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「ノルウェーのネズミ」という意味でもあるドブネズミの学術名が原題につけられた本作は、ストラングラーズの記念すべきデビュー・アルバムである。本国イギリスでのオリジナル発売は77年4月、先行リリースされたデビュー・シングル“(ゲット・ア・)グリップ(・オン・ユアセルフ)”の発売から3カ月後のことだった。最終的には本アルバムは全英チャート4位まで上昇し、ゴールド・ディスクを獲得、シングル・カットされた“ピーチズ”も最高位8位を記録するという好成績を納めた。ついでに書いておくと、続くセカンド・アルバム『ノー・モア・ヒーローズ』とサード・アルバム『ブラック・アンド・ホワイト』はそれぞれ最高2位、『ライヴ“Xサーツ”』が7位で『レイヴン』は4位である。初期英国パンク・バンド群の中で、ストラングラーズは最も商業的に成功したアーティストでもあるのだ。 スウェーデンで医師を務めるかたわら、ジョニー・ソックスというバンドをやっていたヒュー・コーンウェルがイギリスに戻り、飲食店の経営で成功していたジェット・ブラックと出会ったのが、ストラングラーズ結成の第一歩だったそうである。間もなくそこに運転手をして生計を立てながら大学を卒業し、空手の先生になろうとしていたジャン・ジャック・バーネルが加わる。これが73年頃のこと。当初はこの3人にセカンド・ギタリストのハンス・ウォームリングという人が加わった編成だった。その後ハンスが脱退し、後任にはキーボードを入れようという意見がまとまって75年にメロディ・メイカー誌上でメンバー募集の告知を出し、それを見て応募してきたのが、既にかなりのバンドを経験していたデイヴ・グリーンフィールドであった。 活動開始当初のストラングラーズは、サリー州ギルフォードに根拠を置き、その頃はまだギルフォード・ストラングラーズと名乗って、地元のパブで地道な演奏を続ける毎日だったという。パンク勃興以前の英国ロック・シーンには、パブ・ロックがあり、来たるべきパンク/ニューウェイヴへの下地を作っていたというが、ストラングラーズもその中に身を置いて自らの音楽を鍛え抜いていったのだろう。ちなみに、この時期の演奏は現在『ライヴ&レア1974〜1976』(日本ではテイチク・レコードから発売された)で聴くことができる。ものすごく音が悪い状態のデモ・テイクだが、デイヴがまだいない頃にやっていた“ストレンジ・リトル・ガール”が、後にレコーディングされたものとほとんど変わらないアレンジで入っているのが興味深い。後に、『レイヴン』以降大きく変わったとされているストラングラーズの音楽性が、実は活動初期から一貫していたものであったことが認識できるのである。 ストラングラーズは、確かにロンドン・オリジナル・パンク・シーンの動きの中からブレイクを果たしたバンドだった。しかし、彼らは世代的にも他のパンク・バンドより一回り上だったし(ジェットに至っては二回り上?)、各メンバーはそれぞれ独自のキャリアを築いてきている面々だったのだ。デビュー・アルバムである本作に何故か堂々と記されている「IV」という文字は、バンドがもはや4年の歴史を持っているということを表したものだと言われている。 ポリスがあくまでパンクの影響下で結成され、才人スティングがそのムーヴメントを出世への足がかりとして意識的に利用したのに対し、ストラングラーズの方は偶発的にパンク・ムーヴメントの流れに巻き込まれて脚光を浴びる機会を得たのである。当時の彼らは自らをもってパンクと称したことは一度もないし、明らかに自分たちと他のパンク・バンド勢との間に距離を保っていた印象を受ける。ただ、話がややこしいのは、我々にとって、そんな彼らの態度・姿勢が、そこいらへんのファッション・パンクスなどよりも遥かに強烈に「パンク」を感じさせるものだったというところにあるのだ。ステージ上、オフを問わぬ過激な言動とそれに伴う暴力沙汰の話題にはことかかなかったし、特に日本においては、親日家のジャン・ジャックがたびたび単身来日して、カラテとミシマへの傾倒ぶりを見せつけて注目を引いていたのが決定的といってよかった。「ドント・スマイル・ソー・マッチ、イット・メイクス・ユー・ブラインド!」という彼の言葉は、そのままストラングラーズを極東の島国におけるパンクの代名詞へ位置付けさせたのである。ただ、当時の彼らの精神性がまさしくパンクそのものであったことは間違いないが、パンク・ロックという音楽のカテゴリーからは、ストラングラーズのサウンドはさらに別の次元に位置するものでもあった。ジョン・ライドンだってピストルズを飛び出してPILを結成したし、クラッシュも『サンディニスタ!』を作りあげたことで、正しくパンク・ロックに落とし前をつけたという評価を得、双方それぞれの「誠実さ」を証明している。だが、ことストラングラーズに関して言えば、彼らの音楽には初めからパンク以前も以後もなかったのだ。 90年代も半ばに差しかかった現在、若い世代の人間が、このストラングラーズのファースト・アルバムをいきなり聴いて、はたしてパンク・ロックだと感じるだろうか、ということをいつも考えてしまう。次作の『ノー・モア・ヒーローズ』や『ブラック・アンド・ホワイト』に比較すると、ジャン・ジャックのベースはすでにその独自のスタイルを確立しているとはいえ、ギターやベースよりもキーボード、しかもシンセサイザーの本格的な導入はまだ行われておらず、オルガンを中心にした音作りがなされており、相当メロディアスで滑らかに聞こえるのではないだろうか。歌詞の方こそ、のっけから「いつかお前の顔をブン殴ってやる」と歌いだす冒頭1曲目の“サムタイムズ”や、あるプレスの女性記者の事を非難した内容だという“ロンドン・レディ”、さらに“ハンギング・アラウンド”など、暴力的な空気がビンビンに伝わってくる作品も多いが、個人的には、ダルな曲調が異色な“街角のプリンセス”や、アルバムのラストを飾る4部構成の大曲“ダウン・イン・ザ・スーワー”などにも興味をひかれる。特に、80年代以降のストラングラーズのライヴでも頻繁に演奏されていた“ダウン・イン・ザ・スーワー”は、生存競争を勝ち抜くために、下水道の中でネズミと一緒に生活していこうと考えるパラノイアな人物が登場し、後に開花するSF的なモチーフを持った詞世界の、最初の作品だと言うこともできるかもしれない。さらに細かいことを言えば“グリップ”の中に出てくる「他惑星からやって来た異邦者よ〜」というフレーズひとつにまで、そういう感覚の片鱗を感じとってしまう。サウンド面でも、アルバム発表当初は、当たり前のようにドアーズが引き合いに出され、混沌として先が見えないパンク・シーンの音楽的な突破口になるだろうというような評価を得た。また、「怒れるサイケデリア」などという呼称も与えられていたようである。 同期にデビューした他のパンク/ニューウェイヴ・バンドがほとんど解散・分裂してしまった中、唯一20年近く堅実な活動を続けていたストラングラーズも、遂に90年8月にヒュー・コーンウェルの脱退により、その不動のラインナップに終止符を打つ。新メンバーを加えてバンドは存続するが、個人的にはそこに往時の輝きを見ることはできない。だが、そんな今こそ、パンク・ムーヴメントとは切り離して、彼らがアルバムごとに試みてきた果敢な音楽的トライアルの凄さを再確認することができるはずだ。ぜひ、このファーストから何度でも繰り返し聴いてみてほしい。 1994年2月 鈴木喜之 ※本稿は、国内盤アルバムのライナーノーツとして書かれた原稿を、一部手直ししたものです。
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