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ここ10年の間、我々はペリー・ファレルという人物について常に、「ロックやヒップホップといったジャンルの壁を超えて先鋭的なアーティストを集結させた画期的なイベント・ツアー=ロラパルーザの創始者にして、90年代アメリカの音楽シーンにオルタナティヴ革命を引き起こした偉大なるリーダー」という文脈でもって語ってきた。そうしているうちに、当初は変わり種メタル扱いされていたジェーンズ・アディクションというバンドに対する評価は、「類型的なハード・ロックのスタイルを打ち破り、意味のある歌詞を歌うことで、90年代後半に隆盛を極めるヘヴィ・ロックの基礎を築き上げた伝説的存在」へと変わった。 確かに、こういった話がペリー・ファレルの過去のキャリアの中でも特に重要な業績であることは揺るぎようのない事実だ。だが、未だもって彼のことを「オルタナ革命のリーダー/ヘヴィ・ロックの先駆者」としての側面からしか捉えずに、この記念すべきソロ・デビュー・アルバムとなる本作に向き合っても、おそらく少々困惑した感想しか持てないのではないだろうか? いや、本当はポルノ・フォー・パイロスのセカンド・アルバム(にしてラスト・アルバム)『グッド・ゴッズ・アージ』が96年にリリースされた時点で気付くべきだったのかもしれない。もはやペリー・ファレル自身にとっては、周囲から期待されるオルタナティヴ・ロック界のヒーローとしての役割など「どうでもいい」ことになっているという事実に。 まさしくヘヴィロック元年となった96年、名実ともにその代表格であるレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンのトム・モレロにインタビューした際、彼は「今年は俺達の新作(『イーヴィル・エンパイア』)に、ポルノ・フォー・パイロスと、トゥールの新作(『アニマ』)が出るから、それだけでこの先数年分のインパクトは保証付きだよ」と話してくれた。しかし実際には、トゥールの方はビルボード初登場2位という快挙を果たすものの、それと前後して初登場3位を記録し、“ヘヴィロックの全米制覇”を印象づけたのは、ポルノ・フォー・パイロスではなく、コーンの『ライフ・イズ・ピーチィ』とマリリン・マンソンの『アンチクライスト・スーパースター』だった。現代アメリカの闇をそれぞれの形で映し出したトゥールやコーンやマリマンの作品と比べ、音の多彩さと深みを増し、邪悪さよりも崇高さをたたえるようになった『グッド・ゴッズ・アージ』とでは明らかに質を異にしていたと言っていい。すでに当時からペリー・ファレルは、たちまちキッズのフラストレーション発散装置として商品化されていくヘヴィロックなんていうものよりも、もっとずっと大きなものを見ていたのだ。 あえて我々の型にハマった見方を変えないまま、ここ数年間のペリーの活動を眺めてみると、ロラパルーザと袂を分かって新規にスタートさせたイーニットというイベントがさほど話題にならなかったことや、98年にジェーンズ・アディクションを鳴りもの入りで再結成させたものの中途半端な盛り上がりのまま終わったことなど、必ずしもポジティヴな印象が強いとは言えない。むしろ、さすがのペリー・ファレルも時代の移り変わりの中でそのカリスマ性に陰りが見えはじめたか?とかいった評価が出て来てもおかしくはないムードだった。 この状況認識をそのまま持ってきて本作を位置づけることは、評論家としては容易い。つまり、「ここしばらく新たな方向性を模索していたペリーが、ロック・バンドのフォーマットを離れ、クラブ/ダンス・ミュージックから刺激を受けて、ソロ・アーティストとして新たな表現スタイルを確立した会心の復活作……云々」――すらすらとストーリーが作れる。ペリー自身も「一度だけ音楽をやめてしまいたいと考えたことがある」などと最近のインタビューで発言しているし、そうした見方で何の問題ないような気もする。てなわけで、めでたしめでたし、にした方が原稿も早くあがる。だけど……なーんか、それじゃ納得できないんだなあ。 ペリー・ファレルは徹底的な快楽主義者である。だからといって、ただ自堕落に不真面目な人生を送っているような人物像を想像してはいけない。ペリーはそれこそ自らの存在全てを賭けて己の内に沸き上がる欲望を追求していく覚悟ができている人間なのだ。そんじょそこらのセックス&ドラッグつきロックンロール・ライフを送るだけでは飽き足らない。そうして、より大きな快楽を目指した結果が、ジェーンズ・アディクションの特異な音楽スタイルを作り上げ、異形の楽園ロラパルーザを具現化し、最終的にはアメリカの、いや全世界の音楽シーンを動かしてしまったのだと言ってもいい。世の中を変えるには理想とか信念の前に、まず「欲求」がある――なんて書くと話が一般論に流れてしまうが、もちろんペリーはただ単に欲しただけではなく、それを手に入れるために膨大な才能と努力を注ぎ込んできたのだ。やがてそれは善悪の概念を飛び超え、ある種の気高さすら帯びてくるのである。その辺の頭の悪い連中が、真面目なロック・ファンに「音楽なんて聴いて楽しけりゃいいじゃん」なんて諭してみせるレベルの快楽主義とは、まるで次元が違うことは言うまでもない。 そんなペリー・ファレルの表現衝動は、ある時点から、彼の力で確実に変わりはしたけれども同時に実はそんなには変わっていない世の中をとっとと置き去りにし、さらに深く遠い次元に向かって猛烈な勢いで進みはじめたのだ。あえて別な言い方を試すならば、圧倒的な力を持った消費社会がペリーを消費しつくそうとしたその瞬間、彼はカート・コバーンとは別の形で身をかわしたのである。そのことを契機に、活動初期には反社会的な形で表れていた(※例えば“ビーン・コート・スティーリング”は「欲しい物があったら、盗んで手に入れてしまえ」という歌だ)ペリーの欲望は、体制に挑戦したり、命を危険にさらすような種類のものから、人生を祝福し、愛と幸福に満たされることを願う方向へと転換した。それに伴い、彼が歌声を乗せる音楽も、ささくれだったギターが大音量で耳に突き刺さるヘヴィロックではなく、温もりや神秘性を感じさせるアコーステッィク・サウンドや、歓喜のグルーヴを発生させるためのエレクトロニクス・サウンドへと自然に移っていったのだ。この変化はつまり、ペリー・ファレルの快楽主義が“反社会的”な性質から、“脱社会/非社会的”な性質のものになった、ということなのではないだろうか(※この変化は、「反抗の音楽」としてアイデンティティを保ってきたロック・ミュージックの今後を考えるうえで、非常に大きなポイントとなるような気がしているのだが、それについてはいずれまた機会をあらためて書くことにしよう)。 本作が、エレクトロニクスの要素を大々的に取り入れたサウンドになっていることで今さら驚く必要はない。前のレコード会社との契約を消化するために作られたらしい、ジェーンズとポルノスの音源をまとめたベスト・アルバム『REV』でも披露されたソロ名義の新曲において、すでにこうしたアプローチが試みられていたことは言うまでもなく、前述したのイーニットというイベントが、ロック・バンドのステージに、ハウス/テクノ系のアーティストやDJによるアクトを組み合わせた内容になっていたことからも、当時からペリーはエレクトロニック・ダンス・ミュージックに並々ならぬ興味を持っていたことがわかるというものだ。それにしても、よくよく考えると、このイーニットは間違いなく時代の先をいっていた。2000年、2001年のフジロック・フェスティバルを体験した人なら実感できると思うが、ペリー・ファレルはあの祝祭空間を、レイヴのレの字もない96年のアメリカで創り出そうとしていたのである。あまりに先んじすぎたために、イーニットはロラパルーザのように世間を騒がすことはなかったが、近年になってようやくアメリカでもレイヴに火がついた状況を考えると、もしかしたらイーニットは今こそ復活すべきなのかもしれない。どうやらペリーは「ジュビリー」という新たなコンセプトのもとに、それを実現しようとしているらしいが……。 話を戻して、もうひとつ、早い段階からペリーのエレクトロニクス・サウンド志向が強くなっていたことを示すエピソードを記しておこう。98年にハードコア・テクノ・グループ=ローズ・オブ・アシッドの中心メンバーであるプラガ・カーンにインタビューした時の談話によると、その少し前にペリーからプラガに対し「いっしょにニュー・プロジェクトをはじめないか?」という話が持ちかけられたのだそうだ。残念ながら、諸事情により計画は実現しなかったが、もしその時に話がうまく進んでいれば、今回のアルバムのようなペリーの作品はもっと早い段階で登場していただろう。 そういうわけで、若干は予想より遅れた感じもありつつ、とにかくペリー・ファレルの正式なソロ・デビューである。アルバム全編から、それこそ無限に湧き出る泉のような祝祭のトーンは、はっきり言って現在のロック・シーンにおいて異質だ。だが、それがペリー・ファレルの辿り着いた新たな地平なのだということを思う時、ここで望まれ、祝われる愛と幸福は、その辺のインチキ宗教が振り回しているものに比べて、遥かに尊い、真摯な精神性の中から生み出されてきたものであることが理解できるはずだ。 もし、このアルバムを聴いて「ああ、ペリー・ファレルも彼岸の人になってしまったか……」などと感想を持つ人がいたら、それはあなたの方が現実に足をとられっぱなしの不幸な人間であることを証明しているだけのことなのではないだろうか? おそらくペリーは、汚い現実の世界が浄化され、「まだ歌われたことのない歌」を皆で歌うことを真剣に夢見ている。「夢は所詮、夢でしかない」なんていう言葉が聞こえてきそうだ。しかし、あらゆる変革とは人間が夢想することからはじまるのではなかったか。ペリー・ファレルのソロ・デビュー・アルバムは、決して現実からの逃避ではなく、現実との不毛な闘いを超えようとする意志であり、闘いの放棄ではなく、これまでとは違う闘い方を示すものなのだ。 2002年5月 鈴木喜之 ※本稿は、国内盤アルバムのライナーノーツとして書かれた原稿に、一部手を加えたものです。
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