< ひとこまの人生 >
(「我が履歴」 山口 功)

= 満州編 =

 小生只今満61歳。現在の健康な生活を考えて、しみじみと幸せだなぁ〜と思う。昭和
2年の世界恐慌不景気の嵐吹き荒ぶ時代に生を受けて61年間の過去を振り返って見
る時、神の加護でもあったのか、自然の流れの中に危険な道を選ばず、幸運な道を辿っ
てきているような気がしてならない。
 高等小学校を卒業するまでの少年期は、父の仕事が石工職人であり、その家庭生活
はすべて父の細腕一本にかかっていた。その頃の職人といえば戦時中でもあり、全てが
苦労多く利少なく、得る賃金で家族の生活を支えることは大変なことであった。
 母は、6人の多くの子育てと共に父の整形墓石を、年中夜業で職場に電灯を引いて磨
いていた。姉は学校から帰ると、母の家事手伝い(炊事、洗濯、弟妹の守)を否応なしに
強いられていた。
 小生は長男であり、親から常に「お前は長男だから」といって仕事の手伝い(石磨き)を
やらされていた。高等科になってから、偶に釣りに行く以外遊んで過ごしたことがなかっ
た。高等科になった当時は、なによりも健康に恵まれ、幼くも多い弟妹の長男としての自
覚というか、親や家族に心配かけないよう、また、家計が少しでも潤うよう、小さいながら
常に家族の幸せを思いつつ少年期を過ごしてきた。近所の人達から「功ちゃんは親孝行
だね」と何時も言われるのが幼い心に一番嬉しかった。
 高等学校を卒業し、社会に羽ばたく時が来た。昭和17年の春であった。歳14才。そ
の頃の日本は初戦の先勝の波に酔っていた。卒業生の若雛達には国策優先に沿って
の軍関係からの割り当てがあったのであろうか、一応それぞれに就職の希望をとったと
はいえ、軍関係に入ることを誉れとして先生達はその方面に進むことを奨励した。そして
過半数の卒業生徒は、即、陸海軍の少年兵として又、工廠関係の要員としてその当時
華々しく巣立っていった。自分としては、母が少年兵として行くことに反対していたので、
その方面に進めなかった。幼き長男を戦場に出したくなかったのであろう。軍関系には
進まない旨を先生に云ったところ、満州行きを奨められ母に相談したところ、快く賛成し
てくれた。しかし、大勢の同期生が軍関係に行き、残った私たち数十人の者は、遠い厳
寒の満州や支那の地に行くことに心淋しさを感じた。特に、軍関係に行く連中が、歓呼
の声に送られていく勇壮な姿に、羨ましさを感じ、本当に淋しい思いであった。
 人生初の門出の第一歩は、母の選択でなされた。自分は母に意に従って、桜花咲く春
四月、下関港から大連航路に乗船して黄海を渡り、船旅2日間で濛気に包まれた大連
埠頭に朝着岸した。下船と同時に、それぞれ行く先ごとに捌けられた。その捌け方は物
でも分けるような荒々しさであった。
 自分の行く先は『熊岳城』という南満の満鉄訓練所というところであった。引率者に連
れられて、羊頭の如き格好で埠頭を出た途端に、満州の寒気が肌を刺し震えた。汽車
に乗せられ同一箇所に行く我々同志の者は約100名ぐらいだったと思う。熊岳城に行く
列車の中では寒さと不安とで、窓越しに外の風景さえ見ることができず、囚人列車のよう
に皆萎縮していた。第一に標準語を話せない者達ばかりであった所為もある。
 目的地の駅に着いた。駅周辺は閑かな小村で、リンゴ等の果樹園で集落を隠してい
た。内心都会の地を希望していた自分はがっかりした。訓練所は、ごく駅から近くの集落
から離れたリンゴ樹園の中に、国旗を立ててそれらしい威容を示していた。しかし、土壁
作りの満人集落からちょっと離れた位置に隔離されたように建てられているためか、陸
の孤島のような感さえした。
 さて、ここでどのような教育訓練が実施されるのであろうか、皆な不安な落ち着かない
一夜を明かした。2〜3日身辺の整理や、施設案内などがあり、その後入所式が簡素に
行なわれた。所長の話では、ここでの教育訓練は満蒙を愛する開拓思想の教育と訓練
であるとのことであった。幼い14才のまだ頬の紅い少年である我々の不安な気持ちは、
軍国主義の厳しい訓練と鉄拳体罰があるのではないかと内心落ち着かない気持ちを解
消できず恐れていた。しかしその恐れは杞憂に過ぎなかった。教員達は選ばれた人格
者で、我々少年達を厳しい躾の中にも思いやりのある優しさを持って指導してくれた。教
育の精神的な面では、五族協和の中の「日本民族としての誇りを持ち、満蒙の土とな
れ」と云う、開拓精神啓蒙教育であった。訓練は”実際に大地に鍬うち、大地を耕す戦士
となれ”との基本思想から、毎日汗を流してのりんゴ園の耕作訓練であった。
 春から夏へと向かう頃には、ここでの生活にも慣れ、戦争のことも一時忘れたかのよう
な、のんびりとした農耕生活であった。戦争はこの時分、連戦連勝の時であったからで
あろうか、不思議と戦争についての講話はなかった。気候の良いリンゴの花咲く時期で、
甘い薫風が漂い、自分達の若い青春を謳歌してくれているような閑かな風景を醸してい
た。この花園にいる我を思う時、満州に来て本当によかったなぁ〜としみじみ思った。し
かしこんな訓練所の教育訓練も時の流れがゆるさず3ヶ月余りで終った。
 満鉄本社から、それぞれに転属地への配置辞令が口頭で言い渡された。自分の希望
地としては、内地に近く、気候温暖桜樹ある、海の見える良地良港の大連を希望してい
たが、願望叶わず奉天機関区配属となる。奉天といえば南満第一の都会であり、奉天
機関区といえば、南満鉄路の一番大きい重要な機関区とされていた。時、今だ14才の
暮れであった。熊岳城訓練所での本当に満州に来てよかったなぁ〜と思った甘い夢も、
奉天に来て青雲寮という隊舎に入った途端、身の引き締まる思いがした。今思えば、こ
の頃は戦局すでに我に利あらず、ミッドウェイ作戦は、戦勝から一転して敗北の道へと、
我が軍が転換された時期であったのであろう。しかし満州での昭和17年は、内地のよう
な激情的逼迫感はなかった。大陸的な気候風土によるのんびりとした満人達の風俗の
せいかもしれない。
 機関区配属となり、最初にどんな仕事をさせられるのか不安であった。新配置になった
我々数人は、教室らしき部屋に小雀のように小さくなり寄り添っていた。名前を呼ばれる
と緊張感から、全員同時に立ち上がり「ハイ」と大声で返事するのであった。14才の少
年達は純真であった。教場でしばらく待機させられている間、同僚とこれから先の不安な
事を話していると、数人の上役が入ってこられた。
 田中さんという方が、偉い機関区長から順次に運転主任、掃監と紹介された。我々に
今後直接関係ある人は掃監であると紹介され、古川さんという人であった。後で知ったこ
とであるが、この古川掃監は自分と同県人(宮崎市)の人だと聞き、同県人であれば良く
して貰えるだろうと甘い依頼心を持っていたところ、これは大きな誤算。偉ぶっていて、
常に厳しい上にやかましく、一片の優しい同県人としての情さえ示してくれなかった。戦
後引揚げて宮崎市内に住んでいることを知人から聞いたが、今だに会いに行く気になれ
ない。向こうも忘れて記憶すらないであろう。
 さて紹介が終って、田中さんが今後の教育日程を示された。先ず最初に機関区内の校
内見学である。それは機関車の車種を憶えると同時に、校内の重要箇所を早く会得する
ことであった。車庫に入っている機関車を側で見たときには吃驚した。最初に一番大き
いバシナ号からであった。このバシナ号は形の良い流線型をしていた。大連から新京ま
でのアジア号としての旅客列車用の機関車で、動輪の直径が1.8mもあり、我々が見
上げて手がやっと上部に届くほどであった。投炭は手によるスコップでは間に合わず、
機械によるエアー噴射式であり、側で見ると威圧されそうな感じを受けた。内地の機関
車と比較すれば、内地のは遊園地のオモチャのような感じである。そのほか、バシロ・バ
シン・バシハ号と多種ある。貨物機関車は、デカイ・カロイトという如何にも重量感のある
名称とともに、動輪が旅客機関車より多く着いていて、粘着力のある馬力を響かせる。
全く、満人の苦労を思わせる程の強靭な力強さである。このような機関車の種別、名称
及び特徴等の説明を受け、愈々本格的に翌日から一週間の予定で、田中講師による機
関車の構造機能、諸元等の学科教育が実地された。
 田中講師(機関士)は人格円満・温厚な方で、何時もニコニコと笑顔を絶やさずよく理
解するまで優しく教えてくれるので、生徒から尊敬され慕われた。今でも田中さんの優し
い笑顔が時々浮かんでくる。
 一週間の機関車の学科教育が終わり、愈々古川掃監の指揮の下(掌握下)入り最下
級の機手として仕事に着くのである。仕事の内容といえば単純作業で襤褸を持ってグリ
スや油で真っ黒くなって機関車の掃除をすることである。満人と一緒に組んでやるのであ
るが、日が立つにつれて嫌になってきた。毎日々暗い機関車の入庫ピットに入り、真っ
黒な顔をしての掃除は実に単調であった。ストレスが溜まり、時々不満感情が爆発し、
満人とよく取っ組み合いの喧嘩をしたものである。その度に掃監に呼びつけられ叱られ
た。
 昭和17年が暮れともなると、満州で初めての寒さが急に襲ってきた。宮崎から来た自
分には耐えられない程の酷寒に苦痛を感じた。このような掃除に明け暮れる機手の期
間が約3ヶ月ほど続いたであろうか、未だ15才の少年。耐えられないほどの初めての心
身の苦痛を味わうことによってホームシックにかかった。毎夜星空を見ては、この瞬く星
も宮崎の地から見えるであろうと、故郷の親や弟妹達のことを思いながら、悲しい涙を人
知れず流したものである。辞めて帰ろうかと何度思ったか知れない。しかし帰るにしても
旅費がないのである。諦めざるを得ない。悶々として過ごしたその時期に心の支えにな
ってくれる人があった。それは寮における同じ郷土出身の先輩達である。
 寮生活といえば、この頃はよく古い先輩達が軍隊式同様に後輩を挨拶態度が悪いとい
っては部屋に呼びつけて、鉄拳制裁を加えたものである。だが郷土の古参先輩に可愛
がられると、叩かれる寸前によくきて助けてくれたものである。このような尊敬する先輩
は、色々な悩みの人生相談にも乗ってくれる。
 特に心の助けになってくれた山崎さんという人がいたが、自分が辞めて帰ろうかと思っ
て相談した時など、真剣になって、我が弟にでも云って聞かせるように慰めてくれた。
 その先輩が云うには、「お前は人生に対する考え方が甘い。勿論、少年だから無理も
ないかと思うが、俺(19才)の苦労に較べれば小指の先ほどにもない。俺は幼くして両
親を亡くし親戚の人に育てられ、丁度お前の年頃にここへ来た。宮崎(門川)には帰りた
くても家は無し、兄は戦死し、肉親といへば今、奉天病院で看護婦をしている唯一人の
妹と二人きりである。実に淋しいものだ。この俺に較べ、お前は両親も健在、兄弟姉妹も
多くいて皆健在だし、故郷との文通もでき、なんと幸せ者か。辞めて帰るなんて、そんな
我儘な考えは捨てよ。俺みたいな孤独な人間もおることを頭に入れて頑張ってやれ」と
心底から説教してくれ、自分を慰めてくれた。このような尊敬する先輩には自分もまた心
底から尽くした。
 年も明けて昭和18年、機関車掃除の機手で明け暮れた苦しい期間も終わり、やっと
苦痛から開放されて、今度は運転室の伝令として勤めることになった。伝令といっても各
セクションの連絡員ではなく、昼夜の運行運転手に不測の事態が生じた場合(本人の急
病や、家族の不幸等)、代わりの予備運転士に出て貰うような時の連絡伝令である。
 当時は、今のように電話が普及しておらず自宅には殆ど取り付けられてはいなかっ
た。それで、人の徒歩または自転車の連絡手段によった。この伝令業務は街に出られ
るため比較的楽しい仕事ではあったが、厳寒−30°の夜の凍りつくような時など、鎌月
で身を切られるようなつらい思いをしたことがあった。この伝令は自分一人ではなく、もう
一人満人で日本語を上手に話す王さんという人と二人で勤務していた。大の仲良しで、
何度も家に遊びに来るように誘われたが、遂に行けなかった。今頃はどうしているのだ
ろうと時々あの頃の懐かしい王さんの顔を思い出す。伝令の仕事も2ヶ月で終った。
 この頃になると戦況の益々の悪化に伴い、若い多くの機関助手達が徴兵検査と同時
に出征していった。そのため機関助手及び助手心得(罐焚)の人員に不足を生じてき
た。自分達は、その不足人員の補充要員として簡単な試験を受けて、助手心得(見習)
として乗務することになった。この時は本当に嬉しかった。
 最初のうちは機関車に乗り、北は四平街、南は本渓湖、宮ノ原、営口、東は無順と毎
日変った風景が見られ変化のある楽しい乗務旅行ともいえた。大きな駅に朝停る時の
女学生通学列車の乗務は、格別楽しかった。駅舎構内に入る前に、運転士は蒸気のス
ロットルを徐々に絞り、スピードにブレーキを掛けながら減速して、静かな「シュッシュッ」
といった優しい息づかいで構内ホームに滑り込むのである。その前に我々は罐焚は、罐
への投炭を止めて煙を完全燃焼の白煙に変えて、女学生に嫌な黒煙をかけないように
気を配り、早朝の挨拶替わりに格好良く白手袋を振りながら、満面笑顔で入るのであ
る。それに女学生も答えて優しく手を振ってくれる。胸ほのぼのと楽しいひと時であった。
 特に北の四平街への乗務は長距離にため疲れもひどかったが、満州の真の姿を見る
ことに楽しみがあった。広漠たる雄大な自然の風景を眺めながら、限りなき広野に延び
る一直線の鉄路、遠くに消え果てゆく線路、この風景に見入っていると、自分が茫漠た
る自然の世界に没入していくような爽快な気分を味わうことができる。これがあるので北
への乗務は特に楽しみであった。人間は本能的に自然を愛し、自然と共に生きる動物で
ある。満鉄の社歌に次の一節があった。「見よ北斗の星のしるすが如く、広野、広野、万
里続ける広野」今だにこの一節だけは忘れることができない。
 夏の朝、暗いうち奉天駅を出発して、鉄嶺という平原の中の駅に着く頃に遥か東の地
平線の彼方から大きな太陽が徐々に曙光を照らしながら昇っていくこの朝景色の光の
鮮やかな清々しさは、例えようもない感動を呼ぶ。此の自然の美も、此の自然に密着し
て生を営む動物がいて、また一段とその美しさを高めるものである。平原の草原から草
原へと、数百頭の牛、数千頭の郡羊を馬に乗って鞭追いながら、悠々と移動していく遊
牧民の大地と共に生きる姿は、実に自然とマッチし、絵を見ているような美観である。戦
争のことなど全く頭に浮かんでこない。
 こうして満州の自然を満喫して時を過ごすうちに、昭和18年の中頃となり一人前の機
関助手となった。この頃になると少年乍ら仕事も慣れて、俺は一人前の仕事をしている
のだという責任と自覚に芽生える。そして給料の方も夜勤手当を含めると約15円位であ
った。食事代を差し引いても残金に余裕が幾分かでてきたので遊びたいのであるが、家
族の貧乏な生活を思うと、娯楽は偶に映画を観るだけに留め、少しでも家族の家計の足
しになればと毎月欠かさず送金したものである。送金した度ごと母からの手紙に「これで
助かる」といった細々とした感謝の気持ちが滲み出ていた。自分は、両親や幼い弟妹達
の喜ぶ姿を文中から思い浮かべ、孝行した喜びを一人胸のうちで味わいしたったもので
ある。
 この頃の戦局を我々は殆ど知らなかった。敗戦に次ぐ敗戦で、後で知ったことである
が、山本連合艦隊司令長官は既に4月の中旬頃南方洋上で戦死されていたのだった。
この太平洋戦での敗戦による悪化に伴い、満州の守りに就いていた精鋭関東軍の移動
行動が次第に活発になってきた。軍のこのような動きに伴い、満鉄社員は「総力結集」
の標語のもと、軍の人員、武器などの輸送業務が次第に厳しくなってきた。徴兵年齢は
引き下げられて、次から次へと若い機関助手達が出征して行くため、我々に与えられる
勤務も過重となり、命令調になってきた。
 青年学校には全員が入校して、軍事教練を受けなければならなくなった。関東軍の輸
送業務は益々激しくなってきた。軍事教練の受講は勿論のこと、神経を使う乗務の仕事
は過重であり、ゆっくり身体を休めて過ごす日々がなくなってきた。国の戦意昂揚意識が
益々強くなるに従って、心の余裕すらなくなり、本当に満州に来てよかったなぁ〜と思っ
たあの頃の満州の風景も心の荒びと共に、つまらない色褪せた景色にしか心に写らなく
なってきた。人間は戦争の無い心の平和な生活の営みにおいてのみ、風景もまた美しく
心に投影するものである。
 年が明けて昭和19年満16才、この地に居れば何れ関東軍の陸兵として入隊しなけ
ればならない。陸軍に入るのは嫌だった。父が海軍出身故か、どうせ入るなら海軍の予
科練(飛行兵)として志願書を出そうと思っていた。
 その時がきた。友達とともに奉天の領事館に志願書を貰いに行って母親に相談するこ
となく、自分の選択において願書を提出した。【第一希望飛行兵・第二希望機関兵】
 飛行兵の1次学科試験が1月旅順の海軍水交社に於いて実施され1次は合格した。2
次の適性検査及び身体検査は南朝鮮の鎮海海軍航空隊で、春3月の桜の花の咲く頃
実施された、身体検査(レントゲン)の結果、胸部に陰影ありの診断で不合格となった。
それで第二希望の機関兵として採用されて、昭和19年5月25日大竹海兵団に入隊す
ることになり、自分の満州生活は2年2ヶ月でピリオドを打ったのである。        


(軍隊編)




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