KATE結成までの物語
〜第二回〜

(1997年10月5日)

「YMOというものの存在」

 クラスの雰囲気も幾分和らいできた頃、かんちゃんとは結構話すようになってきた。
そんなある日。かんちゃんが授業中に使っている下敷きが、少し変わっているのに気
が付いて、「ちょっとそれ、見せて。」「ん?これか?」かんちゃんは平静を装いな
がらも内心「来た、来た!」という感じで見せてくれた。透明なファイリングタイプ
の下敷きで、中になにやら手書きの書類が入っていた。それはお手製のYMOのディス
コグラフィーだった!雑誌に掲載されていたYMOのアルバムジャケットの写真を切り
抜き、厚紙に貼り付け、そこに収録曲目(しかも英語で)がビッシリ書き込んであっ
た。裏を見ると大きく「Yellow Magic Orchestra」とあり、これまた雑誌の切り抜
きでメンバーの顔写真が貼り付けられていた。「何、これ?」「YMO。」「???」
私はこの当時、YMOの存在を全く知らなかったのである。ちょうど「ライディーン」
や「テクノポリス」が大ヒットした後、反則技とも言える問題作「BGM」を発表した
頃である。ザ・ぼんちや松田聖子、ラジオの歌謡曲番組などをなんとな〜く聞いてい
た私には、YMOというものに触れることがなかったし、「ライディーン」や「テクノ
ポリス」という曲の存在さえも知らなかった。嗚呼、なんたる無知。まさにかんちゃ
んの下敷きは私にとって、人生最大のカルチャーショックだった…。自分の知らない
世界がそこにはあった。「オーケストラなのに、何で3人なんだろう…。」そんな疑
問を持ちつつ、少しずつYMOにのめり込んでいくことになった。

 通っていた小学校では冬の時期になると「スケート学習」というものがあり、体育
の授業の一環として、スケートが取り入れられているのである。今から思えば、すぐ
近くに伊吹山があるので、スキーでもよかったと思うのだが、誰も文句を言う者はな
く、きっと厳格な管理体制が敷かれていた学校だったのだろう。1年生は6年生に、2
年生は5年生に滑り方等を教えてもらうという感じの内容。5年生だった私は2年生の
ガキ(自分もガキだが)の滑りの練習に付きあっていた。そのスケート場でなにやら
変なBGMが流れ出した。「ケイサツだ!開けろ〜!」「だ、誰〜?」なんだこれは?
ラジオドラマか何かか?「オ〜イ、これYMOだぞ〜」かんちゃんがこっちに向かって、
滑りながら叫んでいる。「今かかってるのなあ、YMOのアルバムに入っているギャグ
なんやて!」「こんなのがYMOなの?」「そうそう、増殖っていうアルバムに入って
る。」「ふ〜〜ん」ますますYMOっていうものに興味がわいてきた。それにしても、
かわいい手袋をして2年生に指導しているひろみちゃんの姿は、“ほんとうにもう〜、
大変なんスから”状態にキュートだった。

(つづく)

←第一回へ  第三回へ→