エイコ

chapter 23


「ラストひとつ! 時間通り!」
カナエが叫んだ。
「ワン、トゥ、スリー」
最後のバンドが始まった。出番の終わったバンドの連中がエイコ達の所にゾロゾロ集まってきた。ステージを中心にして人の厚い輪が出来上がっていく。バンドも客も思い思いにピョンピョン飛び跳ねている。スタジオの練習を控えた彼女達も、野宿をした奇妙な格好の彼等も、酔っ払いに絡まれた女の子達も。そして「やったるでぇ」の一団も。薄暗くなった初秋の歩行者天国で思い思いに飛び跳ねている。
「少なくても、ここから見る限りでは」
エイコの目にはライブハウスにいる時のようなギスギスした空気は見えない、感じない。
「少なくても、ここに居る限りでは」
空を見上げた。巣に戻ろうとしているカラスが一羽、頭の上を飛んでいた。その時どうしようもない衝動にかられた。どこか上から自分達を見てみたい。今、今この瞬間を見てみたいと。エイコは皆に気付かれないようにその輪から抜け出した。見上げると少し離れたところに歩道橋が見える。
「走れ! 今、この瞬間を見るんだ。走れ!」
体の中で誰かが叫んでいる。
「走れ! 走れ! 走れ!」
息を切らして上がった歩道橋は夕陽に染まっていた。金色に光るアスファルトにエイコ達の人の輪が黒く輝いていた。それは思っていたよりも小さく、思っていたよりも大きかった。いや、大きさなどどうでも良かった。エイコは確認したかったのだ。プラスチックケースの存在を。至れり尽くせりのあの場所で感じた、あの息が詰まった空気。閉塞感。どうしても知りたかった。私達もあのプラスチックケースに捕らえられているのだろうかと。路上で演る事を考えた時はそんな事は念頭になかった。ただ、演れればいいとだけ思っていた。しかし、あのプラスチックケースを感じてから、その存在が澱のように頭の中に溜まっていた。事務的作業をしている時、電話の応対をしている時、ミーティングの最中はすっかりその事は忘れているのだが、隙に入り込むようにしてプラスチックケースはたびたび体の中に現れては消えていった。エイコには確信めいたものはあった。それは存在しないと。しかし、やはり、自分のこの目で確認しないと不安だった。でもそれはいつ、何処で見ればいいのかが今まで分からなかった。そう、まさにそれが今、この瞬間なのだ。
エイコは目を閉じた。深く息を吸い、長い時間をかけて体中の諸々を吐き出した。ゆっくりと目を開いた。
果たしてそれは存在しなかった。
輪は次第に膨らんでいるかのようだった。まるで生き物のように黒く輝くその輪は金色の景色にゆっくりゆっくりと流れ込み、無限に広がっていた。堰止める何者も存在してはいない。果てしなく、ゆっくりと。それでいて、力強く成長している。力まず、逆らわず、果てしなく、ゆっくりと。
エイコの目にはそう映った。そしてハレーションをおこした太陽に右手の拳をかざした。中指を立て呟いた。
「ザマミロ!」

「ほら、エイコ。さあ行った行った」
カズミに促されエイコはマイクの前に立った。背後では最後のバンドが後かたづけをしている。
「今日はありがとうございました。これで終わりです。最後まで何事もなく演れた事を感謝します。本当にありがとう!」
「次はいつやるんだ?」
「いつだよぉ?」
「あ、えっとぉ、まだ決めてません。ホントはこれ一回だけのつもりだったんですけど……」
「やれよぉ。もっとやれよぉ」
「できる! ねえさんたちならできる!」
エイコは困ってカズミに助けを求めた。カズミは任せたと目配せをしただけだった。
「試しに一回と言う事で今日演ってみました。実は上手く最後までできるかは分からなかったんです。でも何とか最後までできました。舞台裏でも色々あった事はあったんですが、でも、上手くいきました。だから、次はいつかはまだ決めてませんが、近い内に必ず演りたいと思ってます!」
「どうやって知ればいいんだよぉ?」
「それはチラシと、えーと」
「この本を買って読んでね」
いつの間にかカズミが横に来てミニコミを掲げながら喋っていた。
「それでは、もうじき車も入ってきますので。ありがとうございました!」
客はそれぞれ散っていった。エイコ達は早速機材の撤収にとりかかった。
「お疲れ様でした。スタジオに行くので私達はこれで。楽しかったです」
「ありがとう。ああそうだ、連絡先を教えて。もし、次演ることができるようなら必ず声をかけるから」
「わーい、ホントですか? 楽しみにしてます」
落ちていた紙切れに電話番号を書いた彼女達は嬉しそうに笑った。
「それじゃあ」
「どうもありがとう」
後ろ姿を見ているとまた声をかけられた。
「地方のバンドでも出れますかー?」
野宿した奇妙な3人が立っていた。
「発電機、ありがとう」
「いえいえそんなー、ところで地方のバンドでも出れますかー?」
「ええ、当然。でも足代は出せないけれど、それでも良ければ」
彼はニカっと笑い
「そんなんいいですー。じゃ、次やるときお願いしますー。これ連絡先ですー」
と名刺を渡した。見ると住所は関西。
「今日はこれから?」
「バスで帰りますー。もうチケット買ってあるから。それじゃ、お疲れ様でしたー」
3人は手を降るやいなやアッという間に歩き出していった。

片付けは歩行者天国が解除する数分前に終わった。彼女達ばかりか、バンドと「やったるでぇ」の一団、何人かの客までもが手伝ってくれた。そればかりか地面に落ちているゴミ、吸いがらまで拾い集め、終わった途端、
「お疲れー」
と言い残し去っていってしまった。
バンド達には後日、収支決算書を郵送する事を伝えた。彼等は各々
「楽しかった」
「気持ちよかった」
「でも、音がやっぱ悪いよな」
「でもいいじゃん」
などと言いながら帰っていった。

車が入ってくるまでの間、エイコ達は歩道にしゃがみ込んでいた。
エイコは皆を見回して口を開いた。
「色々あったわよね、予期しない事」
「ありすぎてビックリしたわよ。痴漢騒ぎ」
「よく痴漢てわかったわね。カズミも私もすぐにわからなかった」
「そりゃ、エイコみたいにリンとしてりゃ経験は少ないと思うけど、私なんか舐められてるせいか……」
ミクは凄い剣幕で喋り始めた。
「許せないのよ、そういう奴等」
「オレも久し振りだぜ、あんなとこ蹴られたの。ガキの頃以来だよな」
「警察はなんだったんだろう?」
カナエに聞かれ、エイコは
「よく分からない。何のために来たのか、どうしようと思って来たのか」
「断定は出来ないけど、多分平気でしょう。今日みたいにやれば。それとこちらから問題を起こさなければ」
室中は少し疲れた顔で言った。
「とにかく、人が集まっちゃえばいいんだよな。そうすりゃ何も言えないって」
沢口は室中の肩をポンポンと叩きながら笑った。
「あとは、何か問題はあった?」
エイコは皆を見回した。
「アイツらには感謝しなくちゃな」
「そうですね。沢口よりもよく働いてくれました」
「なんだってー?」
今度は頭をこずいて笑っている。
「そうね、びっくりしたわ」
カナエもミクも「やったるでぇ」の一団の思いがけない行動に驚いていた。
「とにかく、今日は合格したってわけね」
カズミが言うと皆、一様に頷いた。

「さて」
エイコは切り出した。
「どうしようか?」
「これからの事よね?」
とカズミ。
「やるしかないんじゃない? こうなったら」
とカナエ。
「すごーい、面白かった。またやろう」
とミク。
「もう二度とイヤだぜ。蹴飛ばされるのはよ」
と沢口。
室中はニコニコ笑っている。
「じゃ、決まりね、どうエイコ?」




>>>>next 


return<<<