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『黒豹』
ザ・ストラングラーズ

Epic Records (ESCA-7747)

 1982年、ユナイテッド・アーティスツ(以下UA)の所属を離れたストラングラーズは、新たにエピック・レコードとの契約を獲得した。そうして発表された移籍第1弾アルバムが『黒豹』である。本作は、年が明けた83年の1月にリリースされ、最終的に全英チャートで4位を記録するヒット・アルバムとなった。このアルバムによって、ストラングラーズは暴力的なパンク・バンドのイメージから完全に脱却し、美しいメロディと幽玄なアレンジを聴かせる優れたポップ・バンドとしての認知を勝ち得たのである。

 本作より遡ること5年ほど前、イギリス全土でパンクの嵐が吹き荒れる中さっそうと登場し、いきなりデビュー・アルバムで全英4位を奪取して以降、2nd『ノー・モア・ヒーローズ』が2位、3rd『ブラック・アンド・ホワイト』も同じく2位、4th『レイヴン』は4位というぐあいに、ストラングラーズはまさに破竹の快進撃を続けてきた。しかし、続く5thアルバム『メニンブラック』は8位、そしてUA時代最後の作品『ラ・フォリー』は、ヒット・シングル“ゴールデン・ブラウン”を収録しながら11位というぐあいに、ここ日本ほど極端ではなかったものの、本国イギリスにおいても、ストラングラーズの人気は若干の後退を余儀なくされている。これは、パンク・ムーブメント自体の失速という要素もあるが、それ以上に、彼らのサウンドの大きな変化に対する反動が大きかったのだということは、ファンの方ならばよく承知していることだろう。確かに、『レイヴン』で初めて提示され、『メニンブラック』と『ラ・フォリー』で展開された先鋭的な音楽性は、ストレートなロックンロールを求めるリスナーにとって、少々ハードルの高い内容になっており、実際に熱心なファンの間では賛否両論の渦が巻き起こった。もちろん、ちょっとしたチャートの上下だけでバンドに対する評価を決定づけることはできないし、個人的には、あの内容でトップ10クラスを維持したのだから、それだけでも充分に驚異的だと考えてはいるのだが。

 いずれにせよ当時のストラングラーズは、単にニュー・アルバムが正当に評価されないという公の場における不振にとどまらず、現実的な場でも、スタッフの急死やスタジオでの爆発事故など、数多くのトラブルに見舞われており、財政面でも破産寸前まで追いつめられる危機的状況にあった。UAとの契約が切れたことも、決してそれと無関係なことではない。そんな彼らにとって唯一の明るい話題は、先述した『ラ・フォリー』からのシングル“ゴールデン・ブラウン”が2位まで昇るヒットとなったことであった。チャートによってはナンバー1にも輝いており、これは彼らの全シングルの中でも未だに最高位に位置している。また、それに続くUAからのラスト・シングルとなった“ストレンジ・リトル・ガール”(アルバム未収録)も7位まで上昇し、こちらも、代表曲“ノー・モア・ヒーローズ”を抜き去り、歴代2位タイの記録を残した(もう1曲は87年の“オール・デイ・アンド・オール・オブ・ザ・ナイト”)。実は、この“ストレンジ・リトル・ガール”という曲は、ストラングラーズがレコード・デビューする前、まだキーボードのデイヴ・グリーンフィールドが参加する以前に作られていた曲であり、ストラングラーズがいかに活動開始当初からポップ志向を持っていたかという事実を証明するナンバーでもある(オリジナル・テイクは『THE EARLY YEARS 74-75-76 RARE LIVE & UNRELEASED』というコンピレーション盤で聴くことができる)。契約切れが決まったレコード会社のために新曲を書き下ろす気力もなく、過去の作品を引っ張り出してきた、という邪推もできるかもしれないが、とにかく、この2曲のシングル・ヒットによって、彼らはバンドが進むべき新たな方向性を確認できたのに違いない。考えてみれば、ストレートなロックンロール・サウンドを聴かせていた初期のアルバムでも、さらには複雑なアレンジや凝ったサウンド・プロダクションが全編に施された『メニンブラック』においてさえも、彼らの紡ぎ出すメロディは常に美麗な輝きを放っていた。そして、エピック時代のストラングラーズは、そんな彼らの本領であるメロディ・センスを最良の形で提示する作業に専心していくことになるのだ。

 かくして、心機一転巻き直しを図った『黒豹』は、ヒュー・コーンウェルのアコースティック・ギターの美しい音色をフィーチャーした、バンド史上でも最も優美な雰囲気を湛えた作品となった。先行シングルの“ヨーロピアン・フィメール”も9位にランクインする幸先のよいスタートを切り、ストラングラーズは、イギリス国内において、パンク以降/第2期への転換を完璧に成功させるのである。(残念ながら日本では、それは果たせなかったわけだが……)。ちなみに、本作後の3枚のオリジナル・アルバムの各チャート・アクションは、いずれも最高位が15位前後で、確かに過去と比べると数字的には落ちているのだが、なぜか『メニンブラック』の時と違い、このエピック時代のストラングラーズは、極めて安定した活動を保っているというイメージが強い。ブームの終焉に押し流され、同期のパンク/ニューウェイヴ・バンドのほとんどが、分裂したり、消え失せたり、ミジメな姿を晒したりという様相を呈している中、唯一デビューした時から変わらぬ不変のメンバーで良質な作品を作り続けていたのは、他ならぬストラングラーズだけだったからだ。

 アルバムの代表曲は、やはり“ヨーロピアン・フィメール”と、冒頭に置かれた“真夏の夜の夢”ということになるのだろう。ジャン・ジャック・バーネルが歌う“ヨーロピアン・フィメール”は、一見したところでは普通のラヴ・ソングだが、彼が以前発表したソロ・アルバム『ユーロマン・カメス』のコンセプトを知っている人間ならば、この曲の背景にはヨーロッパ共同体についての政治的思想が存在していることに気づくはずだ。また、“真夏の夜の夢”で登場する「夢」というモチーフは、次々作『夢現』のタイトル・ナンバーにおいて、オーストリア原住民アボリジニの思想にインスパイアされた形で、再び言及されることになるが、現実世界に対する徹底的に突き放したクールな視線が、「所詮この世は一抹の夢にすぎない」という思想にまで到達したことを示しているように思える。その他の曲も、全体に「絶望を超えた穏やかな諦念」とでもいうべきムードにあふれており、そのいずれもが独特のロマンティックなサウンドを纏うことによって、じっくりと聴き込むに相応しい佳曲になっている。最終曲“さよならは言わない”の中間のピアノ・ソロなど、いつ聴いてもゾクゾクするほどの美しさである。

 レコーディング・スタッフについても簡単に触れておきたい。共同プロデュースを勤めているスティーヴ・チャーチヤードは、『レイヴン』以降の作品でエンジニアリングを担当してきた人物だ。そしてミキシングは前作『ラ・フォリー』から引き続き、かのトニー・ヴィスコンティが行っている。ヴィスコンティは、デヴィッド・ボウイなどとの仕事であまりにも有名なプロデューサーだが、彼が関わった数多くのロック名作の内の1枚であるT−レックスの『電気の武者』(そういえばジャケットの雰囲気も、なんとなく本作と似ている)のクレジットを見てみると、なかなか興味深い事実を確認することができる。71年にリリースされた『電気の武者』には、全部で4人のエンジニアが起用されているが、その中にはマーティン・ラシェントとロイ・トーマス・ベイカーの名前があるのだ。この後にヒューマン・リーグを大ヒットさせるラシェントは、ストラングラーズの最初の3枚のアルバムをプロデュースしているし、クイーンやカーズを手がけたことで名高いベイカーは、ストラングラーズがエピックに残した最後のオリジナル作品『10』をプロデュースすることになるのである。優れたロックのプロデュ−サーは、そのほとんどがエンジニア出身だが、こうした人脈図を発見するのも、よりストラングラーズの音楽に対する理解を深める手がかりになるのではないだろうか。あくまで想像の範疇ではあるが、彼らはバンド活動初期から、パンク・ロック的なものとは違う、より深みと奥行きのあるサウンド・プロダクションを意識していたのではないかと考えることもできるからだ。

1999年1月 鈴木喜之


※本稿は、国内盤アルバムのライナーノーツとして書かれたものに、一部手を加えたものです。

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