『我が心の父アート・ブレイキーを偲んで』 @

 

− 別れ −

 1990年10月16日ニューヨークはマンハッタンのヴィレッジにあるセント・ヴィンセント病院で、ある偉大な音楽家がこの世を去った。彼の名はアート・ブレイキー、モスレム名をブヘイナ(Abdullah Ibn Buhaina)皆彼のことをブー(Bu)と呼んだ。死因は肺ガン。年齢は71才。1955年以来35年間ジャズ・メッセンジャーズを率いてきたバンド・リーダーである。

1990/10/17 New York Post

 翌日か翌々日かは覚えていないが、僕はハーレムに住んでいる友人に頼んで彼の亡骸が安置されている葬儀社を調べてもらい、程なくして連絡が入ったので最後の別れを告げるべく地下鉄に乗った。

 ハーレムのど真ん中にあるその場所はとても偉大な音楽家の葬儀とは思えないくらい質素な様相を呈してた。日本の標準的な学校の教室を二つ合わせたような広さのホールの奥に祭壇があり、手前に教会と同様に長椅子が置かれ、もう殆どの人々は別れを終えたのか、数名の人しか見当たらずとてもがらんとしていた。

 ホールを中央で二つに分ける通路の突き当たりに棺を目にすることが出来た。 僕は一歩一歩前に進む度に身体から力が抜けていくのを感じた。もう流す涙はなかった。向かって右手前の最前列の長椅子に彼の娘のエブリンを見つけたので、気が重かったが悔みの言葉をかける為に歩み寄った。思ったとおり僕の言葉が終わるより先に彼女は号泣してしまった。最初からそうなることは分かっていたのだけれど、こればっかりは洋の東西を問わず一つの儀式なのかもしれない。

 彼はお気に入りだったキャプテンの衣装を身につけていた。大き目の帽子が71才のオヤジの少年ぽさを演出していた。小柄なその身体を横たえるとますます小さく見えた。僕がずっと傍らで別れを惜しんでいるとスーッと横から黒い手が伸びてきて亡骸の手の甲をさすった。60がらみの痩身で背の高い黒人の男性だった。僕はその光景を見て、ぐっと胸の内から込み上げてくるものを押さえることは出来なかった。そしてその時、それより2年前の1988年に彼の長男であるアート・ブレイキー・ジュニアの葬儀(享年47才)に参列したのをふと思い出した。ジュニアとはよくハーレムのジャズ・クラブでセッシヨンをしたが、父親があまりにも偉大なため二人が親子だという感覚は僕にはなかった。それに、彼らが一緒に居る所を僕は一度も見たこともなかったのもそう感じた原因かもしれない。

 そのあとどうしたのかどうしても思いだせない。ただ白い乾燥した景色だけが脳裏に焼き付いている。
追伸)
アメリカ人の名誉の為に付け加えておきますが、後日あるハーレムの教会で追悼集会が大々的に行われました。

− 出会い −

 あれは忘れもしない1960年代半ばの夏の日の出来事だった。冷蔵庫も洗濯機もなかった貧しい我が家に結核療養所から退院してきた父と共に家具調ステレオなるものがやってきた。僕の父は大の音楽好きでその許容は演歌からクラシック、ジャズ、ポップス、ラテン、喜多郎から富田勲まで網羅していた。そんな父の持っていた一枚のレコードが僕の人生を決めてしまうとはその時は到底知る由もなかった。

 1958年に録音されたこのサウンドトラック盤「殺られる」のテーマ(No Problem)はリー・モーガン、ベニー・ゴルソン、ボビー・ティモンズ、ジミー・メリット、そして御大からなるメンバーでB面は「ウイスパー・ノット」だった。音楽に全く興味を示さなかった僕の魂にどういうわけかそのサウンドが突き刺さった。それから20年後のある秋の終わり頃、ニューヨークのあるクラブで演奏していた時,僕の目の前にその御大が突然現われることになる。

 「A Night In Tunisia」のソロを終えた僕はステージの端でアルトのユージン・ブライアン(元メッセンジャーズ)のソロに眼を閉じて耳を傾けていた。その時妙に聞きなれた声がざわめきと共に僕の耳に入ってきた。アルトのソロが終わっても僕はどうしても眼を開けることが出来ず、とうとうベースソロも終わりメロディーを吹かなければいけなくなったので度胸を決めて虚空を見つめラッパを吹きはじめた。だがやはりと言うか何と言うか視界にその黒い塊が入ってしまった。それも最前列で真正面だ。僕が今までの人生を通じて唯一ビビッタ瞬間だった。数々の修羅場をくぐり抜けてきたさすがの心臓もそこではただの肉の破片にすぎなかった。

 そうこうしているうちに例のお決まりのカデンツアが回ってきた。それも最初にだ。それから後は真っ白だった。

僕 は隅っこの長椅子に腰を下ろしうな垂れていた。影がひとつトイレに行くため無言で前を通り過ぎ、そしてまた戻ってきた。うなだれた僕の視界に黒い手が伸びてきて拳でその僕の左太股をぐりぐりやった。僕はその黒い手の主の顔に目をやった。暖かい笑顔だった。無言で何度もうなずきながら微笑んでいた。20年前のあの夏の日を想い出した。心に突き刺さったあの衝撃が血液に変わる瞬間だった。アート・ブレーキー。その名は僕の中で天使と同義語になった。