五十黙示録 第三巻 星座の巻
五十黙示録 第03巻 星座の巻
第一帖
この巻「星座の巻」。偶然と申すのは、宇宙世界、星の世界の必然からのものであって偶然ではないぞ、天に星のある如く地には塩があるのであるぞ、シホ、コオロコオロにかきならして大地を生みあげた如く、ホシをコオロコオロにかきならして天を生みあげたのであるぞ。天の水、地の水、水の中の天、水の中の地、空は天のみにあるのではないぞ、地の中にもあるのぞ、天にお日さまある如く地中にも火球があるぞと申してあろう、同じ名の神二つあるぞ、大切ことぢゃ。
第二帖
ナルの仕組とは【成十】(七 十)の経綸であるぞ、八が十になる仕組、岩戸(言答)ひらく仕組、今迄は中々に判らなんだのであるが、時節が来て、岩戸がひらけて来たから、見当つくであろう、富士(二二、普字)と鳴門(ナルト)(七 十、成答)の仕組、結構致しくれよ。
第三帖
時、時、と申してあるが、時間ではないぞ。神(カミ)、幽身(ガミ)にも聞かせているのぞ。地上人には時間が考えられるなれど、神界には時間がなく、神も霊人も時間は知らないのであるぞ。只よろこびがあるのみぞ。神界で時間と申すのは、ものの連続と変化、状態の弥栄の事であるぞ。トキ待てよ。トキ違えるでないぞ。地上人の時間と区別して考えねば このふでは解らんぞ。
第四帖
人民もの言へんことになると申してありたこと近うなったぞ、手も足も出んこと近づいたぞ、神が致すのでない、人民自身で致すこと判りてくるぞ。人民の学や智では何とも判断出来んことになるぞ。右往左往しても、世界中かけ廻っても何もならんぞ、判らんでも判りた顔せねばならん時が来たぞ、ウソの上ぬり御苦労ぞ、人民がいよいよお手上げと言うことに、世界が行き詰りて神のハタラキが現れるのであるぞ、日本人びっくりぢゃ、日本人はいくらでも生み出されるが日本の国は出来まいがな、身体中、黄金(こがね)に光ってゐるのが国常立大神の、ある活動の時の御姿ぞ、白金(しろがね)は豊雲野大神であるぞ、今の科学では判らん。一万年や三万年の人間の地上的学では判らんこと、国常立大神のこの世の肉体の影が日本列島であるぞ、判らんことがいよいよ判らんことになったであろうが、元の元の元の神の申すことよく聞きわけなされよ、神の学でなければ今度の岩戸はひらけんぞ。
第五帖
悪の仕組通り、悪平等、悪公平の選挙でえらび出すのざから、出るものは悪にきまっているでないか、悪もよいなれど、悪も神の用(ハタラ)きであるなれど、悪が表に出ること相成らん。
第六帖
人民と申すものは生命(いのち)が短いから、気が短いから、仕組少しでもおくれると、この神は駄目ぢゃと、予言が違ったではないかと申すなれど、二度とない大立替であるから少し位のおそし早しはあるぞ、それも皆人民一人でも多く助けたい神の心からぢゃ。おくれても文句申すが早くなっても又文句を申すぞ、判らんと申すものは恐ろしいものであるぞ。
第七帖
この世をつくった太神の神示ぞ、一分一厘違わんことばかり、後になって気がついても、その時ではおそいおそい、この神は現在も尚(なお)、太古を生み、中世を生み、現在を生み、未来を生みつつあるのぞ、この道理判りて下されよ、世界は進歩し、文明するのでないぞ、呼吸するのみぞ、脈拍するのみぞ、変化するのみぞ、ぐるぐる廻るのみぞ、歓喜弥栄とはこのことぞ。
第八帖
人民一度死んで下されよ、死なねば甦られん時となったのぞ、今迄の衣をぬいで下されと申してあろう、世がかわると申してあろう、地上界の総てが変るのぞ、人民のみこのままと言うわけには参らぬ、死んで生きて下されよ、タテカヘ、タテナホシ、過去と未来と同時に来て、同じところで一先づ交じり合うのであるから、人民にはガテンゆかん、新しき世となる終りのギリギリの仕上げの様相であるぞ。
第九帖
白と黒とを交ぜ合せると灰色となる常識はもう役にたたんぞ。白黒交ぜると鉛となり鉄となり銅となるぞ、更に銀となり黄金となるぞ、これがミロクの世のあり方ぞ、五と五では動きとれん。そなたの足許に、来るべき世界は既に芽生へてゐるでないか。
第十帖
世の元は であるぞ、世の末も であるぞ、 から に弥栄するが、その動きは左廻りと右廻りであるぞ、 と と申してあろう、その中心に動かぬ動きあるぞ、何も彼も、人民迄変るのが今度の大立替、食物も、衣類も、住居も皆変るぞと申してゐる時が来ているのぞ、いつ迄チョンマゲを頭にのせてゐるのか、ケンビキ今一度痛くなるぞ、そのケンビキ今度は東の方ぢゃ。
第十一帖
自由も共産も共倒れ、岩戸がひらけたのであるから元の元の元のキの道でなくては、タマ(玉)の道でなくては立ちては行かん、動かん二二(普字、富士)の仕組、ひらけて渦巻く鳴門(ナルト)(七 十、成答)ぢゃ。新しき人民の住むところ、霊界と現界の両面をもつ所、この岩戸ひらきて二度とない九十(光透)でひらく仕組。
第十二帖
地上界に山や川もあるから霊界に山や川があるのでない、霊界の山川がマコトぞ、地上はそのマコトの写しであり、コトであるぞ、マが霊界ぢゃ、地上人は、半分は霊界で思想し、霊人は地上界を足場としてゐる、互に入りかわって交はってゐるのぞ、このこと判れば来るべき世界が、半霊半物、四次元の高度の、影ないうれしうれしの世であるから、人民も浄化行せねばならん、大元の道にかへり、歩まねばならん、今迄のような物質でない物質の世となるのであるぞ。
第十三帖
父のみ拝(おろが)みたたへただけでは足りない、母に抱かれねば、母の乳をいただかねば正しく生長出来ないのであるぞ。一神として拝んでも足りぬ、二(柱)でも一方的、十万柱としても一方的ぞ、マイナスの神を拝(おろが)まねばならん、マイナスの神とは母のことぢゃ、天にまします父のみでは足りないぞ、天にあれば必ず地にもあるぞ、一即多即汎、地即天、天即地から表即裏である、マコトを行じて下されよ。
第十四帖
目から泥を洗ひ去ると見へてくるぞ、右の目ばかりではならん、左の目の泥も落せよ。泥のついてゐない人民一人もないぞ、泥落すには水がよいぞ、世の元からの真清(詞)水で洗ひ落し下されよ、世の元の元の元の真清(詞)水結構。
第十五帖
十二人が一人欠けて十一人となるぞ、その守護神を加へて二十二柱、二十二が富士ぢゃ、真理ぢゃ、又三であるぞ、今迄は四本指八本指で物事をはかって誤りなかったのであるが、岩戸が明けたから親指が現れて五本十本となったのぢゃ、このことよくわきまへよ。
第十六帖
偽(にせ)の愛、偽(にせ)の智と申すのは、神を信じない人民の愛と智であることを知れよ、この人民たちは神の声を聞いても聞こへず、神の現れを見ても見へないのであるぞ、目をとぢ耳にふたしてゐるからぞ、今の人民よ学者よ金持よ、早う考へ方を変へねば間に合わん、心の窓 早うひらけよ。
第十七帖
土のまんぢうと申してあろう、土が食べられると申してあろう、土から人民を生んだと申してあろう、ウシトラコンジンの肉体は日本の土ざと知らしてあろう、土に生きよと申してあろう、地は血(智)であるぞ、素盞鳴命様であるぞ、その土が生長して果ての果てに皮をぬぐ、それが地変であるぞ。
第十八帖
天人が人民に語る時は、人民の中に来て、その人民のもつ言葉で語り文字を使うのであるぞ、自分と自分と語る如くなるのであるぞ、天人同士の文字は数字が多いぞ。夜明け前になると霊がかりがウヨウヨ、勝手放題にまぜくり返すなれど、それもしばらくの狂言。
第十九帖
人民もの言わなくなると申してあろうが、ものが今迄のようにものを言わなくなり、マコトの世となるぞ、天人の言葉はマコトであるから、只一言で万語を伝へ得るぞ。言葉の生命(いのち)は愛であり、真であるから、真愛から発しない言葉はマコトの言葉でないぞ。子音と母音と組み組みて父音の気を入れて始めて言葉となるのぢゃ、今の人民のは言葉でないぞ、日本の古(光)語がマコトの言葉ぞ、言霊ぞ、数霊と倶に弥栄ゆく仕組。
第二十帖
人民が正しく言葉すれば霊も同時に言霊するぞ、神も応へ給ふのであるぞ。始め言葉の元があるぞ、ムムムムムウウウウウゝゝゝゝゝアと現はれるぞ、神の現はれであるぞ、言葉は神をたたへるものぞ、マコトを伝へるものぞ、倶(トモ)に鳴り、倶に栄えるものぞ。
第二十一帖
言葉は生れ出るものぢゃ。先づ言葉され、歌となり、文章となり、又絵画となり、彫刻となり、建築となり、又音楽となり、舞踊となり、あらゆる芸術の元となるのであるぞ。神に通ずればこそ、愛であり、真であり、善であり、美であり、喜びであるぞ、喜びなきものは芸術でないぞ。今の芸術は死の芸術、魔の芸術。
第二十二帖
アとオとウとは天人の言(コトバ)、アとエとイは天使の言(コトバ)、人民に与へられた元の言(コトバ)であるぞ、五柱の元つ太神が十柱の夫婦神と現われ十柱の子(みこ)と交わって五十神と現はれるのぢゃ。故に五十神の中の三十二神は新しく生れるのぢゃ、更に二十七神とはたらき又二十五有法とはたらくぞ。
第二十三帖
二二の二の五つの今あけて、よろづゐんねん出づる時来ぬ。天の理が地に現はれる時が岩戸あけぞ、日本の国が甘露台ぢゃ。
第二十四帖
未発表のため欠帖
第二十五帖
歓喜に裁きのない如く、神には裁きなし。さばき説く宗教はいよいよ骨なしフニャフニャ腰となるぞ、戒律や裁きは低い段階、過去の部分的一面に過ぎん、裁きを説くのは自分で自分をさばいてゐること、人民に罪なし。
手長手伸(たながたのし) 堅磐常磐(かきはときは)に 祝ふ御代なる。
生井栄井津(いくゐさかゐつ) 長井阿須波比支(ながゐあすはいき) たたへましを。
底つ岩根 千木岩(ちぎいわ)高く 瑞(みづ)の御舎(みあらか)。
四方(よも)の御門(みかど) 五方(いつも)とひらき 宇都幣帛(うづみてくら)を。
御巫(かむなぎ)の 辞竟(ことお)へまつる 生足御国(いくたるみくに)。
塩沫(しほなは)の 留まる限り 皇国弥栄(みくにやさか)ゆ。
海原の 辺にも沖にも 神つまります。
天の壁 地(くに)の退立(そぎた)つ 極み手伸(たの)しき。
八十綱(やそつな)を 百綱(ももつな)とかけて ささし給はむ。