私にとって・・賛美とは?

 

  三、賛美は犠牲を伴う

 先の「賛美は祈り」というテーマの中で、祈りと同様に賛美は霊の

呼吸である、という話をしました。しかし現実的に考えるならば、無茶

な話です。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事

について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があな

たがたに望んでおられることです。」(テサロニケ人への第一の手紙

5章16〜17節)と聖書を通して言われていますが、これは実に酷

なことです。私達の心には、いつも神様への賛美があるわけではあ

りません。悩み、苦しみ、つまづき、病むとき、私達の心に溢れるの

は賛美ではなく、神様への疑いでしょう。しかし神様はあえて、常に

神様を賛美することを命じられているのです。このことを思うとき、私

はいつもヨブの叫びを思い出します。

   「このとき、ヨブは立ち上がり、その上着を引き裂き、頭をそ

   り、地にひれ伏して礼拝し、そして言った。『私は裸で母の胎か

   ら出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取

   られる。主の御名はほむべきかな。』 ヨブはこのようになっても

   罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった。

   (ヨブ記1章20〜22節)

 全く原因のわからないまま、しもべ達や家畜、息子や娘までをも一

気に殺されるという、わけのわからない悲惨な出来事の後、ヨブの

口から出た言葉がこれでした。とうてい神様を賛美などできない状

態のときにも、彼は全てを備えてくださる神様の素晴らしさを賛美し

たのです。私達に求められているのは、実にこのことなのです。自分

が喜び、神様に感謝しているときに神様を賛美するのは、比較的簡

単なことです。しかし、神様が望んでおられるのは、辛く悲しいときに

も神様のみを頼みとしながら、委ねて歩むことなのです。これが神様

を礼拝する者の姿ではないでしょうか。計り知れないほど辛く悲しい

思いの時に、神様を疑う心や辛く悔しい心を犠牲として殺してしまい

ましょう。そして全てを神様のみもとにお委ねしつつ、神様の完全さ

を賛美しましょう。聖書にはこう書かれてあります。

   「ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すな

   わち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようで

   はありませんか。」(ヘブル人への手紙13章15節)

 

一、賛美は乗り物

二、賛美は祈り

三、賛美は犠牲を伴う

四、賛美の先にあるもの

 

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