"Dry County" とボン・ジョヴィのポジティヴィティ


26 June 1995

 24日にボン・ジョヴィのライヴを観てきました。詳しいレポートは後日書くことにして、今日はその周辺でちょっと気になっていたことなどを。



★"Dry County" について。

 実は苦手な曲でした。過去形です。

 アルバム "KEEP THE FAITH" のリリース当初から、ロック系メディアのあちこちで「感動の超大作」とか「屈指の叙情詩」みたいな持ち上げられ方をされていて。自分的には(プログレじゃないんだから、何も10分もあるような長い曲やらなくたって…)という感じだったのです。プログレは大好きですが、ただ意味もなく曲が長いプログレはちょっと。ボン・ジョヴィには起承転結のはっきりした4分間ハードロックにこだわって、お家芸として磨きあげてほしい、という思いもありました。

 しかもこの曲は長いばかりではなく歌詞も重い。それも相当に。
 枯れた油田の町で、仕事もお金も希望もなく、死を待つばかりというような状況。「もし選べるのなら死を選ぶ/銃かナイフでやってくれ/でなきゃ毎晩毎晩苦しむだけだから」とまで歌うのです。暗く重く辛い情景。だめだめ、ボン・ジョヴィにこんな絶望的な楽曲は似合わない。歌う必要なんかない!

 …でも6月24日のウェンブリー・スタジアムを体験した今では、僕はそうは思いません。僕のボン・ジョヴィに対する価値観は、このライヴによってまさに根底から再構築されてしまいました。詳しくは近日中に発表される winter 渾身のライヴレポートを待て!



★ボン・ジョヴィのポジティヴィティについて

 ボン・ジョヴィは肯定的で、前向きなバンドだという印象を僕も持っています。それはしかし、彼らが明るく楽しい曲を演奏するから、っていう単純な理由によるものではないんですよね。ポジティヴィティとネガティヴィティは、そんなに「白」と「黒」みたいにはっきりと分けられるものではないような気がします。

 ジョンが言うには「人間なんだから、常にハッピーじゃいられない。時には怒るし、時には悲しくもなる。そういう感情があってこそ人間として存在していられるんだ」と。確かに。よく言った、ジョン。ただ、僕が思うにはポジティヴでない状態を描いた歌というのもまた、コインの表と裏というか、影法師と実体というか、実はそのままひとひねりしてメビウスの環のようにポジティヴィティにつながってくるような気がするのです。

 やっぱり、どこをどう読んでもボン・ジョヴィの歌詞には「辛いなあ、だからもう辞めちまおうぜ」ってフレーズはないわけで。「辛いし厳しいけれど、でも何とか頑張ってみようぜ」という方向につながっているような気がしてならないのです。つまり絶望的な "Dry County" の状況を歌う一方で、力強く "I Believe" と歌うジョンがいる。"Keep The Faith" を誓うジョンがいる。



 もう少し踏み込んでみると、上のジョンの発言の「人間として存在していられる」という部分、これを意識できた時点で、彼の歌はたとえ表面上でどんな表現が用いられていようとも、もはや揺るぎないポジティヴィティを獲得したと言っていいのではないか。

 ハッピーな歌を歌ってるだけならただのパーティロック・バンドでしかない。(もっともそれはそれで非常によろしい) しかし、"THESE DAYS" の境地に達した「今の」ボン・ジョヴィはもっと別の地平に立って歌を書き、歌っているのではないでしょうか。アーティストと作品は、時としてその歩調を異にします。ボン・ジョヴィの場合、"Dry County" はある意味で早く書け過ぎた曲だったのではないか。1アルバム遅れて、ようやく楽曲の本質を歌いきることができるくらいに、アーティスト側が追いついたのではないか。

 人には美しい感情も醜い感情もあります。ですがそれをひっくるめたところで「人間(という存在)」について歌い続けようとする彼らに、僕はソングライター/パフォーマーとしての信じられないくらいの器の大きさと、ポジティヴィティを感じてしまうのです。たとえ贔屓の引き倒しと言われようとも、ウェンブリー・スタジアムを埋めた約7万人が全員で声を枯らして合唱した "Always" のコーラスは、揺るがしがたい現実だったのですから。


January 2002 追記

 ほとんど追記すべき事柄はありません。すべてはこの後書かれるウェンブリーのレポートで明らかに。


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