ROCK'N'ROLL EYE - The photography of Mick Rock
ミック・ロック写真展



 8月2日(土)午後、東京都写真美術館(恵比寿ガーデンプレイス内)にて。
 春先からずっと楽しみにしていたミック・ロックの写真展に出かけてきた。ミック・ロックはグラム・ロックのアーティストを中心に、アルバムのジャケット写真などを数多く手がけてきた写真家だ。主な被写体にはシド・バレット、デヴィッド・ボウイ、ルー・リード、イギー・ポップ、クイーンなどの名がずらりと並ぶ。個人的には決して得意な時代/ジャンルではないのだが、それは写真のクオリティとは何の関係もない。むしろ門外漢の自分に訴える力こそが写真家としての力量なのだろう。大きなサイズにプリントされたデヴィッド・ボウイとミック・ロンソンのライヴ写真や、映画「トレインスポッティング」などでも引用されたイギー・ポップの上半身裸の写真などは確かに迫力がある。クイーンのコーナーは特に丁寧に写真が構成されており、巨大なフレディ・マーキュリーのパネルの前には、棺状のガラスケース内で真紅のサテンに包まれたフレディの写真がこちらに鋭い視線を投げかけていたりする。写真はそれ自体が雄弁な資料で、多くのメッセージを語りかけてくるのも事実だけれど、あちこちに配されたミック・ロック自身のコメントボードも興味深い。撮影時の裏話や、同時代を駆け抜けた一人の写真家としての偽らざる心境が吐露されたものばかりだ。また、会場のあちこちにオーディオ設備がセットされ、デヴィッド・ボウイやクイーンなどの音楽を大音量で流す演出がされていた。それらは主にライヴ音源で、音と映像("Sound + Vision")が一体となって当時の写真をよりリアルに感じることができた。

 「写真ってどう見ればいいのか分からない」。
 写真展の後に同行者たちと話していると、こんな言葉が聞かれた。僕は技術的な意味で良い写真と悪い写真の区別をすることができない。ついでに言えば絵画の鑑賞時にも良い絵と悪い絵の区別ができない。無理やり絵画と写真の区別をするならば、絵は一定の時間をかけて自分の中にあるものを抽出していく作業で、もし失敗しても描き直すことができるけれど、写真は常に流れ続ける時間の中の一瞬を切り取る作業で、決してやり直しがきかない、極めて不可逆性の高い芸術のような気がする。別の例えをすれば、スタジオ録音とライヴ録音の違いのようなものだ。上述のイギー・ポップの写真にしたって、彼が両手でマイクをつかんで観客席の遠くに視線を投げた瞬間のポーズは、その夜のライヴの中で二度と再現されなかったものだ。似たようなポーズなら何度かあったかもしれない。だが絶え間なく流れる時間の中で、彼の筋肉が張り詰めた瞬間、照明の角度、固く結ばれた口元、何かを悟ったような視線、これらがひと括りになった「その一瞬」はただの一度しか訪れなかった。ミック・ロックが切り取った瞬間は美しい写真となり「時代のアイコン」となって僕らの心を動かし続ける。1972年の撮影から30年以上を経た今でも。

 だから僕らはレコードジャケットの写真やアートワークに惹かれ続ける。アートディレクターたちはレコードの販売促進のために雇われた仕事人だ。金を貰って写真を撮り、コラージュしてレコードの「顔」を作る。彼/彼女の考える「芸術性」は、レコード会社の方針との間で少なからぬ妥協が求められるだろう。大きく妥協したアートが何百万枚も売れる結果につながったり、独創性を発揮したアートが商業的大失敗につながったりもする。もちろんその逆もあるだろうし、そもそもジャケットなんてどうでも良くて、大事なのは「音」だよと主張する向きもあるだろう。ミック・ロックが撮影において妥協を迫られたことがあったかどうかは知らないが、こうして多くの写真が伝説的な価値を帯びて今でもファンを引きつけるところからすれば、本人もまんざらでもないに違いない。会場に展示された多くの写真は、60年代から80年代に至るロックシーンを実に生々しく写し取ったものばかりだ。「生々しい」とは使い古されたクリシェだが、むせ返るくらいにリアルな写真は正直言って気持ち悪いこともある。デヴィッド・ボウイが本当にこんな服を着ていた時代があったのか、オジー・オズボーンが太る前はこんなに澄んだ瞳をしていたのか、狂う直前のシド・バレットはこんなにも妖艶な魅力を湛えた男だったのか…

 よく指摘されることだが、グラム・ロックやニューウェーブ、パンクといったムーヴメントは、単にひとつの音楽ジャンルというだけではない。その枠を超えてアートやファッション、さらには若者のライフスタイルにまで影響を与えたもののようだ。歯切れが悪いのは自分がリアルタイムで経験していないからで、実際に写真を見ていても何やら割り切れない不可思議さは解消しなかった。多くのファンがステージ上のボウイやミック・ロンソンに向かって必死に手を伸ばしている。まるで彼らに触ることができれば、自分たちもスターになれるかのように。あるいは鬱積する苦悩から解放されるかのように。だが少なくとも僕は、今ライヴを観に出かけてそのように考えることはない。音楽は大好きだけれど、それは僕の生活とは完全に別の単なる趣味と割り切っているから。ヒット曲やその歌詞に影響されて自分のライフスタイルまで左右されることはないし、逆に簡単に左右される人を見ていると違和感を感じもする。そんなところまで暴力的に露わにしてしまうのが「写真」の怖さであって、僕が写真の被写体になりたがらない理由でもある。写真に撮られてしまうと、きっとすべて見透かされてしまうと思うのだ。写真は決して嘘をつかないから。そして同時に写真は無数の嘘をつくから。

 僕らは写真を無抵抗に受け入れすぎていないか? 写真に撮られている以上それは真実だと思い込み、画家が空想や妄想で描いた絵とは異なる価値を見出していないか? だからこそ「写真週刊誌」なるものが存在するのであって、あれが「スケッチ週刊誌」であればそもそも企画として成立しないわけだ。だが写真が「真を写す」ものでないことはちょっと考えればすぐに分かる。カメラがフレームに収めきれるのは全体のごく一部分に過ぎない。そのすぐ隣で全く別の事態が発生しているかもしれない。あるいは意図的に「編集」されているかもしれない。写真には常に誤謬が付きまとい、真実は歪められてしまう。要するに写真に写っているのは全体から切り取られた一部分に過ぎず、真実の一部は決して真実ではないのだ。ある人の一面だけ見て全人格を理解したような気になるようなものだ。これを無抵抗に受け入れるのは自己判断の放棄に他ならない。写真とダリやピカソの絵はどちらがより真実で、どちらがより虚構か? こんな問いにはほとんど意味がない。

 その意味でミック・ロックの写真展は明らかに「嘘」だ。ここにはアーティストのパブリックイメージ向上や煽動に一役買うだけのクオリティのあるものだけが並んでいるのであって、基本的に被写体を利するように撮影されている。しかし実際は展示されているもの以外の数倍、数百倍ものボツ写真がある。中には決して美しくないボウイのショットや、おどけたフレディのスナップもあっただろう。僕らの知らないそれらの写真の総体が「真実」を構成するわけだ。…いや、よく考えるとそれすら真実にはなりえない。だいたい、写真が実体になってどうするんだ。それは永遠にありえない。

 多くの写真を眺めるうちに僕にもおぼろげながら状況が理解できてきた。そもそも写真の魅力は真実の描写にあるのではない。一部分を切り取ったに過ぎないものはその時点で「真実」ではなくなり、むしろ虚実ないまぜになった編集感覚を楽しむべきものだ。嘘と真実の狭間で呼吸困難に陥った僕は、苦し紛れに手持ちのカメラ付きケータイ(PHS)で写真展のポスターを撮って事態を紛糾させることにより、辛うじてその場を乗り切ろうと試みた。この如何ともしがたい画質こそが「真実」だと力説することだって大いに可能だ。画質の如何にかかわらず、ミック・ロックが試みたことと本質的な差異はない。あたかも真実らしい顔をした数々の写真が抱える嘘と真実の混濁感。これこそがミック・ロック写真展の会場を出た瞬間の感想だった。

(August, 2003)

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