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 さて、てきぱきとしたセットチェンジが終了すると、“マントラ”に入っているメイナードの飼い猫の呻き声(?)が流れ、トゥールのメンバー4人が登場。ステージの配置はフジロックと同じで、例によってメンバー(特にメイナード)にはほとんど照明があたらない。したがって、スクリーンを背景にすっかりシルエットになってしまうメイナードの服装がいったいどのようにキテレツなものなのかは、自分の座席の位置からは詳細を確認することができなかった。1日目は、なにやらトレンチコートっぽい服をはおって登場し、1曲歌い終えてそれを脱ぐと、その下はやはり怪し気なジャケット風、さらに1曲歌い終わるとジャケットも脱いで上半身裸になるというスタイル。細かいところは分からないが、下に履いていたズボンも絶対に普通のものではなかったはずだ。そして2日目には、何やら触手(?)のようなものが背中から飛び出しているらしい奇妙なスーツを着用しており、インターミッションを挟んだ後半はそれを脱いで海パン一丁に……。両日とも、全体を白塗りしたうえで顔面の中央部だけを黒塗りしていた。メイナードのステージ上でのいでたちは「今回のツアーから普通になった」という評判だが、ここにきて一気にまた異常性を爆発させている。同行してくださったM氏によると、フジでのメイナードも単なる実は「青塗り」ではなく、その上に蛍光黄色で点々と星が散らしてあったという(バックステージで近距離から目撃したのだそうだ)。
 日本では今年に入ってから急激にトゥールの認知が広まったので、最近になって初めて「しばらく前の」メイナードの白塗りメイクや偽乳をつけた写真を見て、それが「意味なし変態コスプレ願望」だと誤解してしまってる人間もいるようだ。しかしもちろん実際には、あれは単なる「意味なし変態コスプレ」ではない。マドンナの擬態をしてみせたことが、「表現者としての内実はおろそかにして、外見ばかりを売り物にするアーティスト」に対する体をはった批判だということが分かれば、同時にその行為が「自身の存在をアピールする」ためのものではないということも、すぐに理解できるだろう。ライヴ中にステージ後方から一歩も前に出てこず、それどころかスポットライトが当たることさえないという状況を考えれば、メイナードが「見せびらかすために」変な格好ををしているのでないことは明白だ。かつてコメディアンだったというメイナードは、おそらく現在のメイクに当時の経験を活かしているのだろうが、彼が道化の扮装をする目的は、メイナード・ジェームス・キーナンという個人をむしろ消滅させ、別な何かに自らを変身させることにあるのだ。あるインタビューでは、メイナードはライヴ・パフォーマンスに関して「チャネリング」という言葉を使っている。プログレ好きな人なら、かつてジェネシスにいた頃のピーター・ガブリエルが自らに施していた奇妙なメイクや扮装が、実は「自分自身をステージから消し去ってしまいためのものだった」という感覚に近い、と言うと分かりやすいと思う。実際、素のメイナードは非常にナイーヴな人なのだ。もうひとつ参考までに、昨年APCで来日した時に行なわれたインタビュー中のやりとりを引用しておこう。

●よく聞かれる質問でしょうが、なぜステージでカツラをつける必要があるのですか?
「理由はけっこう複雑なんだけど……1つには、まぁ当然ながら僕にもパーソナルな生活があるわけで、それとこれとをきちんと分けておきたかったんだよね。要するに、カツラをつけることで、表現活動と私生活との線引をしてるんだよ。これは仕事だぞっていう意思表示というか。そうすることで、日常生活を脅かすことなく、よりオープンになれるんだ。歌い終わってステージを降りれば、そこでおしまい。その先はリスナー各自がそれぞれ家に持ちかえってくれ、で、僕の家族やプライベートはそっとしておいて欲しいっていうね。イメージを確立しようと躍起になってる連中は、たとえ名前だけ売れても、その実レコード・セールスはイマイチだったりする。そのうえ、落ちぶれてからも家から一歩も出られない。自分の『顔』を売っちまった代償だよ。音楽を作ることより、そっちを選んでしまったんだから。でも僕は、そういうゴタゴタから家族を守りたいし、誠実に音楽を作っていきたいんだ」

 ちなみにメイナードは、NINといっしょに廻ったAPCの全米ツアーの時も、最終日の最後の曲までカツラをずっとつけたままだったのだが、冒頭に書いたように、フジロックでは例外的にカツラを脱いでみせている。まだ明るいステージの上で彼がそうしたことが、日本の観客に向けて示された最大の敬意だったという事実を、もっと多くの人が知るべきだ。

 話が少しそれてしまったが、トゥールが演奏した曲目についても触れておこう。最初に“ザ・グラッジ”でブチかまし、“スティンクフィスト”になだれ込むオープニングと、オーラスを“ラタララス”でシメる構成は、今回のツアーを通じて一貫しているようだ。さらにインターミッションを挟んで、前半の最後に演奏されるのが“ディスポジション”〜“リフレクション”、後半が“ソバー”ではじまるというのも決まっている(※ただし、9月以降のアリーナ・ツアーでは“ソバー”がリストから外されたとのこと)。ただし、その枠組以外は、公演ごとに曲目をかなり入れ替えている。例えば、14日の公演は後半のハイライトに“プッシュ・イット”のSalivalヴァージョンを持ってきて、その代わり13日のライヴで後半の山場を担っていた“パラボル”〜“パラボラ”は、“パラボル”を省略する形で前半に移されていた。その“プッシュ・イット”では、『Sarival』にもクレジットされている、タブラの名手にしてダニーの師匠でもあるAloke Duttaがゲストとして登場し、ダニーとの掛け合いを披露するなど、とりわけスペシャル度が高いショウだったのだが、こうして2夜連続で見たことによって、現在のツアーで主軸にはなっていない過去の曲もその分多く聴けたし、その配置によってかなり印象が違う2つのライヴを経験できたことは、非常に嬉しかった。

 こうして、短期間に3回トゥールのライヴを、それもキング・クリムゾンといっしょに見る機会を得て、今さらながら「やはり彼らはライヴで観てこそ」ということを実感した。ついこの夏まで観たことなかったくせに、とたんにこんな風に言い出すのもイヤミだが、「生で観てもいないくせにトゥールを語るなよ」なんてぬかしてた連中の気持ちがつい分かってしまうそうなくらい、確かにそこには特別な何かを感じる。彼らのライヴの凄さについて、よく「レコードと寸分違わぬ完璧な演奏」と表現されることがあるが、実際にはちょっと違っていて、例えばLA2日目の演奏はハッキリと「荒れて」いた。トゥールもこんなライヴをやることがあるんだ!と驚かされたのだが、その荒れ具合が逆に強烈な迫力を生み出している事実に気づいた時、トゥールが単に演奏テクニックに秀でただけの集団ではないということが分かり、ちょっと感動してしまった。彼らは完成した楽曲を生き物のように扱い、どんどん変化させていく。今回確認できた範囲では、“スティンクフィスト”や“プリズン・セックス”が、すでにアルバム・ヴァージョンから変更を加えられていた。また、アレンジが同じままでも、ライヴで体験すると楽曲のイメージが大きく押し広げられるのは、スクリーンに映し出される映像も一役買っているのだろうが、それ以上に生演奏によって吹き込まれるヴァイヴレーションが曲の持つ力をよりダイレクトに受け手に届ける働きを強めるのだと思う。「CDがよくない」と言いたいのではない。ただ、ライヴを体験すればするほど、スタジオ・ヴァージョンまでいっそうよく聴こえてくるのもトゥールならではの面白い現象だ。自分の場合、最も聴き込んだトゥールのCDは『Salival』と『Opiate』で、正直『アニマ』と『ラタララス』に関しては、冗長とは言わないまでも、それなりの覚悟で向き合わないと途中で緊張感が切れてしまうようなことが時々あった。しかし、ライヴを体験したことによって、たとえば『ラタララス』の中では、どちらかというと「引き」の曲である“ディスポジション”の美しさに気づいたたり、アルバムの新たな魅力を発見して、その良さが増していくのである。このあとトゥールを観られるチャンスがあれば、なるべく何度でも何度でも観たいと思う。そういう種類のライヴをやっているバンドは、現在では、かなり少ないのではないだろうか。
 そのことを起点に「トゥール=プログレ論」を展開できそうな気もするが、今はまだそこまで風呂敷を広げないでおこう。とりあえず、以前プログレと呼ばれていたロック・ミュージック史上のひとつのトライアルに共通するスピリッツを、クリムゾンだけが現在も失わずにいることと、トゥールだけが受け継いでいることは間違いないようだ。


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