New York State of Mind



 12月10日(月)からニューヨークに3泊してきた。

 それはやっぱり2001年9月11日、日本時間午後10時に遡る。僕はNHK総合TVで「ニュース10」を見ていた。「今夜はまず、たった今入ってきたニュースからお伝えします…」 アナウンサーは用意していたその日のニュース原稿を読むことなく、マンハッタンの摩天楼の中継画像に切り替えて現地の記者に様子を尋ね始めた。画面を見た自分は目を疑った。あの世界貿易センタービルにジェット機が突っ込んで炎上している。しかも、アナウンサーと現地記者がしゃべっている間に、2機めのジェット機がツインタワーのもう片方に突っ込んだのだ。リアルタイムで見せつけられたその暴力的な映像は、これまで秩序だと思っていたものが、実は全然そうではなかったということを何よりも雄弁に物語っていた。

 直接僕の生活に何らかの影響を及ぼしたかといえば、決してそうではなかったけれど、それ以降いろいろと考える機会が多かったのは確か。そしてまた、ひとりの米国ポピュラー音楽ファンとして、ニューヨークの現状をぜひこの目で確かめておきたかった。そんな素朴な気持ちが勝手に走り出して、気がついたら航空券とホテルの予約を済ませてしまっていた。

 旅行そのものの感想は、日記やなんかのコメントの方で読んでいただくとして、ここでは多少なりとも洋楽に関連するテキストをいくつかアップしておこうと思う。



 12月10日(月)午後9時頃。

 この日の午後6時頃にニューアーク空港に到着した僕は、シャトルバスに乗ってマンハッタン East 30th Street にあるホテルにチェックインし、荷物を置いてすぐに夜のニューヨークを歩き回っていた。巨大なデパートの Macy's や、Times Square を見ながらウロウロしているだけなのに、例えばロンドンとは全然違うある種の緊張感みたいなものを肌で感じる。例えばこの街は、サイレンが鳴り止むということがない。常にどこかのアベニューを、パトカーや消防車が走っている。

 僕はだいたいどの街に行ってもそこのレコード屋に入ってみる。この日もセブンス・アベニューあたりにあったHMVに足を踏み入れてみた。入口近くに平積みになっている Creed の "WEATHERED" もいいけれど、やっぱり吸い寄せられるようにCDシングルのコーナーに向かっていた。 …そこには、9.11 直後のエアプレイ集中に乗じて再発された Whitney Houston の "Star Spangled Banner" が。膨大な在庫として壁一面に並べられ。わずか $1.99 で叩き売られながらも買っていく人は誰もおらず。それがNYの現状。

 一歩出て街を見れば、あちこちのビルの正面に掲げられた巨大な星条旗。街中を埋め尽くす STARS & STRIPES を、僕ら日本人はある意味カッコいい、洗練されたデザインだと思いがちだけれど、もしこれが戦争状態にある日本で、日の丸が街全体を覆っている状態だと想像してみたらどうだろう? これほど異様で、居心地の悪い空間はない。少なくとも自分にとっては。あまりに明白で当たり前のことは、ときどき視界から消えてしまうことがある。ひょっとして僕らは、すごく大切な何かを見落としてるんじゃないか?

 21時で閉店になったHMVを出て、南へ向かって街を歩く。
 目指すはエンパイア・ステート・ビル。

***

 Sade の2作目 "PROMISE" は大好きなアルバムだ。まずタイトルがいい。もともとは "HONESTY" にしようとしていたのを、単にストレートで前向きな雰囲気を出すだけでなく、何か意志のようなものを示したくて "PROMISE" に決めたというそのタイトル。そして、オープニングを飾る壮大な "Is It A Crime?" がいい。僕はこの曲がとても好きで、何回聴いても少しも飽きることがない。別れた相手に、今でも貴方のことを想うのは罪なことかしら?と切々と歌いかけるこの曲の中に、こんなフレーズがある。

♪My love is wider, wider than Victoria Lake
 My love is taller, taller than the Empire State


 ヴィクトリア湖とエンパイア・ステート。もちろん Lake と State で韻を踏むのだけれど、例によって Sade Adu のビブラートなしの淡々としたヴォーカルでさらりと歌われる "the Empire State" はとてもリアルた。高さの象徴であるそのビルの展望台に、僕は上ることにした。

 Breathtaking view、というフレーズがある。まさに日本語で言う「息を呑む光景」。エンパイア・ステートの上から眺めるマンハッタンの夜景の美しさを言葉にするのは野暮というものだろう。360°、見渡す限りゆらゆらと揺れる光の海。南北に伸びるマンハッタン島そのもののネオンはもとより、ハドソン川やイースト川を隔てた向こう岸の明かりや、こちら側と結ぶブルックリン橋やマンハッタン橋その他がすべて、オレンジ基調でライトアップされている。この繁栄ぶりを目の当たりにすれば、ここが世界の中心かと驕り高ぶってしまう気持ちも理解できなくはない。でも地球が球体であるならば、すべての地点は世界の中心。そんな簡単なことも分からなくなってしまうのか。

 南北に何本も走るアベニューを、目で南側に追いかけた先には Lower Manhattan がある。かつて2本の巨大なタワーが建っていたはずのエリアにはぽっかりとスペースが空き、夜の10時だというのに四方から照明が当てられ、煙たなびく中で瓦礫の除去作業が行われているようだった。紛れもなく、World Trade Center は消滅してしまっていた。



 12月11日(火)午後3時頃。

 僕はニューヨークのセントラルパーク西端にある、ストロベリー・フィールズにいた。この日は朝から、グッゲンハイム美術館⇒メトロポリタン美術館⇒セントラルパーク散策⇒自然史博物館⇒ダコタアパートへと、ひたすら歩き回っていた。

 ニューヨークのマンハッタンはそれほど巨大な島というわけではない。それでも北端から南端まで徒歩で縦断するとなると相当な距離だ。セントラルパークの横断+?くらいなら何とかなるが、各美術館・博物館がいちいち巨大なので、歩いた道のりも相当なもの。僕はかなり疲れており、ダコタアパートを斜めから眺めるベンチに腰を下ろして、しばらくぼんやりしていると、目の前の歩道をブラックの女性2人が乳母車を押しながら歩いていく。乳母車の中にはそれぞれホワイトの赤ちゃん。つまりベビーシッターだ。人種間の明確な仕事の差違。この後ニューヨークのあちこちで見かけることになる風景だった。

 ストロベリー・フィールズに足を踏み入れることには、少々ためらいがあった。僕は決して、ジョン・レノンの熱心なリスナーではなかったし、ビートルズの大ファンというわけでもない。だが September 11th 以降は彼の音楽に触れる機会が多く、ジョンの考え方にも馴染みつつあった。どこなんだろうと探すつもりで歩き出した僕の前に、あっという間に出現したそのスペース。ダコタアパートから見下ろせるその一角は、拍子抜けするほど小さかった。

 …ぼんやりしたまま何もせず、20分ばかりその場に佇んでいたような気がする。その間、人が訪れては去っていくストロベリー・フィールズ。"IMAGINE" と刻まれたそのサークルでは、ロウソクが消えることがない。訪れたファンたちは、心の中でジョンに何かを語りかけているのか、僕と同じように静かに佇む人が多かった。ジョンへの手紙や花束がいっぱいだったが、時節柄目立っていたのは、先日亡くなったばかりのジョージ・ハリソンの写真や彼が表紙になっている各種雑誌や新聞記事、さらにはジョージ宛ての手紙やジョージが亡くなったことをジョンに伝えようとする手紙の山だった。静かなビートルと呼ばれた男がジョンのところに行ってしまったのだということを、僕は遥かニューヨークのこの地に立って初めて身体全体で認識した。

 ふと顔を上げると若い母親が小さな女の子を連れて散歩に来ていた。女の子がサークルの周りを歩き回って、手紙や雑誌を指差しながら声に出して読んでいた。たくさんの手紙に出てくる George Harrison という名前に気付き、女の子は母親に尋ねた。"Mom, who is George Harrison?"

 「それはこの人のことよ」 捧げられていた PEOPLE 誌の表紙写真を指差して、母親が教える。「この人はね、この間亡くなってしまったの」「ふうん… なんか痩せてるねこの人」

 しかし、母親は娘の次の質問には答えることができなかった。
 「ねえお母さん、どうしてストロベリー・フィールズなのにここにはリンゴ(Apple)がたくさんあるの?」
 「さあ、どうしてかしら。変ねえ」

 ストロベリー・フィールズの写真をご覧いただければお分かりのとおり、赤リンゴ・青リンゴがたくさん置いてあった。だがこの若い母親にはビートルズとリンゴの関係がわからなかったのだ。世代を考えれば当然のことかもしれない。そう思っていると、やはりこの場に巡礼に来ていたひとりの老人が静かに母親に語りかけた。「その昔ビートルズが Apple レーベルというレコード会社を興してね。その関係でここにリンゴを捧げる人もいるんだよ」「そうなんですか… 私全然知りませんでしたわ。アップル・レーベルなんて…」 女の子は既に興味を失って母の手を引きながら、もう帰りたそうにしていた。

 そんな会話を耳にしながら、僕もセントラル・パークをあとにした。夕刻が迫り、空気も次第に冷たくなり始めていた。



 12月12日(水)午前11時頃。

 ブルックリンに渡ることにした。Steely Dan がアルバム "CAN'T BUY A THRILL" 中の "Brooklyn" "♪Brooklyn owes the charmer under me...." と歌ったブルックリンに。

 地下鉄でマンハッタンを南/Downtown 方向に一直線に下る。ウォール街を通り過ぎるあたりから、乗客の中心層が変わってくる。簡単に言えばホワイトがいなくなり、ブラックとヒスパニックばかりになるということだ。チャイニーズと思しきアジア系もほとんどいない。ブルックリンも中心部のプロスペクト・パーク辺りまで行けば芸術家の卵たちがこぞって住んでいたりするのかもしれないが、川岸寄りのブルックリンハイツを歩き回った感じでは特にそういう印象は受けなかった。メインストリートのフルトンストリートモールも、ゴツいブラックのお兄ちゃんやブリブリのヒスパニックお姉ちゃんが溢れていて、正直ちょっとおっかない雰囲気ではある。それは別にブラックだからおっかないとか言ってるんではなくて、明らかにアジア系がほとんどおらず、街の中で浮いてしまっていたから。逆に言うと、マンハッタンのチャイナタウンに行けば非アジア系はやっぱり少数派になってしまう。

 イースト川沿いのブルックリンハイツ遊歩道にたどり着こうと、メインストリートから外れてひとりで歩き出したところ、ちょっと方向感覚を失った。歩けば歩くほど、道が寂しくなり周りに誰もいなくなる。ときどきすれ違う住人たちが投げかける視線が気になる。不思議と鼓動は早くならなかったけれど、いつ何かあってもおかしくない、刺すか刺されるかそんな緊張感を完全に捨てきることは難しい。ニューヨークという街では。結局、Atlantic Avenue にぶつかって何とか川岸の方向が分かり、ブルックリン橋までたどり着くことができた。


 12月12日(水)午後10時頃。

 結局この日はブルックリンからマンハッタンに戻り、世界貿易センター跡地を眺めたり、ウォール街を歩いたり、カーネギーホール前を通ったり、美味しいカレー屋さんでカレーを食べたりして1日が終わる。

 ホテルに戻ってテレビを点け、バドワイザーを飲んでいると、MTVで Jay-Z の特集をやっていた。Jay-Z といえば今や Hip-Hop 界でもっともセールスを挙げる(しかもストリートの信頼も失っていない)アーティストに成長した。そんな彼もやはりブルックリン出身。MTVのドキュメンタリーの中で、今や大スターになった Jay-Z がブルックリンに戻り、繁華街を車で流すシーンがあった。まさに今日の午前、自分が歩いてきた街だ。Jay-Z、いや街のゴロツキに過ぎなかった本名の Sean Carter に戻ったその男は画面の中で、昔よく通っていたという馴染みの店に顔を出す。まさに自分が今日の午前に前を通った、フルトンストリートモールの Junior's Cafe だ。懐かしい旧友との再会も演出され、「サインしてやるよ」という Jay-Z。あの殺伐としたブルックリンが、急速に身近に感じられ始める。

 番組が切り替わり、この秋に収録した話題の Jay-Z in MTV Unplugged の再放送となった。
 The Roots をバックバンドに据えて、生演奏でアコースティックなグルーヴを生み出しながら、いつもどおり飄々とライムを乗せていく。新作 "THE BLUEPRINT" から数曲やった後は、グレイテストヒッツ状態だ。特に "Can I Get A..." "Hard Knock Life" "Ain't No Nigga" とメドレーで畳み掛けるあたりの構成はさすがにカッコいい。続いて "Can't Knock The Hustle" にかかろうというところで、期待どおりに Mary J. Blige が出てくる。あまりにも豪華なバックコーラスシンガーを従えて、Jay-Z も終始にこやかだ。お返しに Mary に "Family Affair" をワンコーラス歌わせるおまけまでついたが、ここでの Mary の声のぶっ壊れ方と煽りっぷりには正直言って驚いた。これだけでもこの Unplugged を聴く価値がある。

 Jay-Z 本人にはそれほど思い入れがなかったのだけれど、ブルックリンの乾いた街並みと人々の視線を思い出しながら聴くと、ライムのリアリティは強烈だ。どんなに大金を稼ぎ出すようになっても、常に「ストリート」の視線にこだわり続ける Jay-Z のスタイルは、少なくともマーケティング手法としては正解だろう。ポップミュージックとして最大限に有効なトラックとライムと、何より他を圧倒する存在感。こういう優れたパフォーマーには、これからも思いきり制作活動を続けてほしいと思う。


 12月13日(木)午前5時頃。

 眠ろうとしたが、結局ほとんど眠りにつくことができなかった。外ではひっきりなしにクラクションやサイレンが鳴り響いている。この街自身も、眠りにつくことができずにいるようだ。

 ベッドの中で何度も寝返りを打っているうちに、やがて出発の朝がきた。


(December 2001)

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