Diary -July 2003-
バックナンバーはこちら / 冬 メイル | |
31 Jul 2003 Thursday |
「10日間で男を上手にフル方法」 という映画の一面広告が今日の夕刊に載っている。ケイト・ハドソン主演の映画の筋などまあ割とどうでもよろしいのだが、小さなコラムにまとまった「読者 の失敗例」が面白い。女が語る「私がフラれたワケ」と男が語る「僕がフッたワケ」の一覧。 前者はたとえば「彼氏との記念日よりもコンサートを選んだ」(23歳・Nさん)とか、「付き合って間もない頃に、所かまわずキスをせがんだ」(18歳・ Iさん)とか、「『ほんとにアタシのこと好き?』と不安になった時いちいち愛情確認してしまった」(27歳・Kさん)とかいろいろ挙がっている。要するに こういうことをされると男性は引く、ということだろうか(もちろん個人差はある)。「僕がフッたワケ」もだいたいこれらに呼応する形だ。たとえば「時間に ルーズで、待ち合わせ時間に来たためしがなかった」(22歳・Kさん)、あるいは「家の前でしつこく待ちぶせされた」(28歳・Tさん)、「尽くされすぎ てイヤになった」(28歳・Tさん)など。なかなか難しいねえ。こんなのもある。「付き合って早々、親に会わせられ、そのうちデートにまで父兄同伴になっ た」(25歳・Jさん)。 *** あまりに忙しくて、人生が複雑になりすぎると、フライング・キッズの「幸せであるように」を猛烈に聴きたくなる。どうやら僕は周期的にあの歌の持つ力に 引き寄せられるようだ。 |
30 Jul 2003 Wednesday |
「ボサボサに伸ばした…」 髪がどうしても気になったので、業者との打ち合わせを切り上げるとすぐに行きつけの店に電話を入れた。営業時間は20時までのはずだったが、電話応対は 爽やかで、20時ごろの到着でも構わないという。そこで吉祥寺に向かう電車に乗るべく、職場を後にした。今日の仕事にどこで線を引くかは微妙なところだっ た。自分の基準からすると、今夜も終電かそれを超えてタクシー帰りになるところだったが、もう我慢ならなかった。週末は一向に自分の時間が取れず、平日は 深夜の帰宅という生活では、一体いつ髪を切ればよいのか。 店長とはデュラン・デュランの来日公演について盛り上がった。彼は見られなかったのだという。それはとても残念なことだ。演奏そのものも然ることなが ら、80年代に青春を過ごした僕ら30代半ば〜後半の世代にとって、特別な意味を持つ夜だった。彼がネットからダウンロードして聴きまくっているという ABCやスパンダー・バレエも確かに素敵で、僕も今でも大好きだけれど、デュラン・デュランのオリジナル5が一堂に会したあの夜の興奮は一生忘れられそう にない。 髪を切り終わって21時。吉祥寺から仙川に向かう最終バスは21時15分発だ。乗れたのは良かったが、運転は実にひどいものだった。お客さんを乗せてい る意識があるのかどうかも疑わしい荒々しさで、吊り革につかまっている僕らは一様に顔をしかめた。運転手は日中に何か嫌なことがあったのかもしれない。け れどこういう表現方法をとるのは適切でない。果たして僕は常にクールに淡々と仕事をこなせているだろうか。思わず我が身を振り返らずにいられない帰路だっ た。 *** 結論から言えば僕には大いに波がある。今日だって自分の許容量を超えたと見るや、あっさりと諦めて髪を切りに出かけたくらいだから。もっともこの分は明 日の朝取り返す。朝5時半に起きて6時半に家を出れば、7時過ぎから9時までの約2時間、ほぼ誰にも邪魔されずに集中して書類を作り上げることができるか ら。そのためにも今夜はもう眠らなければならない。こうして自分の意思だけで自由自在な時間の使い方ができる生活ほど貴重なものはないことを、強く思い知 る今日この頃。 何かひとつでも他人の役に立てれば、その夜はぐっすり眠ることができる。今日は誰かの役に立てただろうか。そうだ、アメリカから届いた知人のメールに、 彼女が最近ジョアン・ジルベルトのライヴを見たとあったのを読んで、他のボサノバ好きの知人にジョアン・ジルベルト初来日公演についてお知らせしたのだっ た。ジョアン・ジルベルトは、ボサノバというジャンルを確立した言わば生みの親のような存在だ。6月初めに発表されて大いに話題になった彼初めての来日公 演は、かなりの勢いでチケットが売り切れつつある。お知らせした知人も慌てて買ったらA席しかなかったとのことだが、買えなかったよりは良かったに違いな い、と自分に言い聞かせつつ。 *** えっと、タイトルは「ボサノバ」の駄洒落でした。 サムすぎるのでもう寝ます。アイ・アム・サム。 |
29 Jul 2003 Tuesday |
「12歳の性と死」 というタイトルのコラムが今日付けの朝日新聞夕刊に掲載されている。例の渋谷で行方不明になり手錠をかけられて監禁されていた4人の少女たちの事件と、 しばらく前に中国自動車道で12歳の少女が監禁されていた走行中の車から飛び降りて結局死亡した事件あたりをとっかかりに書かれたものだ。筆者の芹沢俊介 氏は、「性の市場価値としての自分にいとも簡単に誘惑されてしまう少女たち自身の問題」が気になるという。そこには自己という存在への信頼が欠けていると いうのだ。 だが僕に言わせれば自分自身、自己という存在への信頼など持てたためしがないし、そんなものを強固に持っていると言い張る人がいたとすればむしろどこか 怪しいと思わずにいられない。芹沢氏は続ける。「自分は自分であっていいという自己への信頼が培われるためには、<いまここに・安心して安全安定的に・自 分が自分としてある>ことをしっかりと保障された体験を不可欠とする。いうまでもなくそのような体験を保障するのが大人である。少女たちには、全的に自己 をあずけうる、そのような信頼できる大人に出会ってきていないのではないか」。 それはそうなのだけれど、だからといってこれらの事件は大人の責任でした、の一言で片付けられてしまっても困る。芹沢氏はここから長崎の12歳の少年が 幼児を誘拐して死に至らしめた事件と神戸の酒鬼薔薇聖斗事件を引き合いに出しながら、これらの少年が死の衝動と連動するほどに深い自己存在への否定感覚に とらわれていたのではないかと考える。神戸の少年は自分の人生を無価値だった、生まれてこなければよかったと語ったという。僕にとってはそれほど驚くに値 しない台詞だし、同じように考えながら日々を過ごしている人はおそらく少なくないだろう。 そもそも家庭なんてものは、子供にとって少しも安心して・安全に・安定的に自分が自分でいられる信頼的環境などではない。そのこと自体は僕にとってどう でもいい問題になりつつあるのだけれど、ひとつだけ言えるのは、それでも何とか耐えて生き延びれば、後に自分が自分でいられる信頼的環境を作り出し、その 中で暮らすことは不可能ではないということ。何とかそこまでたどり着くことができれば、無闇に人を殺したり自ら命を絶ったりする事件は激減するだろう。だ がその道のりは、なんと暗く曲がりくねった、落とし穴だらけの寂しく長い夜道であることか。 *** AFN810kHzは平日夜に日替わりでブラックやカントリーやクラシック・ロックなどを何時間もかける番組を放送していたが、先週くらいから「the best of 80s, 90s and today's music」と称して、最新ヒットからここ20年くらい前までのヒット曲をランダムに織り交ぜてプレイする番組に代わった。今は Wang Chung の "Dance Hall Days" がかかっている。自分にとっては非常に好ましいセレクションなので、しばらくはこのスタイルで放送が続いてくれるといいのだけれど。僕にとって、AMラジ オから80年代の洋楽が流れてくる部屋ほど自分が自分でいられる信頼的環境はないのだから。 曲は今、 Bryan Adams の "Cuts Like A Knife" に代わった。 |
28 Jul 2003 Monday |
「暑い夏の夜に」 渋谷のライヴハウスは異様な熱気に包まれていました。Evanescence@渋谷AX。今年最大の盛り上がりを見せている女性ヴォーカル入りゴシック・メタルバ ンドとあって、チケットは早々にソールドアウト、超満員。僕は先物買いが苦手なので、めったにアルバム1枚のバンドのライヴは観に行かないのですが、今日 のコンサートは期待通りのカッコよさでした。エイミー・リーはアルバムどおりの素晴らしく伸びのあるヴォーカルを聴かせてくれましたし、バックバンドもタ イトな演奏でした。全身を振り絞るようにして歌うエイミーにものすごい歓声が上がってましたね。確かに初ライヴものは外す可能性もありますが、逆に1度し か見られない、その時限りのスリルというのもあります。お金と時間に余裕があればもっともっと足を運びたいものだと思いました。おしょうさんどうもありが とうございます。 その後職場に戻って仕事の残りを片付け、帰ってくるともう23時過ぎ。明日は普段より早く職場に着かなきゃならないから、もうそろそろ眠ります。おやす みなさい。 |
27 Jul 2003 Sunday |
「涼しい夏の夜に」 今年は本当に涼しい日が続いています。夜から明け方にかけてなんて、僕の部屋には寒いくらいの風が吹き込んでくる。そろそろ梅雨空もおしまいになって、 その後は例年どおりの熱帯夜が始まるのかな。もう少しだけ、この涼しい風に吹かれながら考えごとをしていたい。 *** すべてはぬか喜びでした! WOWOWは突然見られなくなり、自分のTV映画環境はやはり深夜のB級映画群に逆戻り。何かの間違いで数日間だけ映っただけのようでした。まあいいさ。 週末に録画できた「シザーハンズ」でも観ながら静かに考えことをしていたい。 |
25 Jul 2003 Friday |
「この素晴らしき世界」 下高井戸シネマでマイケル・ムーア監督の『ボウリング・フォー・コロンバイン』を観てきました。アカデミー賞を受賞したことで話題になったドキュメンタ リー映画です。コロンバイン高校での銃乱射事件をきっかけに、銃社会アメリカの抱える問題を鋭くえぐる企画になっています。ちなみに僕の父は警察官でし た。警察の拳銃射撃大会で優勝したこともあったと自慢げに語ってくれたこともあります。僕自身は拳銃に触ったことはないし、実物をまじまじと見たこともあ りません。父親も射撃場で練習していただけだろうし、銃口を人に向けたことはないはず。ずっと交通畑の勤務だったしね。 僕はアメリカにあまり縁がありません。米国のカルチャーには相変わらず興味があるけれど、実際に出かけたのは9.11の後のニューヨークだけ、それも たったの3泊5日です。夜中までパトカーのサイレンが鳴り止むことはありませんが、夜のタイムズ・スクエアを歩く程度では普通銃声を聞くことはありませ ん。ブルックリンに渡って道に迷いかけたときはさすがに少々怖くなりましたけれど。 いったい僕らの住むこの社会と、米国との違いは何なのか。マイケル・ムーアの疑問もそこに集中しています。もっとも彼の視点は逆。彼自身が全米ライフル 協会の会員であり、ドアに3つも鍵をかける「アメリカ人」であるから。彼は誰もドアに鍵などかけないカナダの街に出かけてびっくりします。もちろんアメリ カといっても州によって規制はさまざまでしょうが、彼の投げかける問題意識、つまり根強い黒人差別とそれを助長するTVメディア等による洗脳という点には 注目すべきでしょう。アメリカ白人は歴史的にそもそもビクビクしており、常に何かを恐れて自分を過剰に守る(=他者を殺戮する)ことでしか安心できない生 き物である、という指摘はなかなか刺激的です。 「ルール・ザ・ワールド」の歌詞はここでも有効なのでした。「そんなもの要らないって言っちまえよ」。みんなが一斉に銃を捨てることができれば銃社会の 恐怖から脱出することができるはずなのに、絶え間ない疑心暗鬼に陥ってしまったあの社会においては、もはや誰もそうすることはできないようなのです。膨大 な銃と弾を買い込み、二重三重に家をロックしながら、人は人を殺し続ける。いつまでも。 コロンバイン高校の生徒がかける911(日本の110番・119番にあたる)の録音テープの切迫した音声にかぶさるルイ・アームストロングの「この素晴 らしき世界」は、この映画最大の見せどころのひとつでしょう。学校内のカメラが捉える乱射シーンの画像に素晴らしい音楽を重ねるこの手法はマイケル・ムー アのオリジナルではありません。先にロビン・ウィリアムス主演の映画『グッド・モーニング・ベトナム』でほとんど同じ使い方をされている曲ですが、こうし て聴くとやはり効果絶大。のどかなストリングスと穏やかなサッチモのしゃがれ声が相まって、強烈な印象を残すシーンになっていました。 |
24 Jul 2003 Thursday |
「木曜日の本」 プログレ者なら「土曜日だろ!」とツッコむところ。最近、といってもここ半年くらいに読んだ本の中からいくつかご紹介。 ★「読書力」 (齋藤 孝著・岩波新書) まず最初にお断りしておくと、この齋藤 孝氏にはどうも胡散臭いイメージがあっていけない。「声に出して読みたい日本語」のような他人の文章の引用寄せ集めでヒットを飛ばしたのもマイナス印象 だったし、「三色ボールペンを使って」云々には正直、萎えた。とはいえ、その後も驚異的なペースでプチヒット作をリリースしているし、どうやら本人は大真 面目らしいから困ったものだ。 この本は彼の持論のひとつである「読書は自己形成の糧であり、コミュニケーション力の基礎となる」という考え方を徹底的に具体化したもので、平たく言う と「文庫100冊、新書50冊をとりあえず読め」という主張に貫かれた読書の効用論だ。一つひとつの主張は僕自身が普段考えているものと非常に近い(図書 館のあり方とか、そうはいっても自腹を切って本を買えとか、友人に会ったら最近読んだ面白い本の話をするとか)にも関わらず、通して読むとどうしてこんな にイライラするのだろう。はっきり言ってはた迷惑な本である。 何故だろうと考えてみたのだが、ひとつには自分が普段から思っていたことをあまりにあっさり書かれてしまったので、「そんなことなら俺が書きたかった よ!」という嫉妬であったり、ひとつには読書なんぞというものはどこまでも私的な行為なのであって、こうして白日の元に技法を晒すのはハシタナイという感 覚であったりするのかもしれない。自分なりに30年近くかけてたどり着いた読書のスタイルを覗かれたり、他人のそれを覗いたりすることがセックスの覗き見 以上に不謹慎な気がしてしまう自分にとって、近年まれに見るイタイ本だった。 ★「超文章法 伝えたいことをどう書くか」 (野口 悠紀雄著・中公新書) 「超」シリーズは個人的には読んでもよいし、読まなくても別に困る類の本じゃないと認識してるのだけれど、いったん読み出すとそれなりのリーダビリティ を持ってるから困ったものだ。野口氏はわずか数ページで収まる要点を引き伸ばして新書クラスの文章にしてしまう能力に長けているが、そのノウハウの一端を 窺い知ることができる。核心の部分はのらりくらりと逃げている印象もあるのだが、場つなぎのコラムや、彼お得意のキャッチフレーズ攻撃がいちいち面白いの で最後まで読めてしまう。 ある程度文章を書いてきた人なら既に十分認識できているであろう「コツ」や「注意点」が列挙されているだけなので、新たに得るものはないかもしれない。 それでも例えばプロット作りの項で「冒険物語は共通のストーリー展開をする」という形でコンパクトにまとめられると「ほほう」と思わされるから不思議だ。 それによれば、多くの物語は共通の骨組みを持ち、ディテールのバリエーションがあるに過ぎないという。つまり、 (1) 故郷を離れて旅に出る。 (2) 仲間が加わる。 (3) 敵が現れる。 (4) 最終戦争が勃発する。 (5) 故郷へ帰還する。 の繰り返しなのだという。言われてみれば「指輪物語」も「ハリー・ポッター」も「オズの魔法使い」も「スター・ウォーズ」も「桃太郎」も「西遊記」もす べて同じ展開なのだった。あまりびっくりしませんか。そうですか。 *** もっと紹介しようと思ったが力尽きました。続きは別の機会に。 |
23 Jul 2003 Wednesday |
「純情派が心中しちゃったり」 仕事は相変わらず山積みで全然終わらないというのに、17時には職場を出て六本木に向かわなくちゃならない。別に遊びに行くんじゃなくて、エクアドル大 使館が主催する某業界向けカクテルパーティに出席せよとの命令を受けてのこと。行ってみて初めて知ったのだけれど、中南米の小国はほとんど同じビルに大使 館を構えていて、各フロアの各部屋がまるで世界地図の中南米エリアのようにぎっしり埋まっているのだった。大使は白髪のジェントルマンで、穏やかなスペイ ン語で挨拶をこなす。職業的外交官かくあるべし、といった感じだ。彼を含め、挨拶すべき相手に挨拶して名刺交換を済ませると、抜けにくくなる前に早々と失 礼することにした。 帰り際に寄ってみた六本木ヒルズは巨大な迷路のようだった。初めて行ったせいもあるけれど、果たしてあそこまで複雑にして広大な スペースが必要なのかな? あちこちのフロアを歩き回りながら、詰まるところ僕はこの種の巨大施設が得意でないことを再認識しながら去ることになった。というより、六本木という街自 体が得意でないようだ。得意でないのみならず、ほとんど足を踏み入れたことすらない。自分のよく利用する中古レコード屋がないというのが表向きの理由だけ れど、やはりあの街を面白いと思えるようなライフスタイルに無縁だというのが本音のところ。 帰り際、自宅近くの Pasta Frolla というお店で夕食をとった。以前から気になっていた自然食系のパスタ屋さんだが、いつ見てもお客さんが入っているだけあってとても美味しかった。パンひと つとっても素材が吟味されているのがよく分かる。ウッディな内装やカウンターにさりげなく置かれた洋書のインテリア写真集、小音量のジャズBGMなど、細 かいところにも気が利いている。おひとりさまでも気軽に立ち寄れそうな雰囲気が大変気に入ったので、ペーパーバックでも持って散歩がてら足を運ぶようにな るかもしれない。 |
22 Jul 2003 Tuesday |
「ルール・ザ・ワールド」 夏っぽい曲というのがありますね。ジョー・サトリアーニにはその名も "Summer Song" という曲があるし、プリンセス・プリンセスの「世界で一番熱い夏」はやはり夏に聴きたい。デイヴ・リー・ロスの "California Girls" あたりも夏っぽいし、サザンオールスターズやTUBEなんて夏&海岸の御用達でしょう。個人的には真心ブラザーズの「サマーヌード」を聴くだけであっとい う間に「はしゃぎすぎてる夏の子供」になれるくらいです。 Tears For Fears の "Everybody Wants To Rule The World" もまた、自分にとっては夏をイメージさせる楽曲。トロピカルなイントロからスムーズに導かれるメロディライン、しかしそこにはややシリアスな歌詞が乗っ かっています。決して重苦しくなることなく、あくまで爽やかなTFF宣言として歌い上げられるその歌詞を、自分なりに意訳してみました。 "Everybody Wants To Rule The World" - Tears For Fears ようこそ「人生」へ 生まれてきたからにはもう後戻りはできないよ わかっているさ 君は眠って夢を見てる間であっても 常に最善の行動をとろうとあくせくしてる 母なる自然に背を向け 何かを我慢しながら 君だけじゃない 誰もがこの世界を支配しようと思ってるんだ 僕は独りで計画を立てては 自分独りで激しく後悔する 誰か僕の心を決めさせておくれ 自由と喜びを何よりも大切にしたいんだ 永遠に続くものなどありはしないというのに 誰もがこの世界を支配したがってる 光すら差し込まない暗黒の部屋で 壁が崩れ落ちてくる時はしっかりと手をつなぎ合っていよう 奴らが攻めてくる時は僕がすぐそばにいてあげるから 勝ったといっては喜び 負けたといっては悲しみ 誰もが世界を支配したがってる でも僕は我慢できない こんなにも先を見通すことができず 物事を自分の頭で判断する力のない社会なんて 誰もが世界を支配したがってる 新聞の見出しなんて全部まやかしさ そんなもの要らないって言っちまえよ 奴らの言葉を真に受けちゃだめだ 誰もが世界を支配したがってる すべては自由と喜びのため 永遠に続くものなどありはしないのさ 誰もが世界を支配したがってる これは原詞を読んで、僕がイメージしたヴィジョンや、心に浮かんだ言葉で作った私訳に過ぎません。勝手に言葉を補ったり端折ったりしています。 Tears For Fears の2人が具体的に何を伝えたかったのかは彼らにしか分かりませんし、このアルバムを購入した全世界の1,000万人近い聴き手の一人ひとりは、それぞれ異 なる印象を受けたはずです。 リリース当時、反核テーマの曲だと聞いたこともあります。とすれば「光も届かない真っ暗な部屋」は核シェルターを意味しているのでしょう。しかし、それ も含めてもっと広い意味での「世界支配」が歌われているようでもあります。僕などがこの曲から感じるのは、世間体を気にしながらチマチマした人生を生きる ことの虚しさや、マスコミの報道に踊らされて思考停止に陥り、自ら判断する能力を失った「大衆」への警鐘、といったテーマですが、もちろん他の解釈だって ありでしょう。いずれにせよこの歌詞における主人公は Freedom と Pleasure に最大限の価値を置く一方で、Nothing ever lasts forever という徹底した無常観を持ち、何かに縛られて生きるのだけは最悪だと思っている。これは僕自身の価値観に近いものでもあります。 今聴き返しても実に味わい深い、哲学的な楽曲です。同様のトーンに貫かれた収録アルバム "SONGS FROM THE BIG CHAIR" もまた非常に聴き応えがあり、今でも全く古びていません。こうした作品が平気でナショナルチャートの1位に立ち、社会全体がその問題意識を共有した時代が あったことを考えると、つくづく1980年代の英米ポピュラー音楽というのは凄いムーヴメントであったと思うし、あの時代を体験できたことは自分にとって の何よりの財産になっていると思うのです。 |
21 Jul 2003 Monday |
「B級シアター3本立て」 連休は溜まったビデオの消化に追われました。これから録画する映画が急増する予定なので、今すぐ観なきゃ困るのです。というのは、うちのTVでなぜか WOWOWが観られることに今頃気づいてしまったから。住んでいるマンションにはCATV回線が入っていて、とりあえずTVにつなぎ込んであります。基本 的には契約しないと観られませんが、無料サービスでTVKやMXTVが観られます。…が、WOWOWまで観られるとは知らなかった。何と2年半近くも気づ かなかったよ… というわけで、これからはWOWOW録画三昧、たぶん地上波深夜のB級映画を観る機会も減るでしょう。いや無理か? 何せB級映画自体を偏愛している自分だからね。 ★「ベリー・バッド・ウェディング」(1998年米国) これは本当に very bad な映画だった。そもそも原題に結婚式など存在せず、正しくは Very Bad Things という。キャメロン・ディアスとクリスチャン・スレイターがクレジットされているので期待して観ちゃうと大変なことに。クリスチャンはまあいいとしよう。 血も涙もない人殺しを危なさたっぷりに演じてくれる。でもキャメロンはどうなのか。「メリ首」と同じ98年作品ながら、ここまで彼女を使いきれていない作 品もすごい。ブラックジョークなのかユーモアのつもりなのか、いろいろな意味で後味の悪い映画。アメリカって病んでるなー。 ★「ガールファイト」(2000年米国) うって変わってひどく後味の良い映画。アメリカってさすがだなー。NYの貧困家庭に生まれたヒスパニックの女の子が、ボクシングを通じて自分自身を確立 していくストーリィ。平たく言うと「リトル・ダンサー」の男女の役割を引っくり返したような設定。 粗すじだけ聞くとつまんなそうだが、なかなかどうして見せてくれる。まずボクシングのシーンが比較的しっかりしていること。ここが手抜きだとお笑いに なってしまう。そして、主人公の家庭問題(父親のDVによる母親の自殺)や、恋人(やはりボクサー修行中)とのすれ違いなど、一筋縄では行かない展開に引 き込まれてしまう。主役のミシェル・ロドリゲスはハスキーな声が印象的で、トレーニングしながらどんどん引き締まった身体つきになっていく。口が悪くて喧 嘩っ早いが、実は壊れそうな心を抱えているキャラクターを実に魅力的に演じる。彼女のトレイナー役だったジェイミー・ティレリもいい味出してるね。 地味だけど良心的な映画の好例。 ★「U.M.A. レイク・プラシッ ド」(1999年米国) これはB級動物パニック映画史上に残る怪作だろう。噂には聞いていたけれど、ここまで凄いとは思わなかった。凄いのは「謎の生命体」(=U.M.A.) じゃない。大体そいつはUMAでも何でもなくて、ただの○○なのである。まあその点は多くのレビューでネタが明かされているので今さら伏せることもない し、実際CG映像はかなりの迫力で撮影されているけれど、それにしても結局○○である。しかもそいつが湖にいる理由の説明など一切されない。この潔さがた まらない(と思えるかどうかで、この映画の評価は全然変わってくる)。 この種の恐怖ものにしては異常にテンポの良い脚本と、圧倒的に分かりやすいキャラクター設定(特に変人系のヘクター(オリバー・プラット))、笑える台 詞回しに「おや??」と思っていたら… やられた。本作のプロデューサー兼脚本は、あのデヴィッド・E・ケリーなのだった。「あの」の後に省略されたのは もちろん「アリー・マクビール」「シカゴ・ホープ」といった全米大人気TVドラマたち。ナンセンスなギャグでいちいち笑いをとり、かと思えば突如○○が出 現してパニックに陥るというさじ加減が絶妙すぎて、気を抜く暇もありゃしない。もちろん監督のスティーヴ・マイナーの実力もあるだろう。この人は「13日 の金曜日」の「PART2」「PART3」あたりの監督として知られるようだ。 何気に俳優陣も豪華で、狩猟監視員役にビル・プルマン(とりあえず「インディペンデンス・デイ」でのどうしようもない米国大統領役とか)、古生物学者役 にブリジット・フォンダ(「シングルス」など)。特にブリジットは意味もなく何度も湖に落っこちたり、足元に鹿や人間の頭が転がってきて悲鳴を上げたり、 最初から最後まで全く何の役にも立たないキャラクターをひどく魅力的に演じていて、何とも言えない。これがキャリスタ・フロックハートだったらと想像する と笑いが止まらないが、それだけでも観る価値はある。 ベティ・ホワイト演じる湖畔のお婆ちゃんがある意味一番怖いという説も。個人的には彼女が家畜の牛で○○に餌付けするシーンが脳裏に焼き付いて離れな い。ていうか残酷すぎだよ! パ ペットマペットが牛くんと○○くんの人形劇作ってくれないかなーと真面目にキボーン。 |
20 Jul 2003 Sunday |
「My Life as a God.」 神としての人生? …God じゃなくて Dog だったか。 ★「Fluke」(マシュー・モディン主演、1995年米国) 【粗すぎるあらすじ】 ジェフとのカーチェイスの末、命を絶ったトム・ジョンソン。彼は仔犬(名前がフルーク)となって生まれ変わる。前世が人間だったと言う記憶が頭を離れ ず、愛する妻キャロルと息子ブライアンとの幸せな生活を思い出すフルーク。彼は、悪夢のような事故のかすかな記憶を頼りに家族の元にたどり着く。2人を見 守っていられるだけでいいと考えていたフルークの前に、自分を死へ追いやったあの男の姿が…。 【見どころ】 間違いなくB級アニマル感動系映画。だいたい、95年にマシュー・モディンが主演というあたりでおおよその出来の見当はつくというもの。いや、マシュー は良い俳優なのですけれど、スターダムに乗り遅れて永遠のB級街道まっしぐらという印象が拭いきれなくて… とはいえ、事実上の主演になる犬の演技は大したもの。この手の動物映画を観るといつも「本当にこれだけ調教できるのかな〜」なんて思っちゃうものです が、なかなかどうして、動物ってやつは頭が良いし、僕らが思った以上の表情(そう、顔の表情!)を見せてくれたりなんかするのです。ゴールデン・リトリー ヴァーとアイリッシュ・セッターの混血らしいという噂。 映画自体は、コメディにも涙ものにもなりきれなかった脚本と、冒頭の事故の背景を観客に説明するまでが冗長すぎる点が、どうしようもなく中途半端な印象 を残してしまうのが残念だけれど、犬好きの方や家族で観る映画を探してるお方なら選択肢に入れても良いかも?しれません。 ★「My Left Foot」(ダニエル・デイ・ルイス主演、1989年アイルランド) 【粗すぎるあらすじ】 重度の脳性小児麻痺に冒されながらも、唯一自由に動く左足で絵を描き、タイプライターを打つことにより、画家、作家、詩人として名を馳せたクリスティ・ ブラウン(1932〜81)の半生を描く実話ドラマ。 【見どころ】 確か大学に入った年に大ヒットしていた印象があったのだけれど、当時は映画館で映画を観るという習慣がなく、14年間も見逃したまま今日を迎えたもの。 ダニエル・デイ・ルイスの演技にはちょっと言葉を失う。僕は今年の1月に「The Gangs of New York」で初めて観て、物 凄い迫力の演技にすっかり度肝を抜かれたものだが、ここでの小児麻痺の演技は並の「演技派の仕事」では済まされない。手足の震えや首の角度、舌のもつれな ど、完全に「なりきって」いる。 でも本当の見どころは、障害者ものだからといって変にお涙頂戴ものにしたり、美談化したりすることなく(実話なのだから当然だ)、かなりリアルに描いて いること。クリスティは孤独で愛に飢え、挫折して酒に溺れ、自殺未遂もする。弱さを抱えて生きる一人の人間という点において、健常者と何の違いもない。だ からこそ、クリスティが左足で書いた自伝を読み、その真心と才能に感動した看護婦のメアリーが、彼の求婚に応じて結婚することになるラストには心が温かく なる。人生は捨てたもんじゃないですね。神様がどこかで見ていてくれるとよいのだけれど。 |
19 Jul 2003 Saturday |
「活字中毒」 という言葉を不用意に用いて痛い目にあったことがある。僕は文字や文章が好きな方で、出かける時はたいてい新聞や文庫本や新書をカバンに入れている。手 持ちの未読本がなくなったりすると大変で、急に不安になってしまう。電車の吊り広告の文字を一字一句読んでみたり、恥ずかしい話、網棚に読み終わった新聞 など落っこちてないかなーと探しちゃったりするくらいだ。結局のところ、読み終わった本や新聞をもう一度最初から読み直すことになるのだが、案外読み落と していたポイントがたくさんあって、それはそれで楽しかったりもする。 だけれども、この程度では活字中毒とは呼んではいけないらしい。少なくとも僕に注意してくれたその人は、自らの体験を踏まえてこう言った。本当の活字中 毒とは、文字がないと本当に死んでしまうくらいに追い詰められた状態をいうのだと。その人は身体が弱く、入院がちな生活を送っていた。病院のベッドに寝か されてしまうと、人にできることは大きく制限される。物理的な制限も然ることながら、自分が今体調を崩して入院しているという事実、場合によってはこのま ま回復しないかもしれないという恐怖、病院の外では健康な人たちが楽しそうに毎日を送っているという想像などが一緒くたになって、自分を押しつぶしにかか るのだという。 そんな時、読書はほとんど唯一の避難場所だ。文字を目で追いながら、人は可能性の翼を広げてベッドから上空へと羽ばたくことができる。他に何もできない からこそ、本への没入の度合いが深くなる。その人によれば、文章への渇望、文字への飢えは入院したことのない僕の想像を遥かに上回るものなのだった。彼女 は「貴方は活字中毒にはほど遠い。貴方には私がどれだけ活字に飢えていたか理解できるわけがない」と言い捨てた。 確かにそうかもしれない。僕などが「活字中毒」という言葉を安易に用いたのは適切ではなかったかもしれない。だがそれでも、彼女の言葉遣いには今でも 引っかかるものがある。「理解できるわけがない」と言い捨てた彼女は、病床での読書を通していったい何を学んだ(あるいは学ばなかった)のだろうと。たと え自分の経験していないことであっても、想像力を働かせて少しでも理解を試みようとする、それこそが読書の本質ではなかっただろうかと。そして彼女のセリ フは、読書の楽しさや活字中毒云々の次元を超えた、その人の心の在り様そのものをさらけ出してしまったのではなかろうかと。 |
18 Jul 2003 Friday |
「国際児童年」 録画してあった1995年のヒュー・グラント主演映画「9 Months」を観ました。ヒュー・グラントは小児精神科医役、パートナーの女性役にジュリアン・ムーア。何の問題もなくうまくいってる2人だったけれ ど、ある日突然(そりゃそうだ)彼女が妊娠。ヒューは父親になる決心がつかず右往左往。そこを引っかき回すのが子供嫌いの親友(ジェフ・ゴールドブラム) と+彼の姉夫婦(こっちは子沢山)。ジェフはいつ観てもハエ男の強烈なイメージしかないんだけど(若しくはID4)、それって彼にとってはいいことなんだ か悪いことなんだか。相変わらず困った表情満載で弱っちい男を好演するヒュー・グラントなのでした。 映画のほうは怪しげなロシア人産婦人科医役でロビン・ウィリアムズが登場したりして激しくコメディ化していくのだけれど、現実はそれほど容易じゃない。 子供を産み育てるというのはいつの時代も大変な事業だと思う。相変わらずネイション・ステートという概念が幅を利かせる21世紀初頭の世界を考えたとき、 たとえば日本という国で子供を育てるのは非常に困難といえるでしょう。それは金銭的な問題ばかりでなく、精神的にもかなり荒んだものになる可能性が大き い。彼らが大きくなるにつれて、自分たちが生まれ、国籍を背負ったこの国の問題をリアルに認識すればするほど、絶望感に苛まれるのではないか。もちろん日 本なる国に縛られる必要など全くないのだけれど、ここから永遠に脱出するためには超えねばならない高いハードルがあるのも事実。 子供のことを考えるとき、僕はどうもペシミスティックになりすぎるようです。本当はそれほどシリアスに考える必要などないのかもしれない。もしこれから の人生で子供を授かるチャンスがあるのであれば、深く考えずにまずはこの世に送り出し、その子と一緒に時間を過ごす中で、どういう社会にするべきなのかを 考えればよいのかもしれない。画面の中ではジュリアン・ムーアが必死の形相で出産シーンを演じ、ヒュー・グラントが泣きそうな顔で喜びを分かち合っていま す。昨今多発する少年らによる凶悪犯罪のニュースを聞きながらも、僕の脳裏に流すBGMは(できれば)ゴダイゴの "Beautiful Name" でありたいと思ったりする自分だったりするものだから。 |
16 Jul 2003 Wednesday |
「無添加石けん」 給料日の衝動買いとして、身の回りの洗浄剤の類を石けんもので揃えてみました。もともと肌は強くありませんが、今年は特に手足の炎症がひどいようです。 はっきりした原因はわかりません。食事かもしれないし、職場のストレスかもしれません。あるいは全く別の何かかもしれません。疲労についてはこれからが ピークなので、今のうちに少しでも皮膚に優しいものに切り替えておこうと思ったのです。 思ったのはいいのですが、既に東急ハンズも閉店した後の時間だったので、適当なところで買ってきました。まずは新宿の無印良品で、洗濯用粉せっけん (1kg/320円)と食器用粉せっけん(140g/250円)。洗濯用は純せっけん分が70%+アルカリ剤(炭酸塩)で、蛍光増白剤も不使用です。食器 用については、純せっけん分が98%と高い無添加もので、原料は純度の高いなたね油とのこと。酸性の汚れについては多少洗浄力が落ちるようですが、うす味 メインの料理を好む自分なら大丈夫かな。 次に仙川の西友で「環境優選」ブランドものをいくつか。まず、無添加化粧せっけん。これは安いんですよねー。100g×3個で300円。純石けん分 95%で、エデト酸塩・防腐剤・香料・色素を一切使用していません。実際の使用感も非常に素朴な昔懐かしい「石けん」って感じで。ちなみに製造者は北九州 市のシャボン玉石けん株式会社というところです。次は同じ「環境優選」ブランドの石けんシャンプー&石けんシャンプー用リンス。こちらはエスケー石けん株 式会社が製造しているもので、無添加石けんのへヴィユーザ Saki さんからも一定の評価を得ている一品。今利用中の無印良品の石けんシャンプー&弱酸性リンスが終わったら切り替える予定です。 肌に触れるものや身体に摂り入れるものについては、刺激物を減らして優しいものを選ぶようにできるだけ気をつけていきたいなー、と改めて思いました。 *** Kyon さんの近況更新が終わりました。これまで素敵な文章をありがとう。大好きだったページがお休みに入ると、なんだか一緒に自分まで止めたくなっちゃ うものですね… |
14 Jul
2003 Monday |
「Photo/Phone」 7月4日、愛用のPHS(H")の機種変更をしてから10日が経過した。愛用していたSANYOのJ81はまだまだ使えるし、 H"の最古参機種であるJ80以来、シリーズ最強の電波感度とハンドオーバー能力と通話音質で知られてきた名機中の名機だ。にも関わらず機種変更をしたと いうのにはいくつか理由がある。ちなみに新機種は同じくSANYOのH-SA3001V。 色はつや消しの渋いブルー。 ひとつは、H"初のカメラ内蔵機種であるということ。実は昨日のかっぱ割りショットもこの機種で撮影したものだ(多少レタッチしてある)。画素数こそ 11万画素と少ないCCDカメラだが、保存形式をJPG(圧縮率3段階)とBMP(無圧縮)から選択でき、特にBMPではかなり綺麗な絵が撮れるので何ら 不満はない。ほとんど利用しないがフラッシュもついているし、背面液晶をファインダー代わりにして自分撮りも簡単にできる。以前書いたように、僕は SONYの Cybershot U-10 というデジカメを所有しており、非常に気に入ってはいるのだが、日常のちょっとしたシーンをメモ代わりに記録しようと思ったときに手元にないことが多かっ た。これほど小さいカメラでも、常時携帯するとなると荷物になる。持ち歩くものは極力減らす、という僕のシンプルライフ観はU-10すらお留守番にしてし まったのである。となれば、常時携帯する電話機にデジカメが付いていることの意義は大きい。僕にとっては、昨日の写真程度のメモが取れれば十分なのだか ら。(もっとも、旅行時など本格的に写真を撮ってくる時のためにU-10は相変わらず必要ではある) もうひとつの理由は、メール料金の安さだ。H"も料金体系が複雑になってきたが、この新機種を含めいくつかの機種では「メール放題」というオプションに 対応している。月額500円の固定料を払えば、Eメール送受信が一切無料になるというものだ。H"のメールは受信10,000文字まで対応しているので、 メルマガや固定アドレス宛のメールもじゃんじゃん転送できる。理論上は月に「何十万通」送受信しても500円というこの安さ、実際は数百通がいいところだ ろうが、それにしても1通あたり5円とかメールのパケット数で課金されるサービスよりは劇的に安いことは間違いない。そう、添付ファイルのサイズにも左右 されないのも大きい。じゃんじゃん撮影した写真を、自宅のPC宛てにガンガン転送しまくっても料金が一切かからないのである。 そして第三の理由は、SANYOのユーザとして、新機種にもお金を落としてあげなくちゃと思ったから。新規契約で12,800円、機種変更で 14,800円と決して安くはない品物だが(実際には量販店で20%ポイント還元されたからもっと安い)、音声端末の新機種が少ないH"であればこそ、各 社の開発意欲を応援してあげたいと思うのだ。実際、旧機種のJ90やJ700で爆発していたバグや不満の類は相当程度解消されている。10日間使ってみて ほとんどストレスを感じないということは、現時点においてかなり完成された機種と言えるのではないか。 もちろん春先に話題になったJRCの端末のようにWebアクセス機能はない。が、個人的にはネットはPCで閲覧すればよいので全く困らない。それよりは J80を引き継ぐ感度の良さと通話品質の高さを実現してくれたことのほうがずっと嬉しい。背面液晶もTFTである必要は全くなかったのだが、省電力モード にすればモノクロ液晶時計にできるのでよしとしよう。個人的に気に入ったのはサイズ(小ささ)。何しろ47mm×87mm×24.4mmしかないのであ る。特に注目すべきは折りたたみ時の高さ87mmで、最近の機種が95mmくらいあることを思えば開いたときのコンパクトさが圧倒的に違う。その分液晶サ イズが2インチを切って小さくなっているが、本体が小さいのでほとんど気にならない。メール&通話がメインなら何の問題もないだろう。 長い間ありがとう、J81。 そしてこれからよろしくね、H-SA3001V。 |
13 Jul 2003 Sunday |
「かっぱ割り」 昨日は日本武道館でデュラン・デュランのコンサート。今年は80年代に活躍したアーティストのライヴの当たり年だと思うのだけれど、これも例外ではな かった。最初から最後まで歌いっぱなし、会場全体踊りっぱなしで。往年の大ヒット曲を連発、新曲も織り交ぜながら、きっちり2時間のステージで完全燃焼し てくれました。 デュラン自体は "THE WEDDING ALBUM" のツアーで見ているけれど、「オリジナル5」と呼ばれるメンバー5人が揃ったのは本当に久しぶりのことなので、ロジャー・テイラーとアンディ・テイラーを 見たのは初めて。それはそれはもうカッコよくて、メンバーたちが40代とはとても思えないライヴなのでした。詳しくは後日レポート書きたいと思ってます。 終演後はいつもの面子?で近くの居酒屋へGO。みんなすいすい飲みながら語る語る。そのうち頼むものがなくなってきて変てこなサワーなど飲まされたりし ながら。写真は謎の酎ハイ「かっぱ割り」。そのとおり、酎ハイに入っているのは刻みキュウリなのでした。アンディのギター&コーラスに免じて飲み干した よ。 |
12 Jul 2003 Saturday |
「むしろ、緩慢な武技にしてくれ」 ★「マイ・ビッグ・ファッ ト・ウェディング」(新宿安田生命ホール(試写会)) 【粗すぎるあらすじ】 冴えないギリシャ系米国人女性(30歳)。親の視線が痛くなってきた今日この頃、運命を感じる理想の男性を発見! 彼との出会いをきっかけに自分の人生を変える決意、運命の彼としっかり恋に落ち… ここからが大騒動。父親が結婚に大反対、ギリシャ文化をめぐるドタバ タ、母親のサポート、彼の必死の努力、etc.。さて結末は? 【見どころ】 2002年全米最大の興行収入を上げた映画は『スパイダーマン』。それには及びませんでしたが、わずか500万ドルの低予算インディペンデント映画がそ れに迫る大ヒットを記録したという噂は耳に届いていました。口コミで広がり、108館から2016館に拡大公開、全米ボックスオフィス18週連続トップ 10入り、制作費の40倍以上の興行成績を上げて全世界で大ヒット中のこの映画が、いよいよ日本でも公開されます。幸運なことに試写会で観ることができま した。 多民族国家アメリカならではという気もしますが、日本は「家」意識が強固に残存していますから、結婚をめぐる家同士のトラブルはこの比じゃないわけで す。むしろコメディに仕立ててハッピーエンディングを呼び込めるだけ米国の方が恵まれている。同じ題材を日本で映画化するとしたら、どうしようもなくドロ ドロした骨肉の争いになるか、白々しくリアリティのない偽ハッピーエンドになるかのどちらかでしょう。その意味で、ジョン・コーベット演じる「理想の王子 様」の描き込みが薄いような気はします(ややご都合主義?)。本当に彼のように相手の家族に合わせて誠心誠意努力する旦那がたくさんいるといいのにね。た だ、それを補うのがヒロインのトゥーラ役を演じるニア・ヴァルダロスの演技。ギリシャ系の彼女自身の経験(実話)がベースになっているだけあってすごく自 然。映画出演は初めてのようですが、LAでひとり舞台を演じていたところをトム・ハンクス夫妻が気に入ってバックアップした結果がこの映画ということらし い。 ギリシャ系アメリカ人たちの強烈なアイデンティティや文化の様子を垣間見ることができる点でも貴重な映画。これはかなり面白いよ。ギリシャ正教会での洗 礼とか、親族一同うじゃうじゃ集まってのパーティとか。ジョージ・マイケルもこんな家庭に育ったのかな?なーんてね。 ★「X-MEN」(TV放映(ビデオ録画)) 【粗すぎるあらすじ】 突然変異により新たな能力を身につけ始めた超人類=ミュータントたち。旧来の人類社会の中ではうまく適応できない彼ら、人類進化の先触れなのか、それと も邪悪な存在なのか。その計り知れないパワーをめぐり「正義」と「悪」の衝突が今始まる… 【見どころ】 元々はアメリカン・コミックの古典中の古典。平たく言っちゃうとSF『人間以上』(シオドア・スタージョン)に近い設定なのですけれど、豪華キャスティ ングと絢爛たるSFX、そして異様にテンポのよい脚本であっという間に最後まで見せてくれます。この春続編が全米公開されて大ヒットしていますが、確かに そっちも見たくなってきました。単なるヒーロー物語でなく、登場人物のそれぞれが抑圧と偏見に晒されてきた被差別者/マイノリティであるという点がストー リィに深みをもたらしています。まあ、これもまたアメコミの伝統で、バットマンもスパイダーマンもハルクも皆それぞれに苦悩を抱えた「普通の人々」であっ たりするところが魅力でもあるわけです。 一人ひとり個性的なキャラクターを演じるキャストは相当豪華。エグゼビア教授役にパトリック・スチュワート(ピカード船長にしか見えないけどな (笑))、マグニートー役にイアン・マッケラン、ジーン・グレイ役にファムケ・ヤンセン(Golden Eye のボンドガールだね)、サイクロップス役にジェームズ・マーズデン(個人的にはアリー5のグレンだけど)、ストーム役にハル・ベリー(唯一の黒人という点 で重要)、ローグ役にアンナ・パキン(「ピアノ・レッスン」「グース」他)、トード役にレイ・パーク(SWエピソード1のダース・モール、相変わらずショ ボイ…)、ミスティーク役にレベッカ・ローミン=ステイモス(スーパーモデル)、ケリー上院議員役にブルース・デイヴィソン(71年の『ウィラード』の主 役。同作と『ベン』は子供の頃マジよく観た。2003年リメイクも近日公開予定!)。 忘れちゃいけないのが最後の最後に代役でキャスティングされたウルヴァリン役のヒュー・ジャックマン。ハリウッド映画はこれが初出演らしいがオーストラ リアじゃ新進気鋭の俳優だった彼、かなーり良い演技を見せてくれます。これは制作サイドにとっても嬉しい誤算だったんじゃないかな。前半で登場しますが あっという間に自分の世界に持っていく強烈な個性。X-MEN全体のキャラ中でも圧倒的な人気を誇る重要なポジションらしいので、今後の展開も楽しみで す。 ★「スローなブギにしてくれ」(TV放映(ビデオ録画)) 【粗すぎるあらすじ】 要約不可(笑)。筋道の通ったストーリィも、心理描写も一切排除。 【見どころ】 1981年、角川映画。これだけである種のイメージを持ってしまった貴方は正しい。だが実際のところ、イメージを遥かに上回る物凄い映画だった。映画館 で観てたら最後まで耐えられたかどうか大いにアヤシイ。浅野温子ファンはともかく、原作者の片岡義男はいったいどういう気持ちで観たことだろうか… そもそも観てないかもしれんが。 オープニング、夕暮れの第三京浜を飛ばすムスタングにまず「あちゃー」という気分にさせられる。ムスタングから突き落とされる浅野温子、彼女を拾う古尾 谷雅人。突き落とした山崎努が原田芳雄と女たちと福生の米軍ハウスで同棲してたりなんかして、この辺の描写というか「絵」がかなり片岡ワールドから程遠い のが痛すぎ。投げ出して停止ボタンを押しそうになる度に、微妙なところで室田日出男、伊丹十三や高橋三千綱、鈴木ヒロミツ、浜村純、岸部一徳らが画面に登 場して僕を思い止まらせる。がしかし結果としては、あまりにもシュールで意味不明な映像世界に悪酔いしちゃった感じかなー。浅野温子がバイトするスナック で、マスターの室田日出男が南佳孝の『スローなブギにしてくれ』のドーナツ盤シングルをかけるシーンなんて、笑いを通り越して引きつってしまいますた。曲 が良過ぎるだけに痛い演出… 真夏に始まり1年後の真夏に終わる映画なんだけど、実は撮影は10月から12月にかけて行われたとか。道理でラストシーン、海に転落したムスタングをク レーンで引き揚げるシーンで、女性スタントとともに海中に転落した山崎努がガクガクブルブル震えてたわけだ。12月なのにあの薄着じゃねえ。しか も地球温暖化はまだSF小説の中の出来事だった1981年とあれば寒かったに違いない。それこそ地球温暖化で陸地が水没する小説の一つや二つ、角川が出版 してたりしないか?(笑) 正直、港を借り切ってのクレーン引き揚げロケーションと、それを意味もなく空中からヘリコプターで撮影したショットに費やした 予算がいくらだったのかと小一時間…(略)。 最初の撮影で酸素ボンベが映っていたことに後から気づき、この引き揚げシーン全体を撮り直す羽目になったなんていう逸話を聞くと、もはや脱力してビデオ を巻き戻す元気も起こらなかったYO。ウォンチュ〜♪ |
10 Jul 2003 Thursday |
「自分が、他の誰でもなく自分自身であるということ」 Identitiy/アイデンティティ、という言葉を日本語に置き換えるのは難しい。そもそも日本にいるとそういう概念や感覚を意識することがほとんど ないからだ。ところが一歩外国に足を踏み出すと、ほぼ常時アイデンティティについて考えざるを得ない。あちこちで「ID(=Identity)カード」の 提示を求められ、会話中に「それで、キミはどう考えてるの?」と尋ねられる。当たり障りのない天気の話でごまかせるのは日本くらいのもの、大抵のところで は「貴方が、他の誰でもなく貴方自身であること」を24時間365日証明し続ける必要がある。「他人と異なる自分」を大切にし、「自分と異なる他人」を尊 重する社会においては。 だからアイデンティティを「同一性」とか「自己同一性」と置き換えたところで、何ら本質的な説明にはなっていないのだけれど、この感覚を少しずつ意識す る傾向が出てきたのは悪いことじゃないと思ってる。一例を挙げれば、僕の住む世田谷区で先日行われた区議会議員選挙において、性同一性障害者の上川あやさんが議員に当選した。実際のとこ ろ、僕も彼女(と呼びます)に投票したのだけれど、あれほどまとまった票を獲得して当選するとは思っていなかった。性同一性障害については彼女のサイト や、ヒラリー・スワンクがアカデミー賞主演女優賞を受賞した映画『ボーイズ・ドント・クライ』などを見ていただきたいと思う。 僕が投票するときに期待したのは、彼女なら性同一性障害のみならず、広義の「マイノリティ/少数派」の存在を尊重し、意見を取り上げてくれるのではない かと思ったから。マイノリティの痛みや苦しみを身体で理解してきた人でないと、なかなか相手を思いやることは難しい。それは無神経な発言を繰り返すどこか の知事を見るまでもなく、またそれを無批判に受け入れ支持する多くの人々を見るまでもないことだ。あや議員を取り巻く状況は決して順風満帆というわけでは ないが、区民の一人として是非最後まで初心を忘れずに頑張ってほしいと思っている。 |
9 Jul
2003 Wednesday |
「マライア・フォロー」 えーっと、BBSでも補足しましたけど、僕はマライア自体を否定するわけじゃ全然ないんですよね。それどころか、昨晩のライヴを観た後でも相変わらず、 コンテンポラリーなポピュラー女性歌手としては最も好きな歌い手の一人です。これからもレコードが出るたびに買い続けると思いますし、アルバムもシングル も繰り返しプレイヤーでかけ続けると思うのです。 もっと言っちゃうと、ライヴ歌手としての彼女も否定してるつもりはなくて、相変わらず大好きなんですよ。要するにあの巨大なステージセットと無数の衣装 替えと無駄に多いダンサー&演奏者が僕にとっては邪魔だったというだけのことです。(もしそれをやるなら、ジャネットのように一糸乱れぬ素晴らしい振り付 けと遥かに機敏なステージチェンジを行うべきでしょう) 詰まるところ、僕はマライアの「歌」を聴きたかったのです。 しかし彼女にはそうするつもりはなく、でかい仕掛けのコケオドシを見せたがった。 要するに契約不成立、入札不調というわけです。だから彼女に文句を言うのは筋違いで、昨日の Diary は僕が自分自身に腹を立てているというのが正解。 実はデビュー直後からずっと思っているのですが、マライアには早くどん底まで落ちぶれてもらって、小さなクラブのドサ回りをやるようになってほしいな と。そして全盛期のヒット曲をこれでもかと連発する「往年の名歌手」になってほしいなと。そうすれば全公演チケットを買って、日本中追いかけたいな〜なん て思っています。昨今の落ちぶれ具合から、そろそろ彼女も目が覚めたかなと思ったのですが、残念ながらマライア(あるいはその周辺の太鼓持ちの皆さん)は 究極のお姫さま業を演じ続ける/続けたがってるようで、僕が期待するステージの実現にはどうやらまだ時間がかかりそうです。 …なーんてね。ねじれた愛でスミマセン。 "I Know What You Want" - Busta Rhymes & Mariah Carey f/The Flipmode Squad については、本年度最大級レベルで評価しています。この手の脇役仕事をやらせたら、Ashanti や Tamia なんて遥か彼方に霞んじゃうくらい物凄い存在感なんだなと。そろそろ自力では頂点に立てなくなってきた彼女だけに、この曲で全米1位を取らせたかったとこ ろでしたけれど…。いずれにしても、ここらでちょっと気分転換して、あちこちのトップアーティストの曲に客演してその声を聴かせ続けてほしいものです。 BBSで空さんがおっしゃったように、歌の好きなアーティストにはいつまでも歌い続けてほしいものだから。そして誰も耳を傾けなくなった頃に、相変わらず じっと聴いている僕に気付いてほしいものだから。 昨晩のライヴでやってくれなかった残念な曲というのは、"Vision of Love" でした。のみならず、1stアルバムからは1曲も歌いません。2ndからも "Make It Happen" のみ。でもってこれが一番いい歌唱&演奏でした。個人的に本当に聴きたかったのは、例えば "Can't Let Go" のような楽曲であって、それこそ小さなクラブに数十人しか集められなくなった頃に、思い出したように歌ってほしい曲だったりします。 *** そんなことより嬉しかったのは、BBSで読者の安芸さんが、 >>それだけwinterさんが負のパワーを使えるということは、愛がある証拠ですよね。 と見抜いてくださったことでした。僕がめったにテキストに負のパワーを持ち込まないことを踏まえて、その裏の心情を読んでいただいたことに素直に驚くと ともに、とても感謝しています。僕は安芸さんとは直接お会いしたことがないのですが、文章だけの知り合いのお方にちゃんと伝えたいことが伝わった喜びは、 何ものにも代えがたいものであったことを、率直に記しておきたいと思います。どうもありがとう。 *** 個人的メモ。 図書館・読書関係の話題が続いていますが、昨日の朝日新聞に「どくしょ応援団」という2面見開きの特集がありました。井上ひさしさんと秋 田喜代美さんの対談に気になるコトバがいっぱい。 井上「この10年くらい、日本人は言葉や物語に対してやや無関心になっている気がします。それは本だけじゃなくて、歌も同じ。子どもから大人まで口ずさめ る流行歌なども生まれていないでしょう」 秋田「視覚情報化が進む社会の中で、体感がともなわず、『言葉は平面的な文字記号に過ぎない』ととらえられているんじゃないかという思いはあります。です から、言葉が人々の心に深く入っていかない」 井上「僕たちはオペラ歌手の声色に魅了されたり、オリンピック選手の活躍を称賛したりしますよね。コツコツと努力を重ねてきた人間が、ある一瞬に最高の力 を発揮する。そのとき僕たちは『人間って何て素晴らしいんだろう、しかも自分もその素晴らしい人間の一員なんだ』と瞠目する。感動するんです。本も同じ。 『何て言ったらいいのかわからない、あの感じ』、そういう、自分たちが表現できなかったことを言葉の力で解き明かしてくれる、…」 井上「自分がいる大切な世界、なのに表現できなかった感覚を言葉にした人がいる。それは驚嘆であり、安堵であり、『世の中が少しわかったぞ』という、世界 に対する信頼感が生まれました」 井上「物語には、自分が巻き込まれている混沌とした世界を解読したり、整理したりする力があるんです」 秋田「物語の世界に入れば、どこへでも行けるし、冒険もする。数々の困難を乗り越えられる。本を閉じたときの、『ああ、乗り越えた自分がここにいるんだ』 という感覚、それが現実のつらさを乗り越える力にもなります」 井上「人生のピンチの乗り越えかた、友達との付き合いかた、恋をしたときの問題とかすべて、すでに作家たちが悩んでみんな文章にしているんですね。しか も、本はテレビなどと違って、読み手が演出家になり、役者になり、照明から音響効果まで全部やっている。その分、深く入っていけるんです。その面白さをぜ ひ知ってほしいのです」 僕などが読書や文章について漠然と考えていたことがすべて言葉にされてしまった。井上ひさしさんの小説や戯曲にはまだまだ未読のものが多いのだけれど、 これからゆっくり付き合おうと思って楽しみにしている。最後のフレーズ、本はテレビなどと違って…というくだりには猛烈に共感した。自分にとってそう感じ させてくれる作家のトップはスティーヴン・キングなのだが、そんな素晴らしい能力を持った人々の発する素敵な言葉に触れることができる喜びを胸に、今夜も 静かに眠りにつこう。 |
8 Jul 2003 Tuesday |
「らいぶらり・ぶらり途中下車」 最初に断っておくと、僕はめったにサイト上でネガティヴなコメントはしない男なのだが、今日という今日は久しぶりにがっかりした。まさしく「…ガック シ。」という感じだ。と言っても、9分9厘予想されていた事態でもあり、その意味ではダメージは最小限だったとも言える。何の話かといえば、日本武道館で のマライア・キャリーの コンサート。 これほどまでにプロ意識の低いライヴは本当に久々に観た気がする。と同時に、この人は本当にどん底というのを経験したことがない人なのだなと。石にかじ りついてでも再び全米1位の座を勝ち取ろうという気はないのだなと。それを確認しに行くためのコンサートのような形になってしまったが、一度この目で確認 しておかないと批判も何もできないので、後悔はしていない。「プロ意識の高さ」という点で言えば、たとえばジャネット・ジャクソンのショーを観るべきだろ う。他にいい例をとっさに思いつかないが、昨年観たメアリー・J・ブライジだって凄かった。伸びやかな喉を持つ歌手ではないが、1曲目からラストまで全力 投球でガナり続けた。ラストの "Family Affair" ではプライドなどかなぐり捨て、全身から汗を噴き出しながら、下手なりに必死にくるくる回るステップを踏んでいた。「この子は本気だ、これから出すアルバ ムを全部全米1位にする気だ」と震えがきたのを思い出す。 一方のマライアはといえば、そもそも全然踊れない女なのだが、それを差し引いてもほとんど動きのないライヴ&弛緩しきったヴォーカル、プラスそれを誤魔 化すための10人余りのダンサーによる酷い見世物だった。特に興ざめだったのは、衣装替え+休憩(?)のため頻繁にステージから姿を消す彼女。アンコール 含め1時間45分のショーのうちマライアがフロントに立っていたのは正味45分程度じゃないかと思う。ビデオやテープを多用した非ライヴ性はこの際無視す るとしよう。満員の日本武道館からは大歓声があがっていたが、冷静に見て賞賛されるショーだったとは思えない。MCというか曲間の態度も品がよろしくなく て、心証を著しく害している。生まれ育ちが上流階級であるかどうかが問題なのではない。品性というのは後天的に獲得できるはずのものだ。なのに彼女はそれ を一切やろうとしていない。庶民性を演出しようとしているのだとしたら大間違いだと誰かが言ってあげるべきだろう。全米ツアーのウォームアップくらいに考 えているのだとしたら失礼も甚だしいが、それでもところどころ、パンチの効いた素晴らしい声が聴かれる瞬間もあるんだよね。そこが却ってイタかった。今年 は Chicago、Hall&Oates、Bangles、Lisa Loeb、Olivia Newton-John とプロ意識の高いライヴをたくさん観ているだけに評が辛くなる。 何よりがっかりしたのは、一番大切な「あの曲」をやらなかったこと。 のみならず、そのアルバムから1曲も歌っていない。確かに前を向いて進むことも大切だけれど、近年の作品がどの曲も区別できない程度に品質が落ちている ことを考えれば、せめてステージでは初期の大ヒットをしっかりこなすべきではないか。満員の武道館の中には、これが生まれて初めての洋楽コンサート体験と いう人も多かったろうと思う。彼らにはぜひ、これに懲りずにプロ意識の高いライヴを観に出かけてほしい。すべてのコンサートが、これと同じようにつまらな く、だらけたものばかりじゃないのだから。 *** ふう、たまにネガティヴなこと書くと疲れますね。慣れないことするもんじゃないや。 さてさて、都内の図書館をいくつか利用してきた感想を書いてみましょう。 杉並区立図書館★★★☆ 久我山の駅の近くにある宮前図書館をよく利用していました。まあまあ使いやすかったと思います。大年3年〜4年の頃、公務員試験の受験勉強をよくしてま した。雑誌コーナーに「週刊プロレス」があったので、眠くなったら読んでました(笑)。あとは、近くに自動車学校があったので通ったのと、Nancy Boyくんの実家が比較的近くにあったことくらいしか印象にないかも。 世田 谷区立図書館★★ 上京して最初に利用したのが烏山図書館だったのでした。こんなものかな、と思っていたのですが、あとで他の区の図書館を知り、世田谷区の図書館事情の悪 さにようやく気付きました。一応CDなんかもあるのですが品揃えはお世辞にも良いとは言いがたく、書籍についても新刊の少なさなどで群を抜いています(何 だそりゃ)。自習コーナーは独立しておらず、しかも席数が非常に少ないので、事実上ここで勉強するのは無理でした。今も世田谷区民でカードも持っています が、ほとんど出向くことはありません。 新宿 区立図書館★★★★☆ 社会人になって新宿区民になりました。会社の寮のすぐそばにあったのは小さな分館でしたが、ここの自習コーナーでいろいろ勉強などしたものです。小さい だけあって利用者も少なく、個人的には隠れ家的図書館でした。そこから早稲田通りに出て、高田馬場方面まで長めの散歩などするのが好きでしたが、行った先 の馬場に区立図書館の本館があります(司法試験のLECの近く)。ちょっと建物が古いのですが、さすがに書籍・CDの在庫は多く、早稲田の学生+LEC生 のため(?)か自習室スペースが巨大だったのが印象的。 最近ではもっぱら職場の近くの角筈図書館と、新宿御苑の先にある四谷図書館を利用しています。特に四谷は新しい建物の7階に入っているのですが、御苑を 見下ろす素晴らしい眺めとかなり充実したCD・雑誌在庫を楽しむことができます。輸入雑誌も豊富で、女性ファッション誌や Reader's Digest、はたまた Rolling Stone誌まであったりなんかして、個人的には非常にお世話になってますね。新宿区は外国人人口が多いことが影響してるのかもしれません。 千代田区立図書館★★★★ 市ヶ谷に住んでいた時代は、新宿区民ではありましたが、道路ひとつ渡ると千代田区で、千代田区の図書館も歩ける距離に2つ確保していました。それぞれ CD在庫がなかなか豊富で、新譜もすぐに入荷するのがポイント高かったです。あと映像/ビデオも多くて、「八つ墓村」とか「ロック・スター」とか「ある愛 の詩」とかこの図書館で借りました(傾向バラバラ過ぎだよ!)。武道館の近くにある千代田図書館(本館)は古い建物で、カウンターの係員の態度に難があり ますが、雑誌類も豊富だし、自習スペースは別フロアで比較的広大なのがいい感じです。椅子がキーキーいうので耳栓が必須。 調布市立 図書館★★★★☆ 現在住んでいるところから最寄りの図書館は調布市の緑ヶ丘図書館です。調布市立図書館の素晴らしいところはその蔵書検索・予約システムだといえるでしょ う。各館内に検索用のPC端末があって、そこで検索した上、予約したいなと思ったらボタンを押すと、小さなレシート用プリンタみたいなのから紙が出てきま す。後はそれをカウンターに提出するだけで予約完了。予約用紙にいちいち書き込んでいたあの煩わしさは何だったのでしょうね。 さらに驚くべきは上記サイトにアクセスしてみればお分かりのとおり、なんと自宅からインターネット経由で本やCDの貸出予約ができてしまうのです。つま り夜中などに急に思い立って検索し、在庫を調べて貸出予約ができてしまう。貸出中の本なら、返却された後に電話で連絡が来ます。しかも、他の図書館にある 本でも自分の最寄りの図書館まで取り寄せてくれるので、いつもの図書館で借りることができてしまうのです。これはかなり画期的なサービス。自分の最寄りの 図書館が、そこの在庫だけでなく、調布市立図書館全体の書籍やCDやビデオを扱ってくれているのと同じことです。読み手はいちいち探しに行ったり、調べた りする手間を省いて、ひたすら図書館から届けられる本を読むことに集中すればよろしい。 *** 他にもまだまだ住んだことのない街、利用したことのない図書館がたくさんあります。できるだけたくさん利用してみたいな。図書館好き同士で一緒にあちこ ちの図書館めぐりをしてみるのもいいかもしれないね。そうそう、貧乏性の自分にとっては、夏は図書館で涼しく一日中ページをめくることが電気代の節約にも なっているのでした。電力危機が叫ばれる今夏は、ますます図書館で過ごす時間が多くなりそうな予感。 |
7 Jul 2003 Monday |
「棚からバタークッキー」 七夕が現在では梅雨の期間にあたっているのは皮肉なことだ。かくして僕らはめったに晴天に恵まれることなく、曇り空や小雨の中、今年も会えなかった織姫 と彦星の運命に思いを馳せながら1年間をやりきれない気持ちで過ごすことになる。 だが考えてみよう。雲や雨なんてただの水蒸気の塊に過ぎない。地上から見上げた天候に一喜一憂する僕らの七夕伝説をよそに、そのほんの数km上空で、織 姫と彦星は毎晩逢瀬を楽しんでいるに違いないのだ。何の心配も要らない、きっと大丈夫。 世界中には、さまざまな事情で遠く遠く引き離された恋人たちがたくさんいることだろう。そんな無数の織姫と彦星が、少しでも温かい気持ちで日々を過ごす ことができますように。僕の七夕のお願いごとなんて、そのようなものです。 *** …「棚バタ」かよ。 |
6 Jul 2003 Sunday |
「多忙家の人々」 えーと、本業がだんだん忙しくなってまいりまして、コンテンツ更新が遅れております。誠に申し訳ないです。今年は9月6日〜14日にロンドン&ミュンヘ ンに海外出張する予定なのですが、その各種準備が加速してきました。もうあと2ヶ月を切ったんですね。もうちょっと焦らなきゃマズいくらいです。というわ けで、更新のほうはのんびりお待ちくださいませ。 *** さて図書館話の残りをば。 もちろん本を借りるところでもあるのだけれど、すべての人が立派な書斎を構えられる訳じゃないのだから、読書/勉強スペースとしての図書館のあり方に もっとスポットが当たってもいいのではないか? 僕は昔から図書館で勉強するのが好きだった。それは部屋に戻ると誘惑がたくさん待ち構えていて全然集中で きないからで、静謐な環境で静かに没頭できる図書館で、周りの人々が同じようにこつこつ勉強しているのを見ながら過去問や参考書に向かうのは何やら勇気が 出ることだった。 その意味ではどの図書館も閉館時間が早過ぎるようだ。20時まで開いてりゃいい方だが、できれば22時、理想的には終電の時間まで開けておいてほしい。 ほかに無駄な行政コストなんていくらでもあるんだから、図書館を4時間ばかり余計に開けておくくらいどうってことないはずなんだけど。それで一人でも多く の人が読書や勉強を充実させることができるとするならば、将来に向かっての投資としては安すぎると思うよ。 |
5 Jul 2003 Saturday |
「図書館好き」 僕は図書館という空間が大好きだ。僕らの世代だと、納めている税金を最も効果的な形で還元してくれるのが図書館というスペースなのではないか。書籍も CDもビデオも、いつもとてもお世話になっている。振り返れば小学生の頃から図書館好きだった。たくさんの本を積み上げて囲まれるようにして読み耽り、 片っ端から本を借りて、図書カードを何枚も更新したものだ。司書のお姉さんが好きだったので、彼女が喜んでくれるのも嬉しかった。ちょっと背伸びして難し そうな本も借りてみたものだ。司書のお姉さんは「こんな本も読めるの?」と驚いてくれた。それは母親に頼まれて借りたアレックス・ヘイリーの「ルーツ」単 行本上下だったりしたのだけれど。 中学・高校と進学するにつれて、学校の図書館はますます僕にとっての避難所めいてきた。バスケットボール部の練習が始まるまでの1、2時間を惜しんで図 書館に足を運び、宿題を片付けたり本を選んだりしていた。試験前の1週間は部活動がお休みになり、それこそ図書館にこもって勉強したものだ。不思議と自分 専用の席ができるもので、そこに参考書や問題集を広げると、ひどくリラックスして没頭できたのを思い出す。大学に行っても似たようなもので、授業の合間や バイトまでの時間つぶしはたいてい図書館で勉強したり、本を読んだり、居眠りしたりしていた。 図書館の魅力はいくつもある。端的に言えば僕は資産家でないので、購入できる書籍の量と、保存できるスペースは限られている。雑誌やCDだってそうで、 読みたい/聴きたいものは山ほどあるけれど、全てを買うことなんて不可能だ。とすれば図書館で借りて読むのは当然の成り行きだろう。だがどうやら僕は図書 館という「空間」自体が好きらしい。恐らく一生かかっても読みきれないであろう膨大な本が、一定の体系に基づいてきちんと並べられている書棚。気になる本 をいくつか積み上げて、順番にページをめくっていく喜び。本の匂い。同じように本を愛する人たちが集い、静かに読書している空間。誰かが先に手に取って、 その中の言葉に涙を流したであろう本に、僕も同じように涙を流しているという偶然。 大げさに言えば、人類の「知」の集積のスモールヴァージョンが図書館だ。だから子供の頃から図書館という空間に親しみ、「知」の大まかな体系を概念的に 把握しておくことは、その後の人生でも損にはならないんじゃないかな?というのが僕の考え方だけれど、どうだろう。 |
2
Jul 2003 Wednesday |
「小一時間」 相変わらずどうでもよい新書ばかり買っているのだけれど、洋泉社の新書y「美しい日本の掲示板 インターネット掲示板 の文化論」(鈴木敦史)は結構面白かった。インターネットの基本姿勢みたいなものを、掲示板というシステム、特に2ちゃんねるに代表される巨大掲示板を舞台に斬るとい う企画。 ネットがこれだけ普及したのにはいろいろな理由があるだろうが、自分的に大きかったのはやはり個人サイトの存在、特に日記と掲示板だったように思う。世 の日記サイトが全て本当のことを書いているとは思わないけれど、虚実がないまぜになったような不思議な空間で、毎日毎日すごい質と量のテキストを書き続け る人たちを見る度に、驚くというか感動するというか呆れるというか、正直言葉が出てこない。比べてしまうと僕のところなど「日記書いてます」なんて口が裂 けても言えないくらいの貧弱さである。掲示板も然りで、誰が読み書きしているのか、毎日そこに集ってああだこうだ議論されたり和んだりしてるのを眺めてい るだけで面白かった。 そこに2ちゃんねるの登場だ。僕が最初に2chに触れたのは2000年の暮れぐらいだったように記憶するが、当時はとにかくビクーリした。まず第一 に、ほとんど全ての書き込みが「名無しさん」によるものだったからだ。うわー、この人めちゃ暇やん、一人で全部書いてるわなどと、大勘違いした感想を抱い ていたことは内緒にしておく方向で。内容も誹謗中傷や差別用語の連発や、煽りや晒しの横行で、読んでいて少々気分が悪くなったものだった。今考えれば、洋 楽や海外ドラマの情報を求めて真面目に2ちゃんねるに迷い込んだこと自体が大きな間違いなのだった。それ以来、基本的にはあまり眺めていない2ちゃんだ が、日本のインターネット界における重要性というか、影響力の大きさは全く否定できないわけで、ときどき思い出したようにざっと目を通し、相変わらず軽妙 なやり取りがなされている良スレをハケーンしてはカコイイ!と感動していまつ。そんなもの読んでる暇あったらもっと自サイトのコンテンツを充実しる!と怒 られるのを承知で、例の「吉野家」コピペや各種の「祭り」などを楽しんでいる自分に「鬱だ氏脳」とか思ってしまったりもする。スマソ。 さてこの「美しい日本の掲示板」はこうした2ちゃんねるの歴史を紐解きながら、このマターリした空間が実は極めて正当な日本文化・日本的精神の表現であ ることを解き明かす。連句的コミュニケーションに代表される俳諧精神、百姓と武士のライフスタイル、祭り好きな日本人の性向、自己vs世界、個vs社会と いった観点から、2ちゃんねるが日本社会の歴史的縮図であることを指摘するくだりはなかなかに面白い。(が自分も似たようなことを考えていたので、書かれ てしまったのはちょっと悔しい。ショボーン) 僕らは2ちゃんねるで日々展開される「ネタ」を楽しむ余裕を持っている。そこには真実と虚偽の入り混じった、とりあえず笑えりゃいいじゃん的な世界が広 がっているが、根っからの真面目な人が読むと過剰に反応してしまうかもしれない。熱く書き込んじゃったりなんかすると「ネタにマジレス、カコワルイ」と切 られて終わりである。だが僕らの多くは、ほとんど全ての言葉を疑ってかかっている。日本人は活字に弱いなんて言われていたのはとっくの昔のことだ。新聞記 事もテレビのニュースもバラエティ番組の司会者も、誰が本当のことを言っているのかなんてわかりゃしない。ひょっとするとみんなウソかもしれない。「プロ ジェクトX」なんて一番怪しい。見る度に「ププ」とか藁ってあげるのが正しい2ちゃんねらー的鑑賞法だろう。 最終章のマスメディア論でやや息切れしてしまうのが惜しいところだが、2ちゃんねるの在り方や経緯についてひと通りざっと押さえようという人にはお勧め できる。細かいところに凝っているのも笑わせる。たとえば75ページ、ある3行の文章が2回連続で登場する。これはおそらく故意に仕掛けた誤植で、この ページには小さな紙片が挟んであり、こんなことが書いてある。 洋泉社訂正とお詫び祭り【2本目】 1 名前:名無しさん@3周年 P.75の6〜8行目の文章が9〜11行目に誤って入っているようだ。正確にはこの9〜11行目はカットされるべきものだろう? 2 名前:名無しさん@3周年 誤爆age 3 名前:洋泉社 またやってしまいますた。読者並びに著者にお詫びしつつ、逝ってきます。 この仕掛けには大笑いしてしまった。典型的な祭りスレッド(しかも2本目)の体裁を用いての誤植お詫び。しかも「〜ますた」「逝ってきます」といった2 ちゃんねる用語をさりげなく織り込んだ極めて高度な遊びである。なぜ故意だとわかるかというと、この部分の文章が「自作自演」について解説しているページ だからなのだが、2ちゃんねるでいう「自作自演」がどういうニュアンスの用語かについての説明は要らないよね? 何なら小一時間…(以下略) |
1 Jul
2003 Tuesday |
「リセット」 今日から7月ですね。 ここには安いものばかり、腕時計が7本もある。ほとんどこの1年半の間に増殖したものばかり。それまでの30年強の人生において、2本以上の時計を所有 した時期は限りなくゼロに近かったというのに。服の色と合わせたり、逆にアクセントにしてみたり、オンとオフの気分転換にも悪くないアイテムだと思う。数 十万円もする高価な時計をこれ見よがしに付けている人には全く共感できないけれど、安めの時計でうまく遊んでいる人を見るとお洒落だなって思う。 7本のうち2本だけが月毎に日付を自動修正してくれるのだけれど、その他の5本については小の月が終わると「31日」を「1日」に修正してやる必要があ る。1本1本、リューズを回して日付を修正しながら、先月はどんな1ヶ月だったかな、今月はどんな月になるのかな、と想像を巡らせる。文字通り、腕時計と 自分自身にとっての、ちょっとしたリセットの時間だ。パーペチュアル・カレンダーの方がずっと便利なのは分かっているけれど、僕はこうした不便さへの愛着 を捨てきれないところがあって、人生のあちこちにまるでお守りのように少しずつ隠しておく習性があるらしい。 いったい何のために?と問われても、理由などありはしないのだけれど。 |
バックナンバーはこちら |
MUSIC / BBS / HOME / E-mail to winter