戦史によれば、昭和20年、東京の不幸な新年は零時05分、警戒警報の長いサイレ
ンの音で明けた。連合軍は圧倒的な兵力を展開し、直押しに日本本土に迫り、これを迎 え撃つべき艦隊は既に無かった。
1月25日頃だったと思う。朝、隊の先任伍長(下士官)に呼ばれた。朝早く何事だろう
と頸を傾けながら恐る恐る行ったところ「お前は1月13日付ヲモッテ次期普通科電気術 練生トシテ海軍工機学校ニ入校ヲ命ズ」との命令を達せられ「早速、明日呉行きの輸送 船が入港するので、今から直ちに準備に掛かれ」とのことであった。班に帰って班長に 報告し準備に掛かったが、自分一人だけの入校移動は、不安でならなかった。2ヶ月間 の短い期間ではあったが、希望なき毎日とはいえ、共に過ごした同僚との別れが淋しく てならなかった。基地を離れる時、各員夫々の勤務(作業)に就いているため見送る人 影はなし。只、白浜青松の美景のみに別れを告げて離港した。
海兵団に安着して、上司に申告に行ったところ「お前の着くのを待っていた」と先任の
伍長に云われ、何か急いでいる様子であった。つづいて「横須賀の入校者は、早くから 入校準備を終っている。お前はその者たちと同一列車で移動することになっているの で、明朝、速やかに主計科に行って、移動間の携行食(カタパン)を受領せよ」との達示 であった。翌早朝、朝食後主計科に行ったところ、伝票の手違いか、既に移動隊員の携 行食は出ていると云われ、反って、二重取りに来たのではないかととの疑いを掛けられ て、今にも殴られんばかりに叱られた。それで到頭携行食を貰うことが出来ず、口惜しい 涙の出るような思いをした。
29日呉を出発した。車中、自分が食事時になっても全然食事をせず、唯黙って坐って
いるのに、一緒の移動兵が不審に思ってのであろう、「君はさっきから見ていると、全然 何も食べていないようだが、携行食は持っていないのか」と尋ねた。主計科に行っての 経緯を話したところ「それは大変だったね」と云って、親切にカンパン1袋を呉れた。本当 に有難かった。横須賀駅に着くまで、その1袋のカンパンでなんとか(多量の水で膨らし ながら)空腹感を誤魔化しつつ行った。最終点の衣笠駅に着いたのが真夜中。この車中 で、学校の所在地が全く分からない不安感から、隣にいた若い工員風の人に学校に行く 道順を聞いたところ、「自分が案内しますから」と、自信ありげに云うので安心して、下車 と同時にその人に身を任せ、後に従って行くことにした。ところが、山道の細い道をどん どん山奥へと入っていくので、一寸不安になり、分かれ道のところで「この道は本当に学 校に行く道ですか」と聞いたところ「この道は近道です」と答え、そして西方のアンテナが 高く林立している方向を指差して「あそこの下です」と云った。その人は「私の家は、この 分かれ道から右方ですので」と云って分かれた。なんだか狐狸に騙されているような気 持ちだった。止む無くアンテナのある所に行ってみると、そこは海軍通信隊であった。通 信隊の人に聞くと、此処は学校とは全然方向違いであるとのことで愕然とした。わけを話 すと、通信隊員は同じ海軍故か、みんな親切な人達で「今夜は遅いから泊まって、明朝 早く衣笠駅に行けばよい。朝一番のバスは7時頃だから、今夜はゆっくりしていけ」と云 って餅を焼いて馳走してくれた。空きっ腹だったので頗る美味しかった。その晩は、心配 で心配でなかなか寝付けなかった。
翌朝、薄暗い内に起きて、通信隊の人達にお礼を述べて、昨夜来た道を、重たい背嚢
を担いで、更に重い足取りでテクテクと駅まで行った。歩く間、不思議と昨夜案内してくれ た若い人を憎む気持ちは起きなかった。それはその人の真剣な表情から嘘を感じなか ったからである。恐らく、軍は全ての施設を、防諜上の見地から隠していたために、若い 人も、通信隊を学校と思い込んでいたのだろう。駅には5時頃着いた。この年は例年に ない寒い年で駅の待合室には寒くて居れず、ストーブの有る職員室まで休ませて貰っ た。
朝が明けて、早くバス停に行ったが誰一人来ていない。昨夜の事もあり心配でならな
かった。そうして居るうちに、海軍の下士官連中が集まってきた。定刻7時前には、大勢 約20名の人達が来た。その待ち合い客達の話を聞いて、間違いなくこのバスは学校行 きであることを知り、ホッと胸を撫で下ろした。乗客は意外に少なく、一番前の窓際の席 を取ることができた。走行中は、過ぎ行く両側の田園は殆ど見らずに、唯々前方だけを 凝視して、早く学校が見えるのを期待した。
やがて、バスは峠の坂道にかかった。重いエンジンの音を響かせながら、ゆっくりした
速度で喘ぎながら登っていく。途中エンストで止まらなければよいがと心配したが、一度 も止まらずやっと峠の頂点に来た。ほっと一息したその時、前方一点の雲なき青き空間 に、一幅の山の絵がくっきりと浮かんでいた。それは今までに見たことのない富士山の 神々しい程に雄大にして、優美な姿であった。しばし我を忘れ茫然として、その日本一の 富士山の美容に見とれた。峠から下りになると鈍重なバスも、軽快なエンジンの音に変 り、速力も増して、一路学校へと急いだ。峠から学校バス停までは距離も短く感じられ、 なんだか、瞬く間に着いたような気がした。
学校衛門で、入校命令書を出し点検を受けて、自分の行くべき隊舎について聞いた。
手続きを済ませて、背嚢を担ぎ揚げ数歩行った時のことである。向こうから十数名の兵 が同じく背嚢を担いでこちらにやって来る。何処かで見たことの有る顔だなぁ〜と思った とき、向こうから「オイ!山口じゃないか」とニコニコ顔でやって来る。「ヨォー!花田じゃ ないか」と云って連れを見ると、呉基地で一緒だった第2次組であった。よく見ると、胸に 夫々菊水のマークを付けている。「そのマークは何だ」と尋ねたところ、特攻マークとのこ とであった。「山口、お前はこれから入校か」と聞くので「そうだ、電気科だ」と答えると、 皆んな羨ましそうな顔をしていた。ほんの一寸、同年兵との心からの楽しい会話であっ た。(それ以来、その特攻組とは逢っていないが、今だにあの連中はどうなったのだろう と思うことしばしばである。)
戦史では、この頃、帝国海軍は「本土決戦計画大網」を天皇に上奏し認可されていた。
また、連合軍は沖縄上陸計画を立てていた。
愈々入校式も終わり、これから特攻の電気術練習生として、学業に精進できることを
楽しみにしていた。期間は実質3ヶ月間(1/31〜5/31)の受講である。しかし、週を経 るに従って、学校での生活は勉学授業ではなく、本土決戦に備えるための訓練が主体で あった。つまり、地雷を戦車の下に投入する訓練、防空壕掘り、松根油採集のための伐 採作業等々であった。
4月にはいると、連合軍の沖縄上陸が開始されたためか、敵の本土への夜間空襲も
一段と激しさを増してきた。学校も空襲の度に、校舎が被爆した。連戦連敗とも思われる 戦況の悪化とともに学校の食事も日毎悪くなり、栄養失調から殆どの学生達は小爪が 無くなり、入室患者が多かった。また、石鹸等の不足から不衛生となり、多量のシラミが 発生した。このシラミ撲滅のため、各分隊毎に大浴場の浴槽で使用毛布を蒸気消毒した が効果は見られなかった。この時、シラミは不衛生にして栄養失調者のみに、多量発生 するものであることを、始めて知った。蝿などが本能的に臭いものに集まるその動態と 同じようである。
この様な学校生活であったので、学生達は早く卒業日の来るのを待ちわびた。季節も
知らぬ間に、何時しか4月の花を見ないままに過ぎた。待望久しかった卒業の日が5月 1日に決定し、夫々卒業生達に新しい配置が達せられた。なんの卒業でも嬉しいもので ある。それは、これからの不安以上に、前途に明るい希望を期待する思いが強いからで あろう。自分の新配置は、5月2日付をもって「呉海軍通信隊付ヲ命ズ」であった。どんな 所だろうと、古参兵長学生に聞いたところ、鎮守府内にある通信隊の支援隊であろうと のことであった。
卒業式(5/1)は午前中早く終わり、卒業生、教官等分隊全員の写真撮影があり、遠く
への転勤者は撮影終了早々に、任地に向かって慌ただしく出発した。自分は午後から の出発で、今度は入校時の単独移動の様な苦労も無く、佐世保への転勤者数名と共 に、楽しい列車移動であった。5月2日無事に懐かしの呉駅に着き、差し回しの隊のトラ ックに乗り、呉鎮守府通信隊に入隊した。命令書どおり、通信隊の支援業務隊であっ た。
その内容は、鎮守府内の電気管理、ボイラー、車両による輸送業務等々であり、特に
重要な任務は、通信隊を支援する大型ディーゼル発電機の機能維持管理であった。空 襲によって外部からの電力が遮断された場合、予備であるこの発電機に直ぐ切り替えら れて、鎮守府内の電気、及び、戦闘通信業務に支障を来たさないためのものであった。
7月頃の連合軍による呉地区空襲は、夜間であった。この最大の猛攻爆撃は、徹底し
た無差別爆撃であった。山に囲まれた呉市内は、明るい投下照明弾を中心に市は真昼 のような状態となり、その照明弾を指標として敵は、多量の爆弾を投下したのである。町 は殆どこの空襲によって消滅してしまった。後で町を見て、その惨状は眼を覆わんばか りであった。
自分達は、この夜、空襲警報が掛かると同時に、特別緊急配備に着き、試運転をして
万全の態勢にあった。当然の如く外部線が切れた。それからは班長以下6名必死になっ て、復旧までの2日間連続、電気・通信の支援業務を完全に全うしたのである。復旧した 翌日、自分にとっても思いもしない偶然の出来事があった。午後、電路の点検業務で通 信指揮所の地下通路を歩いていたところ、前を小谷班長らしき人の歩く後姿が眼に写っ た。(新兵教育隊時、自分を可愛がってくれた班長)しかし、まさかと思いつつ気になっ て、足早に近寄って見ると驚いたことに、まさしく小谷班長であった。
後から「小谷班長」と呼んだ。班長は、地下道の薄暗い電灯の光では、咄嗟に自分の
顔を確認することが出来なかったのであろう。怪訝な表情で暫くじっと見ていた。そこで 「新兵の時お世話になりました山口です」と云うと、大きな眼を更に大きくして「山口お前 は生きていたのか」との言葉が第一声であった。それから「良かった、良かった」と自分 を庇うようにして肩を叩き、心から喜んでくれた。(魚雷艇要員は特攻隊であり、既に前 線で戦死したとばかり思っていたのかもしれない)そして、一寸話しする時間があるかと 云われるので「はい」と答えて、自分達の屋外休憩所に案内した。暫く其所で、今までの 経緯を話したところ「そうだったのか、それは良かった」と、何度もうなずき無事を喜んで くれた。
話しが一段落したところで、班長が「山口お前に悪いことをした」と云われるので、何の
事か解せない顔をしていると「お前の彼女の写真を預かっている、帰ったら直ぐ送るよ」 本当に済まなかったと云われるので、自分は「否もうすっかり忘れていました」と云って、 笑ってその場を繕った。別れ際「お前の無事な姿を見て、本当に嬉しかった。身体に注 意して元気でやれよ」と云われた、その愛情のある言葉が身に沁みた。それから4日 後、写真が送ってきた時は”感無量”であった。
その後、敵の空襲は昼夜の別なく呉の上空を悠然たる編隊飛行で来襲し、投爆し続け
た。我が軍はそれに抗すべき砲もなく、敵の為すままの状態であった。この頃になると連 合艦隊の壊滅し、戦艦榛名などは、艦を動かすだけの燃料もなかったのであろう。江田 島湾内に偽装されて、投錨したまま動かぬ唯の舟となっていた。敵機がこの戦艦榛名を 見逃す筈がない。グラマン戦闘機が、この戦闘力のない戦艦めがけて、連日のように烈 しく急襲による急襲によって、沈座させてしまった。この急襲戦闘状況を眼の当りにした とき、我が国の敗戦間近なことを沁じみと感じ取った。
幸いなことには、我々の住んでいる隊舎は、連日の空襲なるも被害を受けずに済ん
だ。又、食べることに於いても不自由しなかった。それは機関科(ボイラーで蒸気あり)と 主計科は、同棲の中にあったからである。若い通信兵等は腹が減って、夜中こっそりと 自分達の所に夜食を貰いに来る者が多かった。自分も学校入校当時、栄養失調になっ たことを体験しているので、できるだけこっそりと与えていた。
ある晴れた朝(8/6)、何時ものとおり警戒警報が発せられたが、敵機は姿を見せず、
直ぐ解除になってほっとして青空を仰ぎ見ていた時、烈しい閃光とともに大爆発が広島 の方から起こった。全員が、今までにない異音響に吃驚して広島の方を見ると、キノコ状 の白雲が黙々と中天に昇っていた。皆が云うには、広島のガスタンクが爆発したのでは ないか、(原子爆弾などと知る由もない)否、ガスタンクであれば黒い煙が出るはずだ 等、色々と迷言、異論百出であった。
明けて8月7日、この原子爆弾で広島市街は全滅し、何十万の死傷者が出たことを聞
き、全員は言葉にならないほど愕然とした。そしてこの日の午後、この様な爆弾による人 間地獄絵図を現実に見ようとは、夢にも思わなかった。被爆者の一部の人達が、呉海軍 病院が満杯であったのか、鎮守府医務室に来隊した。その人達は、見るに耐えられない 形相であった。原爆火傷にあった人の顔というものは、地獄の釜から現世にもう一度生 きるために、やっと這い上がってきたような恐ろしい幽鬼、亡霊の姿を生々しく見せてい た。まさに今生の地獄絵図なり。続いて8月9日、長崎に同じ原子爆弾が投下されたこと を知り、戦争の悲惨さをこれほど身に深刻に感じたことはなかった。
それから一週間後の8月15日、「今日は重大放送があるので、全員営庭に整列せよ」
とのことであった。栄庭の訓示台には、1台のラジオが置いてあった。天皇陛下の玉音 放送は、唯ガアガアと雑音が多くて、よく聞き取れなかった。放送が済んで後、司令か ら、戦争がこれで終わったことを告げられたこの時ほど、ほっとして全身の力が抜けるの を感じたことはなかった。生死を掛けた緊張感から突然開放されてみると、唯呆然とし て、一時思考力を失い人間としての精気が全くなくなるものである。特に、家族を持って いる中年の将校や、下士官達のショックは大きく、敗戦後のこれから先の生活を考える と、ほっとする間もなく、前途真っ暗な心境であったであろう。
終戦になっても、軍としての規律は保たれていた。進駐軍の命令指示によるものか?
隊が保管している全ての武器弾薬などの兵器類を一箇所(軍需部)に集積する運搬作 業が迅速に始まった。作業は、統制ある規律のもと早期に終了した。その後は、復員す る準備であった。自分の隊長は小倉出身の浦橋中尉であった。その隊長が「山口君、君 は宮崎だったね」と云われた。「はいそうです」と答えたところ、「君は復員準備は出来て いるか」と問われたので「あとは退職金と貯金を受領するのみです」・・・。「よし俺がその 事はやってやる。明日25日、俺と一緒に帰ろう」と云われた。
8月25日。浦橋さんと一緒に呉駅から、多くの復員軍人達と共に列車に乗り込んだ。
列車は動くことの出来ない程鈴なりであった。小倉駅に着いたのが26日の昼頃だったと 思う。浦橋さんが「一緒に下車して俺の家に一泊していけ」と云われた。もし、この列車を 降りたら、次の列車に乗ることが出来ぬのではないかと不安になり、「このまま帰ります」 と云ったが、どうしても泊まっていけとのことで断ることができず、とうとう浦橋さん宅に一 泊お世話になった。明けて27日、朝早く起きてお礼を申し述べ、やっとのことで鈴なり列 車に飛び乗り、一路故郷福島に向かって帰路を急いだ。
列車が、福岡ー大分ー宮崎と故郷に近づくに従い、車窓に移り来る風景は、昭和17
年4月渡満して以来、3年半の年月が経っていたが、宮崎に入ってからの風景は、その 当時そのままに全然変わっていない感じで、一層の懐かしさを呼んだ。変ることのない 自然の風景の3年半に較べて、自分のこの3年半の人生は、自分なりに時の流れに生 死(運命)を委ねて過ごした、波乱万丈貴重な人生であった。我が家に帰着して、家族 共々無事に生きてこられた喜びを共に語らい、我が家の畳の上に、元気な顔を揃えて寝 ることのできる現実の幸福感は、人間としての最高の「生」の喜びであった。
小生現在62才の老齢にあるが、自分の生涯の中でこのたった3年半の人生は、貴重
な忘れることのできない思い出多き人生であった。時に軍隊生活1年3ヶ月に生死を掛 けた人生は、これからの人生に大いに役立つ糧となった。 (完)
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