R&R Fragments
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自爆シリーズD
第15回 |
Re: ' Captain Nemo ' |
From: mack |
Dated: '01/07/17 |
それは高2の冬(3学期)のことだった。
僕が放りこまれていたのが 進学校であった為、
最上級である3年生達が受験のために寮を出ると自動的に我々2年生が
(今まで彼らが使っていた)個室寮をあてがわれ、何か重苦しい雰囲気さえ残る、
その寮棟に移住した
ところで、我々の学年は、その(規律に厳しい)学校の教師達から
「歴代最悪」と言われていた。
まぁ、色々と好ましくないところがあったんだろう(笑)
そんな輩共が個室に入居したのだ。
今まで以上に好ましくないことが起きたのは自然の摂理だった。
(好ましくないことの実例)
・●△寮喫煙部が発足し、見事なチームワークのもと、張り番をたてて部活動(笑)を行った。
脂っこいものを食べたあとの一服は旨い、というのが合言葉となり、
昼飯にトンカツが出たときなどは寮の裏庭から、あたかもインディアンの狼煙のように
紫煙がたなびくのだった。
・毎週土曜日の夜には、寮の一室で盛大な飲み会が行われた。
我々のクラスの約半数が出席していた。
はじめは(殆どのものが)見栄と勢いだけで飲んでいたが、
そのうちに(自室には炊事設備はないので)アルコールランプで熱燗をつけ、
湯豆腐をつつくような剛の者もあらわれた。
・この飲み会の買出しの為に、陸上部の某はマラソンと称して、毎週アルコールを運搬
していた。
舎監の先生の目を誤魔化し、レッドやらブラックニッカを運ぶその姿は、
まるでベトナム戦争時に共産ゲリラの集中砲火をくぐりぬけ前線に食料を運ぶ
米軍補給機のようだった。
・それでも酒が足りないときには、メチルアルコール(写真現像用に持ってる奴がいた)
の水割り、という恐ろしいものをも、飲んだ。が、流石にこれはあまり普及しなかった(笑)
・ブ●ン遊びが流行し、金曜の夜には「ハイ」になる奴が続出した。
高揚した気分で、舎監の窓の下を匍匐前進する、という遊びが流行った。
・修学旅行先がシンガポールである高校も高校だが、
それを幸いとラッフルズホテルまで出かけてシンガポールスリングを飲んでしまう
生徒も生徒だと思う。
・気にいらない、という理由である雪の日、非力な英語教師に向かって
クラス全員で雪合戦を仕掛け、圧倒的多数でもって勝利をおさめた
(当たり前だ)末に、30男を泣かせた。
まぁ、泣くほうもどうかとは思うが・・・。
・目つきが悪い、という理由で(まぁ確かにイヤな奴ではあった、それは認めよう)
ある男をクラス中でリンチし、その男は「転校」していった。
・当然、悪事は露呈し、停学処分になるものも出てくる。
が、A組のベビーフェイスで真面目を絵に描いたようなカズ●ミが飲酒で
停学処分になったときには流石の校長も「まずい」と思ったらしく、
彼を寮の一室に「軟禁」し事件そのものを無かったことにした。
ま、きりが無いのでこのくらいにしておこう・・・。
そんな騒々しいところに暮らしていながら僕は退屈していた。
この学校に入ったばかりの頃はそれなりに勉強にも精を出し、将来に対する展望などを
膨らませていたのだが、段々と生来の飽きっぽさからそれも馬鹿らしいように思えてきた。
かといって、寮の連中と馬鹿騒ぎするのも、最初の何回かは楽しかったが段々と飽きてきた。
そんななかで僕が情熱を燃やしていたことが3つあった。
一つ目、ラジオの深夜放送
寮ではテレビはロビーにしかないし、それも消灯時間と一緒に消されてしまう。小型のテレビを
持ちこむ奴もいるにはいたが、むしろ娯楽の王様はラジオだった。
外界との唯一の扉である。その当時はオールナイトニッポン1部(の途中まで)を聴くのが
精一杯だったが、それでも充分に刺激的だった。「今夜は今夜しかないのさッ!白井貴子のオールナイトニッポン!」このセリフに何回胸を震わせたことだろう・・・。よくニッポン放送のスタジオ銀河では、番組枠でのライブが繰り広げられそれを眠い目をこすりこすり聴いていたものだ。
二つ目、ギター
最初のギター(トーカイのストラト)にハードロックギタリスト(笑)としては満足できなかった僕は両親を騙して(思えば、息子を過酷な環境に放り込んでいるというちょっとした負い目もあったのかもしれない。手紙を何通か書くと比較的簡単に金を出してくれた)今度はグレコのレスポール(!)を手に入れた。
その頃は実は、ピップエレキバンド(ああ、恥ずかしい)は、来年受験だしバンドはやめとこう、という今にして思えばちゃんちゃら可笑しいわい、という理由で活動を休止しており、
たまに伊藤ちゃんやこーしんと遊びで音を出すくらいだったが、
そのサンバーストのボディを抱いて、空弾きしてるだけでも僕はいい気分になれた。
時は'80年代後半、ヘビメタの嵐が世の中を席捲していたころであり、
愛読誌をミュージックライフからプレイヤーやギターマガジンに変えた僕は、
いよいよその知識偏重に拍車をかけていくのであった。
三つ目、エ●本
余り多くを語りたくはないのだが、当時、純情な高校生でも割と抵抗なく買えるブツとして、
「映画の友」という、穏やかなタイトルの雑誌があった。
表紙も、あれどこかで見たことのあるお姉さんだなぁ、と思っていると実はその雑誌は
にっかつロマンポルノの専門誌で、そのお姉さんは駅裏のピンク映画館のポスターで見かけた畑中葉子なのであった。
ワタシの若き血潮を燃えたぎらせたお姉さま達、小森みちこ・浅見美那・小田かおる・高倉美貴…。嗚呼、特に浅見美那の看護婦モノは本当に良かった。あの口元の黒子がまたいいんです。あの端正な横顔がね、段々とこう苦痛に耐えるように、でもその(以下強制削除)
・・・・・
というわけで割と無為な毎日を過ごしていた僕だったが、音楽はずっと聴いていた。
Deep Purple、Rainbow、Michael Schenker Group、Led Zeppelin、Jeff Beck、Free などなど。
要するに
a.外タレで b. ギターヒーローが居て c. ちょっと古めで正統派(笑)
という条件にひっかかるものをねっとりと聴いていた。
特に好きだったのが、マイケルシェンカーだった。
# ゲイリームーアは職人肌というところは気にいったのだが、
顔がどうしても好きになれなかった(笑)
ドイツ人、というところも何かしら自分のなかの判官贔屓なところにうまくはまったのかもしれない。
あの、クラシカルな泣きのフレーズ、そしてハードなリフに僕はヤラレっぱなしであった。
アル中で、性格破綻しているところもなんか「あぶさん」みたいで格好イイ、と思った ( いや、あぶさんは人格者ですけど、ね > 水島先生 )。
とは言っても、性格的に耐えることを知らず練習が嫌いな僕はマイケルの楽譜を一冊買っては見たものの、' Armed And Ready 'のリフを弾けただけで満足して、またアドリブプレイに没頭するのであった。そんなとき部屋の姿見に自分の立ち姿を映すと、レスポールを持った僕は、すごくハードロッカー!だった。フライングVを手にする前にはレスポールを弾いていた、というマイケルの若き日の姿を自分に重ね合わせていたのだ。 < 馬鹿だねぇ、本当に・・・
が、高3の夏に、その年の余りの暑さに耐えかねてスポーツ刈りにした僕は、
Captain Nemo というより、ちばあきおのキャプテンのような外観になり
しばらくの間、ギターを弾く気を失うのだった。
(大学編につづく、か?)