昭和19年4月。機関兵として、広島県大竹海兵団に入隊すべしの赤紙を受けとった。
入団日は5月25日であった。入団日までの約1ヶ月間は、仕事の面でも、精神的な面で も、会社としては過重な仕事を与えず、ゆったりとした日々を過ごさせて呉れた。どうせ 兵隊として軍隊に入ったならば「死」有るのみの戦況であったからであろう。上司として同 情の意があったのかも知れない。自分自身も、入隊前のこの1ヶ月を出来るだけ楽しく 過ごして、入隊したいという気持ちが強かった。
親友に岩手出身で鈴木孝というのがいた。職場は違っていたが、非番の日などよく彼
と外出して楽しく遊んだ刎頚の友であった。4月中頃のある日、彼と外出して奉天で一番 大きい千代田公園に遊びに行った時のことである。園内に一機の古い戦闘機が戦意昂 揚の為か賑やかに展示してあった。周囲に数個の木製ベンチが置いてあり、私達の腰 掛けている隣に中年の女性と若い娘の二人が居た。姉妹のような感じであった。その日 は、陽も暖かく麗らかな一日であった。自然に親しく話しているうちに、自分はあと一ヶ月 したら海軍に入隊することを告げたところ、深く同情してくれた。二人は義姉妹で、姉の 方の夫が先月出征し、義妹と家に居ても淋しく、今日は暖かい日曜日でもあり、遊びに 来たとのことであった。そして帰り際に、「次の日曜日でも是非二人で遊びにいらっしゃ い」と云われ住所を教えてくれた。二人の姉妹は奉天の軍需工場に勤めているとのこと であった。小生と友人鈴木は、今までに女性との交際は全くなく、遊びに来るように招待 された時は本当に嬉しかった。二人とも女性の優しさに飢えていたのであろう「次の日曜 日は必ず訪問します」と約束して別れた。
長い待ちに待った日曜日鈴木と共に訪問し、心からなるご馳走になったうえ、自分達
の武運長久をお祈りしますと、姉妹から出征時の日の丸の真新しい旗に、「日の本の大 和魂忘るるな」と優しく墨書して贈ってもらった感激は一生忘れることができない。姉妹 の名前が旗の隅に小さく書かれていた。妹さんの名前は岐阜県出身で掛川千枝という 人であった。出征の時は必ず見送りに行きますからと云っていた。
出征の時が来た。奉天駅頭ホームにて私達入隊者5名は、大勢の同僚社員から、小
旗の波で賑やかに社歌、軍歌等を唄って、盛大に壮行会を催してくれた。自分の心は、 壮行会よりも、約束してくれた掛川さん姉妹がきているだろうかと、密かに期待しながら 目を周囲に配っていたが、見出すことができなく、内心がっかりしていた。しかし心の隅 に、このホームの何処かに来ているような気がしてならなかった。愈々出発の時が来た ので、列車のホーム窓際に乗り、更にホームの広くを見渡していたところ、友人の鈴木 が走ってきて、ホームの端(進行方向)に掛川さん達が来ていることを教えてくれた。
既に列車は静かな動きで、別れを惜しむかのように哀しい汽笛を残して進み始めた。
ホーム全体に万歳三唱が大波のように数回ある中、掛川さん姉妹はホームの端で小旗 を懸命に振っていた。運命とはいえ、これが最初で最後の別れかと思うと実に云うに云 われない淋しい思いであった。そして、もう再びこの満州の地に足を踏み入れることのな い土地への愛着と、感傷が一度に込み上げてきて、その淋しさは奉天が遠く、且つ小さ くなるに従い、例えようのない切ない哀愁を感じた。
列車は一段と速度を増し、南へ南へと一路南下した。案東駅に着いたのが明けた昼ご
ろだったと思う。ここで満州貨幣を日本貨幣に換金した。そして足早に満州、朝鮮の架け 橋である鴨緑江橋を渡橋して、南鮮の釜山へ向かって列車はひた走りに走った。釜山着 と同時に関釜連絡船に乗船して博多に上陸した。2年振りに見る博多の自然の風景は、 緑の松が青々後した美しい清新な姿として新鮮に我が目を捉えたのが、極めて印象深 かった。”やはり日本はいいなぁ〜”としみじみ思った。
そのような内地へ上陸しての感慨の束の間の夢のように、再び列車に揺られて、大竹
海兵団のある大竹駅へと北進した。駅に着いたのが5月25日の昼頃、駅から海兵団は 指呼のうちにあり、徒歩で衛門まで行った。途中、麦畑の穂波が実り輝いて、風で美しく 波打っていたことを記憶している。この頃の戦況は、すでに連合軍が太平洋の支配権を 掌握しつつあったようである。
今ここに45年前のすっかり色褪せた小生の軍歴表がある。折畳式になっているため
折目が損耗し、セロテープで補修している。軍隊入籍番号が「呉志機第28316号」と表 記してある。裏面を見ると、注意として1〜5項まであり、その第1項目に「本表ハ丁寧ニ 保存シ汚損セザル様取扱フベシ」と書いてある。この一つの軍歴表の年表を追って見て いると、過ぎ去りしその時々の想い出が、生々しく浮かび上ってくる。
入団したその日は、班長達が優しく迎えてくれて、何だか厳しい軍隊に入隊したような
気がしなかった。満16才という純真な少年なるが故に、後からの恐ろしさなど毛頭考え てもみなかった。分隊班の編成表に従って名前を呼ばれ、其々に全員が振り分けられ た。班ごとに個人被服が貸与され、私服は小包にして故郷に送るよう指示された。一応 身辺整理が終ると、軍服を着ての再点呼が実施された。このときは流石に身の引き締ま る思いがした。数日後入団式があり、「海軍二等機関兵ヲ命ズ」の示達があった。これで 正式の帝国軍人になったのである。それ以後の新兵教育期間の4ヶ月は、まさしく生き 地獄そのものであった。戦況のことは皆目わからず、各個人としての物を考える余裕は 全く与えられず、只有能な戦士要員として、朝から晩まで追い捲られていた。
ある日、自分にこんなことが有った。熱暑7月、夏の戦闘訓練が練兵場で行なわれた
時のこと。銃を持っての匍匐突撃訓練が午前中あった。激しい訓練が終って、班長の装 具点検号令が掛かり、点検したところ小生の弾帯の止皮輪が無くなっていた。それを報 告すると、班長から「見つかるまで探せ」と叱られ、昼食抜きで広い練兵場をくたくたにな って倒れそうになるまでやらされた。棒や、鉄拳制裁異常に苦しい罰直であった。結果は とうとう見つからなかった。自分としては、ただ単にバンドの端を止める小さな止皮輪が そんなに大切なものとは思えず、班長の処罰にはどうも納得できなかった。
この頃の戦局は逼迫し、サイパン玉砕の時期であったようである。上級者らは、この戦
局について云わず語らず知っていたのだろうが、我々新兵は全くわからず、必勝の信念 の思想教育のままに一生懸命であった。バンド皮輪の紛失事件があった後、意外なこと に班長係を命ぜられた。班長係とは、班長の身の周りの洗濯や、世話係である。皆が最 も望む係である。その理由は、班長の世話係であるが故に可愛がられ、罰直や叱られ ることも半減されるからである。同年兵の皆から羨ましがられていた。仕事はきつかった が奉仕することに喜びを持ってやったためか、新兵教育が終るまで可愛がって、貰っ た。
その班長の名前は小谷定好といった。今でもこの班長は忘れえぬ人として感謝の念を
持っている。
9月10日新兵教育も終わり、朝夕、秋風の冷気涼風を感ずる頃となり、愈々実戦部隊
への配置が達せられることになった。皆んな何処にやられるのだろうと不安でならなかっ た。そうした或る夜のことである。吊り床に寝ていると、深夜、吊り床を下から突き「山 口、山口」と自分の名前を小声で呼ぶので、夢うつつに不寝番が起しているものとばかり 思っていたところ、其の声の主は小谷班長であった。ハッと気付いて「ハイ」と返事をした ところ、直ぐ俺のところに来いと言われた。何事だろうと気掛かりながら後に従っていっ た。
班長の仰有るには「お前、魚雷艇を希望しないか」と云うことであった。それも第1次は
新兵教育を終って直ぐ学校に入校するが、第2次は呉の潜水艦基地隊において、1次の 学校教育が終わる間、そこで予備訓練が実施される。その第2次要員として行かないか と云われたので、否とも云えず「ハイそうします」と答えた。多くの班員中から自分だけを 呼び出し、温かい言葉を掛けてくれた小谷班長の真心に、心から有難く思い感謝の気持 ちで一杯であった。用件はそれだけだと云われたので「山口帰ります」と敬礼したところ 「山口お前は意中の人がいやしないか」と云われるので、ハテ誰のことだろうと思い「そ んな人はいません」と云うと「隠さなくてもよいよ」とニヤニヤして「この写真の人は誰だ」 と二人で写った写真を見せられた。この写真を見て吃驚した。それは掛川さん姉妹の写 真であったからだ。班長が慰問の手紙を検閲して、その写真を抜き取ったものと思われ る。この写真は俺が預かっておくと云って渡してくれなかった。残念でならなかった。
9月12日早朝背嚢を担いで、海兵団の衛門を班長達に見送られ出発した。移動は即
日大竹〜呉間の軍事輸送で、呉潜水艦基地隊に着隊した。第2次要員は12名であっ た。ここでの勤務は約2ヶ月間の予定であり、魚雷艇要員としての必要なモールス信号 や手旗信号、艇機関のエンジン機能等の予備教育であった。ここの隊の風紀は、下士 官の人達が良い人ばかりで、家庭的であり安住の地であった。しかし戦局は益々峻烈 で、我が軍は不利な状況にあったのであろう。基地隊の前方に見える瀬戸内海は、毎日 のように被爆した軍艦の船首が吹き飛んでいるもの、船尾が浸水しそうになってやっと 入港してくるもの、これ等の憐れな艦影を目の当たりに見るに付け、如何に戦況が悪い かを無言のうちに無残な形として見せてくれた。
丁度この頃は、彼の有名なレイテ海戦があった頃ではないかと思われる。そうこうする
うちに、第1次要員の学校教育がまだ卒業しないのに、我々第2次要員の入校日が急遽 11月5日に繰り上げ決定された。(人員の損耗が激しく、特攻要員が不足していたので あろう)
このような慌ただしい中、見慣れない達筆で書かれた一通の封書が写真入で届いた。
裏に林新二と記されたいた。誰だろう?と、文面を読んでいくうちに「この度貴君の姉と 結婚しました林新二という者ですが、今後ともよろしく」との文面であった。早速祝福の返 信を出した。
学校入校のための輸送計画が10月31日に示された。11月1日が健康診断、11月
3日(明治節)に、呉駅を昼の列車で横須賀の工機学校へ出発予定となっていた。この 出発の日(11月3日)の機会を逃したら、二度と(17年度満以来)両親に逢えないまま に死別するかもしれないとの思いがしたので輸送計画(10月31日)が示された時点で、 両親にそれとなく11月3日呉駅で逢いたいから来て貰いたい旨、手紙を出した。
運命とはわからないもの11月1日の身体検査の結果、自分を含む3名が不合格とな
り、入校できなくなった。その時は3名共残念でたまらず泣き明かしたものである。11月 3日の第2次要員が元気溌剌として駅頭に集合、その見送りに私達3名は行った。この 日(明治節)の天気は実に素晴らしい秋晴れの澄み通った暖かい日であった。
入校要員を見送った後、両親が果たして駅に来てくれているであろうか、約束の場所
にすぐに行った。落ち合う場所は、駅前の電話ボックスに昼頃と決めていたが両親の姿 は其処にはなかった。「やはり無理なお願いであったか」と諦めて、丁度昼ごろでもあり、 腹が減っていたので「うどん」でも食べようかと、店の方に足を向けて約10m歩いたとこ ろで、”待てしばし”もう一度ボックス周囲を確かめて見ようとUターンして行ったところ、 其処に両親が両手に風呂敷包みを下げて立っていた。両親の話では、早めに定位置に 行ったようである。
高等小学校を卒業し、渡満して以来、2年半振りの再会であった。お互い元気な姿を
確かめ、肩を叩き合う現象は正しく最高の喜びであった。今日、入校出発出来なかった ことを話したところ、意に反して両親はほっとした面持ちで「そんなに落胆せず身体に注 意して励め」と云ってくれた。やはり親としては、我が子を早く戦場へ送り出したくはなか ったのであろう。両手に大事そうに下げていた風呂敷包みには、重箱が三段重ねで、鶏 肉の油あげ、好物の里芋煮染め、その他故郷の味、お袋の味が最高の料理であった。 一品、一品を噛み締めながら心から美味を味わった。こうした面会の時間も17時までに は帰隊しなければならない。僅か3時間あまりの短い時間に多くのことを話したいが、と っさには浮かばず、満州時代から今日までのことを簡単に話した。両親は「家族皆元気 でいるから家の事は心配しないように」これまた簡単な話のみであった。別れは逢ったと きの数倍にも増して哀しく辛いものである。両親は「くれぐれも身体に注意して務めに励 むように」と涙を浮かべながら云ってくれた。自分は、両親が無事故郷に帰着するのを只 管祈った。(空襲に逢わないように)
両親と別れて隊に帰ってその日、残された自分たち3名は唯ガランとした隊舎で、ボソ
ボソとこれから先の不安を話し合いながら、寂しい一夜を過ごした。小生は両親に逢え た幸せを得たが、他の2名は寂しさ以上の哀しい思いであったことだろう。それは就寝後 の咳の声でも感じ取れた。
明けて11月4日、班長から「お前達3名は11月6日付をもって呉海兵団に勤務を命
ず」との達しがあった。勤務内容は、団内臨時勤務ということであった。噂によれば海兵 団は毎晩バッター(棒で叩く)制裁のある厳しい所と聞き不安でならなかった。この頃の 連合艦隊は、米軍のフィリピン諸島レイテ島上陸を阻止しようと出撃し「全軍突撃セヨ」 の命のもと突入し潰れた。
11月6日朝、3名は、それぞれ衣嚢を持って隊舎前に整列。基地隊最後の下士官の
服装点検を受け、当直下士官に見送られて、海兵団行きの定期便に乗せられ、寂しく揺 れながら海兵団に着隊した。着隊してから約1週間たった頃、団内臨時勤務のとおり、 下士官を長とする約20名からなる雑多な職種の水平たちが1個班編成され、呉軍港か ら小型輸送船に乗せられた。
行く先はトント何処なるや分からない、盲同然なり。しかし、遠い外地でないことだけ
は、船・編成・軽装・トップが下士官であることから大方の推察ができた。途中、小さな港 に寄港しながら着いたところは、波静かにして、海碧く、穏やかな優しい湾であり、浜に 続く白浜の青松の景色は、白と碧の生き生きとした素晴らしい絵のような良湾であった。 下士官の説明で、ここがあの有名な連合艦隊の寄港泊地である”宿毛湾”だということを 知った。その輸送船から大発船に移乗し、湾内の更に奥の小湾築港に寄せられて上陸 した。海岸線に沿って立ち並ぶ建物を見たところ、以前、水上航空隊の基地であったよ うな印象をうけた。
隊舎は、長方形の平屋2棟で、収容人員は約80名程度の大きさである。基地司令は
大佐であった。若かったので多分海兵出身の大佐であろう。営庭で、司令である大佐の 訓示があり、隊舎に入って先ず最初に奇異な感じがした。海兵団に居たときの空気とど こか違った異種の雰囲気である。”何故だろう”と不審な気持ちで冷静に観察してみる と、先ず第1に、隊、班の編成が正常な階級組織としてなされていないのである。下士官 1名でよいところに同階級が3名もいたり、兵長が上等兵よりも多くいる班があったり、 職種も、水平・機関兵・主計兵と雑多であり、第2に、年齢が現役・志願・補充兵と不揃 いである。
そのうち、その雑多な人達の言動を注意して見ていると、南方での話が出たり、楽しか
った艦隊での話を聞いているうちに理解することができた。この人達は、前線で勇敢に 戦えど戦闘に敗れ、艦が沈没し救助され、ここに収容されていることが分かった。つま り、敗残兵である。この人達を、多数の統制された組織体の中に容れると、日本艦隊の 不利な敗戦の戦況と、その実相が広まり、機密が漏洩し、他の兵隊の繊維を喪失させて はならないとの上層部の配慮から、体裁の良い島流し作業隊として使用していたものと 思われる。
此処での勤務は、本土決戦に備えての特潜の基地化であった。湾内の突端の小入江
の岸壁下辺に横穴トンネルを掘り、其の所に特潜を隠し、敵艦に体当たりを食わせる隠 蔽施設の構築作業である。構築に用いるコンクリートの骨材(砂利砂)を毎日大発艇に 乗って取りに行き、構築現場に運搬する作業であるが、食事は悪く、運搬作業は極めて 過激な重労働であった。
大発艇の骨材運搬積降しは、狭い板梯子を2人でモッコを担いで渡るのであるが、船
の動揺と、梯子の揺れと、2人の意気が合わないと、下の飛沫の荒海に落ちるのであ る。恐くて死ぬ思いであった。小生この時17才、恐かったが若さで頑張った。老兵たち (補充兵)は、体力の苦痛で表情は暗く、本当に可愛そうであった。補充兵の中に、北川 さんという大阪出身の人がいた。富豪(海産物屋)の息子で、色白く、痩せていて虚弱体 質の人であった。この体力を要する重作業には耐えられず、到頭ノイローゼになり、脱 走自殺未遂を図ったことがあった。
昼間の重作業に加えて特に嫌なのは、夜の罰直が一番苦痛であった。実戦経験の古
年兵達による、我々新兵いじめのバッターによる制裁、波打ち際の砂浜(隊舎の直ぐ 下)での腕立て伏せ等の罰直は、古年兵にとっては不満の捌け口、或いは、ストレス解 消の一手段であったかもしれないが、我々にとっては、地獄にも等しい苦痛に夜であっ た。
このような毎日の軍務に中にも、兵にとっては、たった一つだけ極楽にも等しい息抜き
のできる勤務場所があった。それは湾の突端に有る防空監視の勤務であり、敵機の空 襲が無い限り、のんびりと休養ができた。2人復哨の勤務で、上司の来る心配もなく、こ の時ばかりは精神的にも肉体的にも、完全に開放される唯一の極楽安住の場所で、 兵、皆が望む最高の勤務場所であった。しかし、その日常は希望なき毎日であった。そ うしているうちに、昭和20年の正月を迎えた。正月とはいえ、それらしい飾り付けもなく なんの感慨も湧かなかった。
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