SAX and the CITY
<第1回:負け犬の美学>



 やっぱあれですか。ネタに事欠いてアメリカの人気TVドラマ"SEX and the CITY"のパクりですか。 

 そうですよ。お気に召しませんか。僕はサクソフォンの音色が大好きなんですよ。だから洋楽を聴くときもサックスが入っているかどうかがすごく気になるタイプなんです。サックスを効果的に用いた洋楽のヒット曲を取り上げてちょっとした文章を書くコラムをずっと作りたかったんです。ただ適切なタイトルが思い浮かばなくて。サクソフォンの響きはひどくセクシュアルだから "SAXUALITY" なんて最高に洒落たタイトルなんだけれど、ご存知のように Candy Dulfer がとっくの昔に使っちゃってるし。サックス絡みの素敵なタイトルを全然思いつけず、挙句の果てには「SAX PISTOLS」とか口走る始末。俺もう駄目だと。もう死ぬしかないと。企画倒れで終わっちゃうのかな…と思ったこともあったんです。そんな時このタイトルに出会って。これはイケると。いや実際のところ、今年1月にタイトルを決めてからも忙しさにかまけて1年近く放置してたんですけどね(笑)。実は今も猛烈に忙しいんですけど、そういう時ほど何か余計なことに手をつけずにいられなくなる。いわゆるアレですね、期末試験前の徹夜勉強中になぜか本や漫画を引っ張り出して朝まで読み耽っちゃうパターン。何も今夜でなくてもいいだろうに!と自分で自分にツッコまずにいられないあのパターン。

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 以上が背景とコンセプトの説明。加えて"SEX and the CITY"製作元のHBO社へのエクスキューズ。もうちょっと言い訳しておくと、サクソフォンというのは実際かなり都会っぽい音色の楽器だと思うのだ。少なくともある種のAORとかフュージョンにおいては「都会性」を演出するための小道具として使われている節がある。サックスソロが始まった瞬間、そこはネオン瞬く摩天楼になったりレインボーブリッジが見えるホテルの一室になったりする。ギターやベースやドラムスでこれをやろうとしてもなかなか難しいわけで、かなり特殊なイメージを喚起する楽器だと言えるだろう。そんなわけで SAX and the CITY、並列というよりむしろ≒で結んであげたいくらいだ。(もちろんど田舎の風景を想起させる豪快なサックスというのもある。例えば Bruce Springsteen の E Street Band にいる Clarence Clemons のブロウとかね)

 だがギターやベースやドラムスとの最大の違いは、サックスが管楽器であることだ。他の楽器が指ないし腕で演奏されるのに対し、サックスは人間の吹き込む息で音を発するため、音量やビブラートのかけ方が基本的に奏者の息で調節される。細かいことを捨象して結論だけ言うと、サクソフォンは人間のヴォーカルとパラレルだということだ。音響学的にも人間の声に非常に近いらしく、感情を表現しやすい楽器だとも言われている。ある時は語りかけるように、ある時は激しく叫ぶように。そんなこんなで、このコーナーでは都会的で極めてセクシーなこの木管楽器(金管じゃないよ)をフィーチャーしたヒット曲やアーティストについて、徒然なるままに語ってみたいと思う。

 基本的に順不同なのでどれから始めてもよかったのだが、せっかくの第1回だからタイトルに忠実にSAXを用いた都会/CITY的アレンジの極致ともいえる曲で切り出してみようと思う。自分にとってそれは "Deacon Blues" / Steely Dan (US#19/78)をおいて他にない。

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 こんな曲がシングルヒットしたこと自体、今となっては俄かに信じ難い。確かにお洒落な雰囲気で、歌メロが弱いアルバム "AJA" の中でも例外的に流麗なメロディで構成された楽曲ではある。でもアレンジは他の曲に負けず劣らず偏執狂的なまでに複雑だ。管楽器をここまで徹底的に重ねるセンスがそもそも常軌を逸している。テナーサックスで単独クレジットされた Pete Christlieb の他に、何と6人もの Saxes/Flutes 奏者クレジットがあるのだ。しかもこれが、Jim Horn, Bill Perkins, Wayne Shorter, Plas Johnson, Tom Scott, Jackie Kelso という豪華絢爛たる布陣。加えてブラスセクションとして Chuck Findley, Lou McCreary, Slyde Hyde の3人が列記され、統括責任者として Tom Scott がホーンセクション全体のアレンジを手がけている。正直言って、ドナルド・フェイゲンのヴォーカルを聴くか、それともバックのホーンズに集中すべきか迷うくらいの素晴らしい編曲だ。

 だけれども、その編曲がなぜ光っているかといえば、やはり歌詞に十分な魅力があるからだろうと思う。ここで歌われる情景は世間一般の価値観とは逆のもの、一言でいえば「負け犬の美学」だ。主人公の男は実社会では負け犬に過ぎないが、これから新たな世界に旅立とうとしている。物理的な別世界というより、世間体から精神的に解き放たれて自由気ままに生きる道を選ぼうとしているようだ。耽美的なダンディズムを極めた印象的なそのコーラスはこう歌われる。

♪I'll learn to work the saxaphone
 I play just what I feel
 Drink Scotch whiskey all night long
 And die behind the wheel
 They got a name for the winners in the world
 And I want a name when I lose
 They call Alabama the Crimson Tide
 Call me Deacon Blues


 4行目の "behind the wheel" の wheel は steering wheel すなわち車のハンドルのことで、要するに「ハンドルを握っている、運転している」状況を表すフレーズ。転じて「支配権を握っている」ことを象徴的にいうこともある。つまりここまでは「サックスを練習して/気ままに吹いてみたい/一晩中スコッチウィスキーをあおり/車を走らせて死んだっていい」、そんな破滅的なイメージ。後半4行がまさに負け犬の美学だ。「世間じゃ勝者にだけ名声が与えられるが/俺は敗れたときこそ名声がほしい/アラバマをクリムゾン・タイドと呼ぶのなら/俺のことはディーコン・ブルースと呼んでくれ」。

 勝者ではなくむしろ敗者への憧れ。そんなものを正面切って歌にしたアーティストがこれまでいただろうか。負け犬だけが知っている人生の哀愁みたいなものを音にしたならば、きっとこの曲のサックスソロのような形をとるに違いない。crimson tide はアラバマ大学のフットボールチームの愛称で、同校は全米ナショナルチャンピオンに10数回も輝いている名門中の名門。それに比べると、deacon blues という造語はいかにも弱そうなイメージだ。特に意味があるとも思えないが、deacon という単語からごまかしとか似て非なるものといったイメージを読み取ることもできるだろう。サックスを吹けるよう練習したにもかかわらず、結局ブルースを吹くことができなかった男、つまりアーティストとしての敗北を自ら認めて開き直る歌詞とも読めるわけだ。

 最近話題になっている本に酒井順子の『負け犬の遠吠え』がある。「どんなに美人で仕事ができても、30代以上・未婚・子ナシは『女の負け犬』なのです。」と宣言して晩婚化問題に切り込んだエッセイ集だ。もっとも、本人自身が負け犬の定義に合致する酒井のスタンスは決してネガティヴではなく、既婚の子持ち女が本当に幸せか?と問いかける中立の視点を持っている。私たちこそが善であり、いい歳して未婚・子ナシのあんたたちは「負け犬」なのよ!と優越感に浸る既婚の子持ち女こそ実は人間性とデリカシーの欠如した「犬」であるという見方もできるだろう。これを称して「勝ち犬」という造語で攻めた酒井の勝利と言わざるを得ない。勝ち犬たちの中には、自由になるお金も時間も全くない悲惨な生活に目をつぶり、ただひたすら「今の私こそが幸せ」と思い込んで子を産み家事をこなすことによって、黙々と国家政策に貢献している犬も多いはずだ。要するに勝ち犬より幸せな負け犬はいくらでもいる。どっちが勝ちでどっちが負けなんていう議論にはあまり意味がない。

 ちょっと脱線しすぎたが、上記『負け犬の遠吠え』のスタンスはまさに "Deacon Blues" だと思った。負け犬であって何が悪い。恥ずかしいことでもなんでもない。かといって胸を張るようなことでもない。「しょうがないこと」なのである。そう語る酒井順子にこそ "Deacon Blues" の名声が与えられるべきだろう。なぜなら彼女のスタンスにはどうしようもない諦めが感じられるから。静かな諦観に貫かれた独自の美学にはサックスの音色が似合う。ドナルド・フェイゲンもきっとそう考えてこの曲を作ったのに違いない。同じ「負け犬」をテーマにしていても、例えば Beck の "Loser" にはこの静かな諦観が欠けている≒サックスが欠けている。そんなに強引に結論付けてよいのかと言われても、実際のところ僕にとっての音楽的な価値はそこで決定的に異なってしまうのだ。じゃあすべてのヒット曲にサックスソロを入れれば解決するかといえば答はもちろん否で、結局のところこの文章も "Deacon Blues" なる楽曲の魔力に取り憑かれた男の負け犬の遠吠えに過ぎなかったりするわけなのだけれど、それにしたって「しょうがないこと」。

 …どうやらスコッチ・ウィスキーの飲み過ぎらしいので、この辺で。

(December, 2003)

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