2023. 12. 1

写真日記
夢のアメリカ
 パイロットになる!

 19歳で就職して以来 トラック運転手の仕事を 3年やっていたころの僕。 もちろんトラックや 走る事が大好きでやっていたのだけど、これで落ち着くのは何かもったいない気がし始めてて、考えてみたら自分はパイロットに憧れがあったなと言う事を思い出し、新たな夢、事業用ヘリの 操縦士になるのはどうだろう? と言うことを 思い付いてしまった。 考えるだけで わくわく、心がキラキラする感じで、難しいと思うけど、絶対やりたいと思いました。でも、自分に 出来るか? 出来ないか? ・・・しばらく 悶々と考えては、行動に移す決意を固めて行くのですが、ある日 友人に相談したら 彼は 「絶対ムリ」 と言いました (内心 応援してくれると思ってたw) その翌年 1993年、23歳の誕生日を迎えてから 僕は渡米。 まずは自家用ヘリのライセンス取得を目指しました。 アメリカで取得する自家用免許は日本の免許に書き換え、その後は 事業用操縦士を目指して国内訓練に移る事を決めたので、飛行費用が日本の半分以下となるアメリカでは せっかくなので半年ほど滞在し、ある程度 飛行時間を稼ごうと計画しました。 (当時の事業用操縦士 実地試験に必要な飛行時間が 250時間 だった事もあって日本での訓練時間数を 多少圧縮する狙いでしたが、その後200時間に緩和される)

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フレズノ空港

カリフォルニア州の真ん中あたりに位置する中規模都市 フレズノ へ日本からやって来ました。
イメージ的には 名古屋空港(小牧) に似ている気がしました。 民間機のほか、F16 戦闘機など
カリフォルニア州軍の航空機も利用しています。
そこに 僕が通う 飛行学校は あったのです。
写真左にあるのが 訓練用の小型ヘリコプター、ロビンソン R22 Beta です。
初めて見たときは、その小ささに驚きました。 (内心: なんじゃこれ!w)

Fresno Airport (Carifornia) 1993






学校と、機体整備工場は、右手前の建物の中
他の企業も入っている共同の建物で 管制塔とのやりとりでは このエプロンの場所を コーポレイト・エア と呼んでいました。







乗り物系は大丈夫だろうと それりに自信を持っていた僕ですが、操縦感覚は想像とは違い 最初は 『これ無理かも』 と思った。
ホバーリングが止まらないw 機体があばれる。 あまりにもセンシティブだった。 しばらくすると、少しずつ乗れましたが。。
ちょっと怖かったのは 初ソロ・フライト。 身体の大きな 教官を降ろした直後、重心位置が大きく移動。その状態の
挙動が予想できてなくて、またもや機体を あばれさせたw 後々まで、教官(ハビエル)がその件で笑い話をした。
写真は、一人で知らない空港を目指した ソロ・クロスカントリー時。 (パソロブレスか、ベーカーズフィールドかな)
機体は R22 HP (124馬力の初期型) テールコーンが Beta より低いのが特徴。
Solo cross country flight







ハビエルと僕

ハビエルはスペイン・マドリード出身の若き教官です。 彼が、僕の担当をしてくれました。
日本では必ずベテランが教官を務めますが、アメリカでは割と若い人が最初の仕事として教官をするようでした。
彼はかなりの熱血漢で、あいまいな操縦をすると 怒鳴ります。特にセットリング・ウィズ・パワーにはうるさい。
ヘリを降りると彼は優しく、陽気で、僕が操縦を理解するにつれ、お互いに打ち解け合って行くのでした。
ちなみに彼の英語はめちゃくちゃスペインなまりです。 Zero を シロ と発音します笑
Javier and Kensuke 1993






アパート

学校で手配してもらったアパート。 6か月間、お世話になりました。
リビングにはケーブルテレビが引かれ、食事は自炊。
日本とは 食材の違い (戸惑いw) もあって 5か月で激やせ (体重 65kg → 54kg)
通学や、買い物は自転車。
50メートル以内に コインランドリーもある。
Apartment






寝室
ちょっと寂しくてラジカセを購入。 FMラジオ放送が、なかなか良かった。








これが 自宅の庭ですと!?

自家用免許は、僕はタービンエンジン機で 試験を受けるため、BELL 206型ヘリと、その操縦を教えてくれる教官が学校にやってきた。
初日は 教官の車(シェビートラック?)に乗せて貰って、郊外の自宅へ案内されました。 そして裏庭で見た光景がコレ。
そこには2機のヘリコプター。 ベル 206 と、ヒラー H-23 (?) が鎮座していました。 どちらも 薬剤散布仕様 でした。
教官は リチャードA 氏。ベトナム戦争にも参加した事のある 元 軍人さんでした。 戦争中 ヘリを1機 墜落させたそうなw
ちなみに日本の事業用免許をピストンエンジン機で取得すればタービンと ピストンの両条件をリーズナブルに取得できる計画。

実地試験は5月でした。 FAA(連邦航空局)のインスペクターが学校へ来ました。
1対1で、口頭でのオーラル試験があって、それがOKなら、実技試験へと進みます。
Richard's Bell 206 1993







チーフ・インストラクター

チーフ教官は女性。 さすがアメリカ。 飛行機も ヘリも 両刀使い。
日本式の諸元で飛び始めてからは彼女がチェックする事が増え、結構シゴかれましたw






免許取得後、僕は日本式の諸元を使って多少の飛行時間を稼ぐ日々でした。
アメリカ式のオートローテーションは速度 60ノット、ローター回転数はボトム・オブ・ザ・グリーン でしたが
日本式のオートローテーションは速度 65ノット、ローター回転数はトップ・オブ・ザ・グリーン です。
(高めの回転数で滑空するため、強いフレアーが予想される場合は過回転防止のコレクティブ・ピッチ上げが必要)

6月、なんと、日本からの友人が フレズノへ やって来ました
彼女は誕生日だったので、学校で R22 を借りて、30分〜40分ぐらいフライトしました。
借りたヘリは R22 HP。 初期型のR22 で、Beta に比べてパワーが低く、ガバナーも付いていません。

Kensuke and Javier 1993





友人が撮影







飛行学校内

やや失礼かもしれない そのポーズで座るのは当時の僕 w
この学校は M-1ビザを発給できました。 海外からの生徒が多く、僕が滞在中も
イギリス、スペイン、スイス、イタリア、メキシコ、マレーシア、日本からの留学生が来ていました。
Flight School







パイパー・トマホーク

飛行機の道を選んだ場合の訓練機はコレ。 (高翼のセスナを使う学校が多いけど)
飛行機は 格好いいなあ とは思うけど、僕はなんか、ヘリなんですよね。
実際 ほとんどの生徒が 飛行機が目当てで、ヘリは10人に1人ぐらいのイメージ。
Piper Tomahawk







ノブさん

1人だけ日本人の教官もいました。 ノブさんです。 大阪出身で めちゃ面白くて 面倒見の良い人。
アパートもすぐそばだったので、みんなでノブさんの家へ、ごはんを食べに行く事も ありました。

ノブさんはヘリも自家用免許だけは持っていましたが、もっぱら 飛行機 の道を行く人だったので、僕は 座学だけを教わりました。
ほかの生徒たちは みんな 固定翼の 飛行機 だったので、訓練飛行で ノブさんに当たった場合は 日本語も通じました。
恐らく 渡米したばかりの者にとって、これほど心強い事はなかったでしょう。





つづく

↓ その後、どのようにして空の世界へ入っていったのか?
  日本で書いた日記が この話の続きになっていますw

  ただ、日本で事業用操縦士免許を取得した前後の
  時代の記事は空白で、まだ 書いた事がないです。

 AS350ヘリで スカイダイビング 支援 2005年
 北海道出張 AS350ヘリと 摩周湖 2004年
 ロビンソン R22 と 館林飛行場 2000年


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