ESTUDIO TRIANA 〒164-0002東京都中野区上高田5-45-9地下/TEL&FAX:03-3319-7998
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1990年7月号  「Shin Ro」   1997年2月15日号 「週刊現代」
 
1990年7月 Shin Ro 高校生の進路 『万能、自在な女性の進路 -仕事にかける「挑戦」と「情熱」の数々-』
フラメンコに向かってひたすらに白い疾走を続ける
  心と体をぶつけられるものをクラッシックバレエにもとめて
 明朗ではつらつと、青春の自信にみちていた、と傍目には見えたかもしれない。当時の小石川高校は、
 東大合格率を誇る受験名門校だった。「でもネ、色で言うと灰色でした。内心はいつも不安で、
 満たされていなくて・・・」自分をささえる力強いもの、たとえ未熟でもそれに向かって心と体を
 ぶつけてゆけるものがなかったせいだろう、と岩崎さんは言う。
 クラッシックバレエを始めたのも、手がかりを求める、1つの試みであった。
 中学の頃、来日したソ連のバレエ団の公演を観にいったことがある。
 「この世にこんな素晴らしい仕事があるのかしら」と走]で胸の痛くなるような思いをした。
  その記憶の残像がどこかに跡をとどめていたのかも知れない。
  趣味で始めたことだったし、それが将来につながるなんて夢にも思ってはいなかったが、育ち盛りの体に加えられる
  厳しい訓練は、心の屈託を弾きとばして、高校生活のさわやかな彩りとなった。70年安保で学園闘争の華やかだった
  大学時代も、卒業して小さな画廊に勤め始めた時もバレエはずっと続けていた。熊谷守一さんの絵に打ち込んで、
  女手1つで画商の道をひたすら歩んできたという、オーナーの向井寿枝さんの気迫のこもった生き方には、傍らに居て、
  はっと思わせられることが度々だった。「言葉でいうと、薄っぺらになってしまうんだけど、何か1つに的をしぼって生きる、
  ストイックさ、ひたすら愛することが、じいんと伝わってきて」単純でエネルギーにあふれた熊谷守一さんの絵を見る度に
  生きる勇気を授けられるようで、本当に質の高い、いい職場だった、と思わずにはいられない。
  向井さんのように、私にも何か自分を賭けて悔いのないものがあるはずだ、という想いが岩崎さんの内部にめばえ始めた。
  自分を賭けるものがきっとある、それが"スペイン行"からはじまった
   フラメンコにめぐり逢ったのは、それから幾年も後のことだった。勤めも辞め、3つ年下のデザイナーと結婚、
   主婦兼秘書の生活にふりまわされている最中に、この運命的なめぐり逢いは全く不意にやって来たのだ。街角でふと目についた
   1枚の広告がきっかけ、訪れたフラメンコ教室で、リズムを自分で叩き出せるこの踊りに得難い魅力を覚えて週の大半を
    レッスンにのめり込む。趣味がこうじて、ほどの軽い気持ちで、デザイナーの彼に許しをもらいスペインに飛んだのは
   1979年3月。だが、このスペイン行は結果として、岩崎さんの人生を180度転回させてしまうことになった。
   スペインへ着いて、半年間は自分でも思いがけない開放感におそわれ、躁状態が続いたという。
   本物のフラメンコに向けてひたすらな”白い疾走”が始まった。スペインのモンタンといわれるパコ・フェルナンデス、
    野性と知性を合わせ持ち、命のはじけるような踊りを見せたエルグイート、受け身の姿勢に徹して表現する
   カルメン・モーラ、きら星のような大先輩のエネルギーを魅力をむさぼることで時を忘れた。学んでも学んでも
   学びたりない。”自分で賭けて悔いのない”ものにようやくぶつかった喜びの前には
   恐れる何物もなかった。1年後、岩崎さんは離婚を決心する。
   スペインの下町の”サンタマリア”通りに3世帯同居の下宿生活を営んで、見も心もスペインに溶け込んでいった。
   人生にきらめく愛や夢、希望や絶望、悲しみ、幸福・・・思いのたけをほとばしらせて乱舞するフラメンコ。
   人間そのもののような踊りを学びながら、幾つかの激しい恋も経験した。本場の舞台も踏み、プロとしての自覚も
   定まった頃、はじめて日本の土を踏む。5年9ヶ月の年月が流れていた。
   フラメンコ専用のスタジオ「トゥリアーナ」をもったのはごく最近である。弟子たちを教えながら、生涯、舞台の表現に
   献身しようと思う。品性の自らから滲みでるようなフラメンコに到達できたら・・・何かをなすためにはあまりにも
    短すぎる人生である。だからこそ岩崎さんは時を惜しんで白い疾走を続けるのだろう。
   「もっと、もっと本物になりたい」という彼女の願いの激しさを象徴するような、カスタネット、拍手、靴音の嵐が
   今日も「トゥリアーナ」を包む。
1997年2月15日号 「週刊現代」とっておきの一枚 第63回      文/岩崎恭子
間違えて開けたドアから、約20年の交流が始まった
   映画「カルメン」の中に、アントニオ・ガデスがカルメン役のダンサーを探すためマドリードのフラメンコ・スタジオを
    訪れるシーンがある。「マリアのクラスは何年から?」「夕方の5時、2番の部屋よ」と受付でこんなやりとりをする。
   最近この映画のビデオを観ていて驚き、そして思わず笑ってしまった。79年春、見知らぬ地マドリードで、初めて私が
   このスタジオへ行った時も受付で同じような会話をしたからである。映画に出てくるカスタネットのレッスン風景は、
   20年以上も前からマリア先生が開いている、フラメンコ・スタジオに実在するクラスなのである。
   私がスタジオの受付を訪れた時、「マリアのクラスの時間と場所を教えて下さい」と尋ねると、「夕方の5時、11番」よ
    答えたのも映画の中と同じ女性だ(しかし本当は、その日から2番の部屋に変わっていたのだったが)。
   何も知らず私は11番のドアをノックし、中へ入った。そこはマリア先生のクラスではなく、40歳ぐらいの男性がいて驚いた。
   「すみません。間違えました」という言葉を一瞬のうちにのみこんで、ここに来たくて来ましたという顔で先生に挨拶すると、
   見学することを了解してくれた。そこは、パコ・フェルナンデスのクラスだったのである。彼はこの頃設立された
   スペイン国立舞踊団で、総監督のアントニオ・ガデスに振付師として招かれたほど著名なフラメンコの先生だった。
   私は間違えたことの幸運を喜びながら、レッスンが始まるのを待った。スペインで最初に見たフラメンコ。
   それは荒々しい存在感が、しなやかに動きの中に溶けて行く踊り、鮮やかで瑞々しく美しい踊りだった。
   その時から、20年近く続く私とパコ・フェルナンデスの交流が始まった。私は85年暮れに帰国し、7年後リサイタルの
   芸術監督を彼に頼んだ。承諾したくれた彼は1ヶ月間東京に滞在し、公演のために奮闘してくれた。
   また96年1月、私の帰国10周年記念としてエル・グイト公演を開催した時も、パコ・デルナンデスが協力してくれた。
   フラメンコの至芸といわれる天才ダンサー、エル・グイトの来日もパコとの信頼関係なしでは実現しなかったと思う。
    今は彼への感謝の気持ちでいっぱいだ。
1998年4月 マイレッスン より
 
人生のあらゆる感情を踊りで表現する
フロアに響く靴音。先生の歌声で踊る。
芸術性と庶民性。力強さとデリカシー。存在感と軽やかさ。一見相反する
ように見えるものを同時に抱え込んでいるところがフラメンコの奥深さ。
中野にある「ESTUDIO TRIANA」では、その魅力に引き込まれた
生徒さんたちが、先生の歌声に合わせて踊っていた。岩崎先生はいう。
「私の役目は、肥料と太陽をあげること。花を咲かせるのは生徒自身の力。
中・上級とクラスが上がる程、いろいろな個性に出会えて楽しいです」
 
 

 

1997年5月 ケイコとマナブ より
 
キリッとした姿勢と脚の動きがポイント!
 日本だけだはなく、世界的ブームのフラメンコ。スペイン・アンダルシア地方のジプシーが
 踊っていたダンスが起源。そのキリッとした美しさ、きっぷのよさと舞踊性の高さが魅力だ。
 手拍子やギターに合わせて踊るフラメンコはリズムがすべて。ピンと伸びた背筋と
 すわった腰から、安定したステップが生れる。また年齢に関係なく、誰でも踊れるのも特徴。
 スペインではおばちゃんも踊ってる!
 
   
(1)背筋をピント伸ばし膝を (2)振り上げた足の裏側で床を (3)2の状態から、そのまま
 軽く曲げ腰をすわらせる。  強くたたき音を出す。足の裏の  踵で床をたたき、音を
 この姿勢のまま片足の膝の  指のつけ根の下の肉でたたく  鳴らす。これが「タコン」。
 皿を床に向けるように後ろに  ようにするのがコツ。  この2ステップだけでも
 振り上げる。  これが「プランタ」  フラメンコは踊れる。