『OINGO BOINGO』を発表したところ、「Only A Lad」を始めとする曲がラジオでさかんにオン・エアされ、レコードも飛ぶように売れて、オインゴ・ボインゴは一挙にロサンジェルス・ロック・シーンの寵児となってしまったのである。
続いて81年には最初のアルバム『ONLY A LAD』が発売され、82年には『NOTHING TO FEAR』、83年には『GOOD FOR YOUR SOUL』とA&MがディストリビュートするI.R.S.レコードから、順調にアルバムをリリースしていった。この頃がオインゴ・ボインゴの絶頂期と呼んでも良く、地元のロサンジェルスで彼らがコンサートを行うと、会場は必ず超満員となった。シンセサイザーを巧みに使った彼らのサウンドは、そうした音楽に人気があった当時の状況ともうまく噛み合ったと言える。
1984年に入るとオインゴ・ボインゴはI.R.S./A&Mを離れてMCAに移籍する。そしてまずオインゴ・ボインゴのリーダーでほとんどの曲作りを手がけリード・ヴォーカルも担当しているダニー・エルフマンが、初めてのソロ・アルバムである『So-Lo』を発表。オインゴ・ボインゴはブラック・ユーモアたっぷりの歌の内容やひねくれた姿勢など、まさに彼のカラーが色濃く出たバンドで、そのメンバーが5人も参加しているこのソロ・アルバムはほとんどオインゴ・ボインゴの作品集と呼んでもおかしくないものだった。
同じ年にはオインゴ・ボインゴの4枚目のアルバム『DEAD MAN'S PARTY』が登場。このアルバムからは、「STAY」「JUST ANOTHER DAY」、それに映画『ときめきサイエンス』の主題歌「WEIRD SCIENCE」、やはり映画『バック・トゥ・スクール』に使われた「DEAD MAN'S PARTY」などが、ちょっとしたヒット曲となった。
そういえばオインゴ・ボインゴ/ダニー・エルフマンは、最初の頃から映画の仕事を手がけることが多かった。前述した作品の他にも、彼らは『バチェラー・パーティ』などに自分たちの曲を提供している。
1987年にオインゴ・ボインゴはMCAから2作目のアルバムとなる『BOINGO』を発表。この作品は日本でも発売され、セカンド・アルバムの『NOTHING TO FEAR』と共に日本盤で登場したオインゴ・ボインゴの貴重なアルバムの一枚となっている。
バンドのメンバーは、ダニー・エルフマン(ヴォーカル、リズム・ギター)、スティーブ・バーテック(リード・ギター)、ジョニー・“ヴァトス”・ヘルナンデス(ドラムス)、サム・“スラッゴ”・ヒップス(サックス)、レオン・シュナイダーマン(サックス)、デイル・ターナー(トランペット)の6人が最初の頃からかわることなく在籍していて、キーボードやベースは、途中で交代している。
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