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ちなみに、DEATH FROM ABOVE 1979では、作曲はどのようにして行なわれるのでしょうか?

Sebastien:基本的にはジェシーがベース・ラインと曲全体のだいたいのアイディアを作って、それを一緒にプレイしてみるところから始まる。アレンジは大体いつもすんなりと出来上がるね。その時にヴォーカル・パートができる時もあれば、後から付けられる時もある。このアルバムに関しては、レコーディングがほぼ終わった後にヴォーカルが付けられた曲がほとんどだね。ジェシーがリフを思い付いて、それに合わせて自分達のアイディアを話し合いながら練習して、ヴォーカルの基本的なメロディやリズムを作って、その後、曲を完成させるという感じだよ。

わかりました。ところで、バンド名をDEATH FROM ABOVEと決めた後に、ニューヨークのプロデューサー・チーム=DFAからクレームが入ったために名前に1979をつけるようにしたという逸話がありますよね。この時の簡単な事実経過を教えてください。

Jesse:最初の3年間は何も言ってこなかったんだ。つまり、それなりに知られるようになるまで、彼らにとって俺達はどうでもいい存在だったんだけど、「DEATH FROM ABOVE」とインターネットで検索した時に俺達のことがよく出てくるようになって、それでだんだん心配になってきたんだろうな。実は彼らもレーベル名を商標登録していたわけじゃないんだよ。俺達も自分達のバンド名を登録なんかしなくてもいいと思っていた。でも、俺達がアメリカのAtlantic Recordsと契約しようとしていた時に、連中が商標登録の手続きを始めたとかで、それに関する通知書を俺達に送ってきたんだよ。その時点ではまだ登録は済んでなかったし、俺達も彼らと同じくらい存在してきて活動実績もあったし、それに先方はDEATH FROM ABOVEではなくDFAと表記してたわけで、たとえ裁判になっても俺達が勝つ確率も高かったから、法廷まで持っていってもよかったんだよね。実際のところ、今でもDFAはまだ商標登録されていないと思うな。でも、長い期間をかけて闘うことになると、こちらの活動に支障が出てしまいかねなかったから、裁判は起こさないで名前に1979をつけたのさ。まあ、その事件のおかげでインタビューされる機会も増えたわけだから、俺達にとってはプラスに働いたし、それなりに価値あることだったと思いたいな。

Sebastien:やっぱり当時は、フラストレーションを感じてイライラしたよ。あんな経験をしなくちゃならないのは不快だった。彼らの成功を利用していると思われたこともイヤだったね。俺達は自分自身の力だけで全てをやっていたのにさ。彼らのやっていることなんて少しも興味なかったから、彼らに憧れていたわけでもないし、たまたま名前に関する同じアイディアが、ほとんど同時期に2組の間で思いつかれたってだけの話なんだ。それを彼らが大騒ぎしたってわけ。でも、もう終わったことさ。

新たに付け加えられた1979という数字については、セバスチャンが「1979は俺が生まれた年/1979は『OFF THE WALL』の年/1979は『PLEASURE PRINCIPLE』の年/1979は最後のクールな10年間の最後の年/1979と俺の腕には刻まれている/1979と俺の腕には刻まれている/1979と俺のファッキンな腕には刻まれている」という文章を書いていますが、この年号に対して思い入れる理由をもう少し詳しく教えてください。本当に1979と腕に入れ墨を入れているのですか?

Sebastien:ああ、ウソじゃないよ(と言って、左腕の肘下内側に入っている入れ墨を見せる)。70年代は音楽にとって本当にエキサイティングで重要な時代だったと思う。様々なことが起こり始めた時代だったしね。その時にあった感性(美学)が80年代になって変わっていってしまった。プロダクションの価値とかが変わり始めたんだ。だから、1979年は2つの重要な音楽の変化の発端を示す年を象徴している。アナログのナチュラルなレコーディング方法からエレクトロニック・レコーディングに変わっていった年も象徴しているし、興味深いレコードが何枚もリリースされた年でもあるんだよ。

「クールな10年の最後の年」とも書いていますが、「自分達がクールな時代を取り戻す」という意識はあったりするのでしょうか?

Sebastien:そこまでシリアスな意図はないよ。ただバンド名の最後に何か付ける言葉を捜していて、1979と付けることでバンド名に関する問題にケリを付けただけさ。No.2と付けるよりもマシだからね。

Jesse:1979という数字は、俺達のサウンドが当時のようだということを語っていて、このバンドや、このバンドの音楽が矛先を向けている年なんだ。79年はTHE DAMNEDみたいな素晴らしいパンク・バンドのアルバムがリリースされていた年でもあるし、ラップが流行り始めた年でもある。SUGARHILL GANGが出てきた年だし、KRAFTWERKの驚くほど素晴らしいアルバムもあったし、パンク・ロックもあれば、LED ZEPPELINもまだツアーをやっていた。

Sebastien:とんでもない衣装を着てね(笑)。

Jesse:ああ。それにテクノが創り出されたし、ラップもNYで創り出された。グラフィティ・アートもとんでもないことになっていたよね。当時は、ベトナム戦争が終わって冷戦時代に突入して、世の中、色々なことが移り変わっていったし、凄く興味深い年だよね。若い子達と話していて気付いたんだけど、79年っていうのは俺が学校に通い始めた年で、あの頃に幼少時代を過ごすというのは凄くおかしなことなんだ。俺は子供の頃RICK JAMESが大好きで、カウボーイのような格好をしていた。そういったことが許されていた時代だったんだよ。俺のお袋はネイティヴ・アメリカンのような格好をしていたし、クレイジーな時代だね。少なくとも北アメリカでは、自分達の両親全員がとんでもない格好をしていた。79年は本当に、音楽に関しても興味深い年だったし、社会的な事象がバンドや世の中や音楽シーンに大きな影響を与えていた。DEVOとかが出てきたり、とんでもなく素晴らしいことが起こっていたんだ。今みんながやっていることはレトロ・スタイルだよ。ヴィンテージのようなものを作っていて、新しくやっていることもヴィンテージのようだ。まるで俺達の両親と同じような格好をしてる。特に新しいことをやっているわけじゃなくて、今の俺達の文化はレトロなことに虜になっている文化だね。それって当時いかに色んなことが起こっていたかを象徴していると思う。今ではヒップ・ホップにブレイク・ダンスが付き物ではなくなってしまったけども、ヒップ・ホップは生きている。……実は(ロンドンに来る)飛行機の中で、こういった質問に対してどう答えようかとずっと考えていたんだよ。

確かにそういった素晴らしい音楽があった年だったわけですが、特にゲイリー・ニューマンとマイケル・ジャクソンのアルバムをピックアップした理由は何なのでしょう?

Sebastien:このバンドを始めた頃、俺達は一緒に住んでいて、音楽の好みも似たようなものになっていてね。だから、これらのアルバムを選択したのは俺だけど、同時にジェシーのレコード・コレクションの中にあったものなんだ。いつもこの2枚のどちらかを聴いていたし、いつでも俺のターンテーブルに乗っているアルバムが5〜6枚あって、その中でこの2つが1979年リリースのものだったんで選んだのさ。

Jesse:俺はこの2枚のアルバムを何枚も持っていたんだよ(笑)。

Sebastien:他にも何枚もアルバムを聴いてたけど、その中の多くが1979年にリリースされたものだったんだ。そういったものに惹かれていたっていうのは興味深いし、それが俺の生まれた年だったっていうのも面白いと思ってね。

あなた方の音楽には、単にワイルドなロックンロールだけでなく、ニューウェイヴの先鋭性や、ブラック・ミュージックのグルーヴ感といった要素も感じられるので、先述の2枚は非常に象徴的であるような気もしますが、こうした音楽性はどのようにして育まれてきたのですか?

Jesse:それは俺達の街のせいだね。俺達は、トロントという街や、そこに住んでいる人達の音楽テイストが反映されたバンドだと思う。俺はカントリー・ミュージックも好きだし……もちろん、その全てが好きなわけじゃなくて……例えばMERLE HAGGARDやJOHNNY CASHは好きだけどFAITH HILLは好きじゃない。俺達のバンドは俺達の街のサウンドであり、今の時代のコンテンポラリーな音楽に満足していないキッズが作っているサウンドでもある。もしかしたら、農場を持って、何人も子供を作って、動物を飼う、というような憧れが俺達の中にはあるのかもしれない。変なシーンだよな。俺達の街からこの何年間で変わったバンドが幾つも出てきているよ。

Sebastien:俺達がこういった音楽をやっているのは、俺達が聴いているものに影響されていて、今流行りの音楽は聴いていないからなんだと思うよ。

参考までに、オールタイムでも最近のでもいいので、それぞれのフェイヴァリット・アルバムを幾つか上げてもらえますか?

Sebastien:それは難しいな。そういった質問は、ミュージシャンよりも他の人達の方が上手く答えられると思う。俺は音楽ファンではあるけど、音楽をやっている側にいるから、こういった質問は純粋な音楽ファンに訊いた方がいいんじゃないかな。どうせ上手く答えられないよ。最近は、THE DILLINGER ESCAPE PLANのアルバムを買ったね。ラジオで彼らの曲がかかっていて、ジェシーがTHE DILLINGER ESCAPE PLANの曲だって教えてくれたんだ。ツアー中にそのアルバムをかけてたんだけど、聴いた人みんなが狂喜していたよ。凄くクレイジーで、凄くテクニカルで、凄く良かったからね。自分達も上手く演奏したいっていう刺激を受けたな。まあ、でも、そのアルバムが好きということじゃなくて、最近買ったアルバムの1枚ということであげたまでだからね。

Jesse:俺がちょっと頑張って答えてみようか。俺の大好きなハードコア・レコードは、ANTIOCH ARROWの『IN LOVE WITH JETTS』というアルバムだな。色んな人がコピーしている、凄く素晴らしい作品だよ。フェイヴァリットのロック・アルバムは、LED ZEPPELINの『LED ZEPPELIN III』か『HOUSES OF THE HOLY』で、どちらかは決め難い。どちらか選ぶのは不可能だね。ラップだとMOBB DEEPのセカンド・アルバム『THE INFAMOUS』で、ハウスだとDAFT PUNKの『DISCOVERY』が傑作だと思う。カントリーではJOHNNY CASHのSUN RECORDS COLLECTIONのアルバムか『AT FOLSOM PRISON』っていう作品で、これも2つとも重要なアルバムだ。

Sebastien:だから難しいって言ったんだよ。

Jesse:そうだな。こうやって名前をあげていったらキリがないな。

Sebastien:何枚もあげていく気なんておきないしさ。

Jesse:逆に、いつまでもしゃべっていられるな。だからこそ、俺の家には5枚だけじゃなくて2千枚くらいのアルバムがあるんだ(笑)。そのどれもが好きなんだ。

(笑)さて、セバスチャンの「自分達はアンスラックスともヤー・ヤー・ヤーズとも対バンできて、どちらの客にも受け入れてもらうことができる」というような発言を資料で読みましたが、自分達の音楽が持つノンジャンルな特質が逆に多くの人にアピールしえる武器に成りえると実感したのはいつ頃からですか?

Sebastien:初めから広いオーディエンスにウケると分かってたよ。俺達2人でやってみて何の問題もなく上手くいったし、俺がヴォーカルをとる2ピース・バンドとして大勢の人々に気に入ってもらえるはずだって、どういうわけか、すぐにそう思えたんだ。だから、初めはパンク・ロック・バンドやハードコア・バンドと一緒にライヴをやっていたけど、そういうバンドじゃなくて、もっと違ったタイプのバンドともやってみたいって常に感じていたね。そこだけにとどまっていたら、自分達で必要だと思っているだけのオーディエンスと接点が持てるような状況ではなかったから、(別ジャンルのバンドと対バンしていくことで)それまでとは違ったオーディエンスの中にも俺達自身のオーディエンスを見つけられると思ったんだ。現実に、同じ週にYEAH YEAH YEAHSとANTHRAXの前座をやったこともあるし、それ以来、色んなバンドのファンの前で演奏してきたよ。それが俺達の戦術だったんだ。真剣にこのバンドをやり始めてからは、できるだけ多くのバンドをサポートしたり、できるだけ多くのバンドと一緒にライヴをやるようにしてきた。オーディエンスを盗むというわけじゃなくてね。他のバンドと同じようなサウンドを作って、そのバンドのオーディエンスを自分達のファンにしてしまおうってことじゃあないわけだから。

Jesse:「このバンドが好きだったら、今度はこっちを聴こう」なんていう考えは、俺達の姿勢とは違うんだ。そういった方法って業界では結構とられていることかもしれないけどね。よく「君達のやっていることは凄く他とは違うよね。新しいことやっているよね」って言われるけど、常にそうでなきゃいけないと思ってる。ライヴで「それ、前にも見たことあるぜ!」なんて言われてちゃダメなんだよ。それじゃオーディエンスに金をムダにさせていることになるからね。そういうことが多くなってるから、みんな音楽をダウンロードするようになったんだ。バンドがつまらないアルバムを作ってるせいで、みんながアルバムを買わずにダウンロードしているんだよ。俺達はそういう傾向に対して変化をもたらそうとしているんだ。俺達はそういう退屈なバンドになる気はないし、ならないと思う。もしそんなことになってしまったら自分が満足できないし、このバンドは失敗したということになるわけだからさ。

では逆に、シーンの中で浮いているとか、居場所がないとか感じたりするようなことはなかったのでしょうか?

Sebastien:今年ほどではなくても、バンドが結成されてからはずっとツアーし続けてきたのに、なぜかトロントではあまりライヴをやってこなかったんだ。最初のショウはニューヨーク州ロングアイランドで、2回目はボストン。3回目になってやっとトロントでやって、次はバンクーバーだった。だから、トロントのミュージック・シーンに所属していると思ったことは一度もないんだよ。別にトロントのシーンが気に入らないとかそういうことじゃなくて、単に一度も関わったことがなかったっていうだけ。バンドを始めた頃はトロントの東側に住んでいたんだけど、地元の若いバンドはほとんど西に集まっていて、そこからは相当離れた東側に住んでいたから、他のバンドから孤立していたんだ。俺達のアルバムがリリースされても、みんなは俺達をバンクーバーのバンドだと思ってたみたいだよ。レーベルがバンクーバーのレーベルだったからね。俺達のバンドのサウンドが折衷的であるという意味ではトロントらしいと思うけど、トロントのバンドだと位置づけられると不思議な感じがするよ。

Jesse:トロントにはあまりいたことないし、他の場所で受け入れられるようになるまでトロントでも受け入れられていたわけじゃないしさ。あと、みんなの心の中で俺達の音楽に対する居場所があるかないかという意味で言うと、業界のプロデューサーとかは、すでにみんなの心の中にできあがっているスペースにハマる音楽を作ろうとするけれど、俺達のやっていることは他のバンドとは違うから、みんなの心の中に俺達を受け入れられる新しいスペースを作ろうとしているってわけ。キッズは既成の音楽に対して満足していない部分があって、これまでに聴いたことのないような違った音楽を受け入れたいと思っているはずだよ。そういった音楽に感銘を受けたり、驚きたいってね。だから俺達はそういうバンドにならなければならないし、成功するにはみんなの音楽に対するアイディアを変えていかなければならない。何がポップ・ソングで、何がダンス・ソングで、何がロック・ソングなのかという約束事が変わらなければ俺達は成功しない。こうやって日本から来た君がここに座って俺達にインタビューをしているというのは、今のところ成功していると言えると思うけど、俺達のことを知らない人はまだまだいるから、そういった人達を見つけて、彼らの中に俺達の音楽を受け入れるスペースを作らないといけないね。

Sebastien:この間までBILLY TALENTというカナダでは大人気のバンドとカナダ全国でソールド・アウト・ツアーをやったんだけど、彼らとツアーする前は19歳〜20歳以上のオーディエンスの前で演奏することがほとんどだったんだ。未成年は入れないバーとかで演奏していたからね。でも、そのツアーは全てソールド・アウトで、オーディエンスも初めてライヴでバンドを観るような若い子達ばかりで、彼らは若いが故に素直に受け入れてくれたよ。彼らは俺達みたいな音楽が普通だと思ったかもしれない。俺達はサポートだったから、彼らにしてみれば俺達が初めてライヴで観るロック・バンドで、彼らの記憶にずっととどめられることになるんじゃないかな。それって凄く感動的なことだね。

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