私にとって・・礼拝、礼拝奉仕とは?
一、「礼拝する」ということ
私達クリスチャンは日曜日になると、教会へ足を運び、「礼拝」と呼
ばれる行為を行います。このことは一体、クリスチャンにとってどの
ようなものなのでしょうか。日常的に行われる個人的な礼拝はひとま
ずおいておいて、ここでは日曜日に礼拝堂で行われる公堂の礼拝
について考えてみましょう。
そもそも、礼拝というのは神様からの命令の一つです。ではなぜ神
様は礼拝を命じられているのでしょうか。答えはいたって簡単です。
私達が神様に造られ、神様が私達の父親であるからです。父親であ
る神様は愛する子である私達に「私のところに来て顔を見せなさい」
と言われているのです。神様は私達を含め、世界に満ちる全てのも
のを造られた方です。被造物である私達が、造り主であり、ここまで
の養い主である、父なる神様に感謝しほめたたえる、ということはい
たって自然な反応ではないでしょうか。
「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受ける
にふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみここ
ろゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」
(ヨハネの黙示録4章11節)
私達は自分達が恵まれるためではなく、神様が喜ばれるために礼
拝をしましょう。「神様に喜んでほしい」という思いで神様に近づくと
きに、神様は私達に恵みを施してくださるのです。神様も同じよう
に、「子ども達に喜んでいて欲しい」と願われているのですから。
また、神様はどのように礼拝することを願われているでしょうか。聖
書を見ると、やはり神様に喜ばれる礼拝と、そうでない礼拝があるよ
うです。聖書には次のように書かれています。
「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなた
がたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、
聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべ
き霊的な礼拝である。」(ローマ人への手紙12章1節)
またこうあります。
「『あなたがたの多くのいけにえは、わたしに何になろう。』
と、主は仰せられる。『わたしは、雄羊の全焼のいけにえや、肥
えた家畜の脂肪に飽きた。雄牛、子羊、雄やぎの血も喜ばない。
・・・
もう、むなしいささげ物を携えて来るな。香の煙・・それもわた
しの忌みきらうもの。新月の祭りと安息日・・会合の召集、不義
と、きよめの集会、これにわたしは耐えられない。」
衝撃的なことを言うならば、神様は礼拝することを、たいして求め
ておられません。神様が求めておられるのは「礼拝者」であり、「悔
いた心」です。私達は日曜日に教会で礼拝をささげることが、習慣と
なってしまっていないでしょうか。礼拝は受けるものではなく、捧げる
ものです。自分の身体も心も、空っぽの状態にして神様にあけ渡す
という、能動的な礼拝を捧げていきましょう。そこに神様が力と恵み
を注いでくださいます。
一、「礼拝する」ということ