(1999.11.3 聖公会神田キリスト教会、1999.11.23 関内ホール小ホール)
フランスの宮廷バレエ音楽を源とする、器楽合奏による組曲という形式は、バロック時代のドイツで大いに流行しました。「管弦楽」といっても、バッハの組曲第2番のように弦楽合奏にフルート1本だけという地味なものから、トランペットやティンパニまで加わる華やかなものまで、その編成はさまざまですが、最も一般的だったのは、この曲のように2本のオーボエとファゴットと弦楽合奏というものでした。
バッハの管弦楽組曲は4曲残されています。しかし、例えばテレマンやファッシュといった同時代のドイツの作曲家がこの種の曲を100曲以上も残していることから考えると、バッハも実際はもっと作曲していたかもしれません。そんな曲がどこかで見つかったら、世紀の大発見ですね。
第1番は序曲と6つの舞曲で構成され、各舞曲のテーマは序曲の冒頭部分の変奏となっています。なお、当時は冒頭の楽章にちなんで曲全体を「序曲」と呼ぶのがふつうで、「組曲」という呼び方は後世のものです。
バッハのチェンバロ協奏曲は、独奏チェンバロが1台のものから4台のものまで、13曲が現存しています。そのうちの何曲かは自作のヴァイオリン協奏曲の編曲(ただし1曲はヴィヴァルディ原曲)なので、残りの曲もほとんどは旋律楽器のための失われた協奏曲の編曲だろうと考えられています。
バッハはライプツィヒで、テレマンが創設したコレギウム・ムジクムという学生オーケストラを指導していました。おそらくバッハは、そこで彼自身が(ときには長男フリーデマンや次男エマヌエルと一緒に)独奏チェンバロを弾くために、これらの曲を書いたと思われます。このような試みが息子たちを経てハイドンやモーツァルトへと受け継がれ、ピアノ協奏曲というジャンルを生んだのですから、バッハは「音楽の父」というだけでなく、「ピアノ協奏曲の父」ともいえるかもしれません。
このホ長調の協奏曲は、原曲が現存せず、その独奏楽器が何であったかはわかりません。もちろんヴァイオリンの可能性もありますが、音域や音の動きからオーボエという説が有力です。バッハはこの曲を気に入っていたらしく、オルガンを独奏楽器にして、第1〜2楽章をカンタータBWV169に、また第3楽章をカンタータBWV49に転用しています。
バロック時代の器楽合奏曲を代表するこの協奏曲集の、作曲者自身によるタイトルは「種々の楽器のための6つの協奏曲」ですが、プロイセン王家の重要な一員であったブランデンブルク辺境伯クリスティアン・ルートヴィヒに捧げられたため、後世「ブランデンブルク協奏曲集」と呼ばれるようになりました。
バッハ自筆の献辞によると、バッハが以前ベルリンを訪れた時に、当時ベルリンに住んでいた辺境伯から作品集の依頼があり、それに応えたのがこの曲集だということです。実はバッハはこのころ新しい就職口を探していましたので、この曲集の献呈は彼の就職活動の一環だったのではないかともいわれています。
第6番は、ヴァイオリンがまったく使われず、ヴィオラ2本、ヴィオラ・ダ・ガンバ2本、チェロ、通奏低音という、中・低音域に集中した、他に類のない楽器編成で書かれています。第1楽章に6回現れる総奏部はすべて、2本のヴィオラによる8分音符1つ分だけずれたカノンです。また、独奏部のテーマは総奏部の冒頭部分の変形で、これからさらに第3楽章の総奏と独奏のテーマも導かれるというように、バッハの卓越した作曲技術が遺憾なく発揮されています。
この3つの楽器が独奏を受け持つ曲としては、ブランデンブルク協奏曲の第5番が有名ですが、バッハの「三重協奏曲(トリプル・コンチェルト)」として知られるこのイ短調の協奏曲も、劇的な曲想と技巧的で華麗なチェンバロ独奏をもつ、魅力あふれる作品です。
チェンバロ協奏曲と同様、ライプツィヒのコレギウム・ムジクムのために、やはり自身の旧作を基にして作られました。原曲はチェンバロ独奏用の「プレリュードとフーガ イ短調」BWV894で、プレリュードは第1楽章に、フーガは第3楽章に使われました。そして第2楽章はオルガン独奏用の「トリオソナタ第3番」BWV527の第2楽章から転用されています。
協奏曲への編曲に際して、両端楽章は大幅に補充・拡大され、より緻密で緊張感あふれる曲となっています。一方、第2楽章はブランデンブルク協奏曲第5番と同様、3つの独奏楽器だけで演奏されます。
堀 栄 蔵
結成25年を迎えたカメラータ・ムジカーレの皆さん、おめでとう。アンサンブルの面白さ、楽しさは私もよく理解できますが、それにしてもよくぞここまで続けられたものと感心するやら、あきれるやら。「継続は力なり」と言います。そのうち文化庁から表彰されるかもしれませんね。
皆さんとの出会いは、青山タワーホールでの慶應バロックアンサンブルの演奏会でした。当時の私の年齢が今の皆さんの年齢であったわけです。その後しばらくしてカメラータ・ムジカーレが結成されましたが、当時としては若手のバロックアンサンブルのさきがけ的な存在であったと思います。
25年前は皆さんも好青年(悪ガキ)でした。ある年の秋、軽井沢で合宿があり、私も招かれましたね。まだ平均律の響きの時代でした。皆さんに純正和音に近いミーントーンの響きを知ってほしいと、2通りに調律して聴き比べ、その違いをみんなで議論したものです。ところがその晩、食いしん坊の〇〇君、翌日のためにと用意されていたものをつまみ食い。大変なひんしゅくを買い、翌朝なぜか私まで一緒に合宿所を追い出される始末。若い頃のいまだ忘れ得ぬ思い出です。
その頃から海外の有名な音楽家、演奏団体が続々と来日。当時はまだチェンバロの数が少なく、私も楽器製作の傍ら、楽器の提供や調律の仕事に多忙をきわめました。そんな時に皆さんに手伝ってもらい、大助かりでした。演奏会場に大勢で楽器を運び、ついでにリハーサルから本番も聴かせてもらう。おかしな時代でしたね。
皆さんが就職してからはこのようなこともなくなりましたが、その後も皆さんの演奏には耳を傾けてきました。しかし、このところタイミングが悪くてお目にかかる機会を得ず、残念に思っています。
アマチュアは家庭を持つと容易に演奏会など続けられないのではと思いますが、これだけ活動が続いているということは、ご家族の理解と協力が得られているのでしょう。この調子だとまだ当分は続けられそうですね。楽しみにしております。
ちなみに、私はクラシックの勉強に入っていて、初期の6オクターブのフォルテピアノを製作しています。私の仕事もこれでお終いかな……。
堀 栄蔵(チェンバロ、フォルテピアノ製作家)
1926年、三重県生まれ。58年ピアノ修理工房を開き、同時にコンサート調律師としても活躍する。67年頃から平均律への疑問をきっかけにチェンバロに興味を持ち、製作を手がけるようになる。70年頃から、国内外の著名演奏家のコンサート,レコーディング,放送のために楽器を提供し,調律も担当。82年に埼玉県吉見町に「堀洋琴工房」を設立し、精力的に製作活動を行っている。チェンバロ製作のパイオニアであり、わが国の古楽揺籃期から一貫して、後進製作家の育成・指導、若手演奏家への献身的なサポートや教示を行い、今日の古楽隆盛に大きく貢献した。
(堀栄蔵氏は2005年6月9日に逝去しました。「堀栄蔵氏を悼む」のページをご覧ください)
市川 信一郎
あれはたしか1974年の夏だったと記憶しています。チェンバロ製作家の堀栄蔵さんが資料調査のため渡欧中、堀さんのカバン持ちだったわれわれがピンチヒッターとして、彼の楽器と楽器運送用の車を預かり、チェンバロのコンサート・サービス(演奏会のためのチェンバロ運送と調律)を引き受けたと思し召せ。高名なチェンバロ奏者、小林道夫さんのコンサートで、小林さんに同行して山形に行ったときのこと、誰が言うともなく、「俺たちも演奏会をやるにはチェンバロ運送用の車がいるな」ということに相成りました。ちょうど堀さんから、楽器製作のほうに専念したいのでコンサート・サービスの仕事を引き継いでくれないか、との申し出があった頃のことで、自分たちの車があればこれにも応えられるとも考えたわけです。
とはいえ当時はみな学生の身、もちろんチェンバロ運送用の車など買う金は無い。そこで金を捻出するための手立てとして何を考えたか、さあ次のどれでしょう?
・地下鉄工事のバイトをする。
・塾を開いて受験生に教える。
・ホストクラブで荒稼ぎする。
答えはココをクリックしてください。何も出てきませんね。そうです全部外れです。あはは。
実は、今から考えると顔から火が出るような破廉恥、大胆不敵、身のほど知らずの考えだったのですよ。それはなんと、小林道夫さんのコンサートをわれわれが企画し、その収益を車代に充てるというもの。しかもジョイントコンサートとして自分たちも出演してしまう、という冗談のようなあきれたアイデア。ところが同行中の小林さんは、その話を聴いて、快諾! 思わぬ展開に引くに引けなくなったわれわれも覚悟を決めて、準備にいそしみました、ハイ。
結果、演奏の方はご想像あれ。しかし、これでわれわれは超ボロのダットサントラックをあがなうことができたのです。
こうして、学生アマチュアによる日本初のオリジナル楽器アンサンブル、しかもチェンバロの運送、調律からマネジメントまでいっさいがっさい自力でやってしまう、最強の集団「カメラータ・ムジカーレ」が生まれたのであります。
市川信一郎(音楽学者)
1948年大阪生まれ。慶應義塾大学大学院博士課程哲学専攻修了。東京大学、杉山好ゼミに参加しバッハ研究を志す。また、カメラータ・ムジカーレ創設メンバーの一人としてリコーダー演奏の実践を重ねる。80年「DAAD給費留学生」として西独フライブルク大学へ留学、82年帰国。音楽評論家としてバロック音楽を専門に健筆をふるうかたわら、栃木「蔵の街」音楽祭の音楽総合プロデューサーを務める。数多くの大学の講師としてバロック音楽・音楽学で後進の指導にあたり、学問から実践まで幅広く深い造詣をもつユニークな音楽学者として活躍している。現在、北海道教育大学旭川校助教授。
(市川信一郎氏は2013年10月19日に逝去しました。「市川信一郎氏を悼む」のページをご覧ください)