エイコ

chapter 20


万全の体制を敷いたはずだ。皆がそれぞれの役割を遂行すれば問題はないはず。セッティング前の最終ミーティングでもそれは確認した。しかしエイコには二つの心配事があった。一つはやはりあの電話。「何が起こるか楽しみだなぁ」と言ったあの電話。本当に来る事はないとは思ってはいる。でも客のあの感じだったら、たとえゲス野郎がやって来ても何もできないだろうと思う。きっと遠くから見て諦めて帰っていくだろうと。仮に何かやったとしたら、即フクロだろう。スゴスゴと帰らせるよりはそっちの方がマシかもしれないと思う。いい薬になるから。そうだ、かえってそうなった方が面白いかも知れない。
もう一つは音だ。私達の音は一体何処まで届いているのだろう? その事で誰か迷惑を被ったと思われてはまずい。ローラーや竹の子達との無益なトラブルは避けたい。それから、騒音にかこつけてやってくるかもしれない警察だ。まず99パーセントあり得ないと思うのだが、万が一という事もある。何か言われたら、それなりに答えるか白ばっくれる為には周りの様子が分かっていた方が有利だろう。
セッティング前に行った最終ミーティングでその事を皆に話し、始まったら見回ってくる。多分30分くらいかかるだろうけど、その間上手くやっていて欲しい。と伝えた。

原宿駅に向かって歩き出した。20メートルほど離れる。良く聞こえる。50メートル、100メートル。段々ローラーや竹の子達のラジカセが大きくなってくる。200メートル付近、ラジカセの音がほとんどだ。彼等は向こうで何をやってるかを気にする風でもなく踊っている。すぐ側まで行き、しばらく彼等を眺めていた。そういえば彼等もディスコに入れなくて原宿で踊っている、と言ってたっけ。ニュースだったかな? とにかくテレビでだ。私達と同じだ。自分達で自分達の場所を確保したのだろう。踊りの輪の中で一人の女の子の顔が目に留まった。エイコよりずっと若い。中学生くらいか? 何とも言えず楽しそうな表情をしている。
「あれはテレビだったっけ? 雑誌だったっけ?」
忘れていた景色を思い出した。
「どこの国だったんだろう?」
それは地下鉄のホームや公園、デパートの前、街中あちらこちらでの風景だったように思う。そこには乗客がいて、散歩する人がいて、買い物をする人がいて、日常をいつも通りに送る人がいる。ギターを弾き、唄い、パントマイムをし、詩を読み、ダンスをして、そんな人達がその日常の中で当たり前の存在として自分を表現している。彼等の前を素通りする人もいれば、足を止めて見入る人もいる。その一瞬を、色々な人が色々な思いで色々な人生をその場その場で共有しているように思えた、そんな景色だった。今、目に映っているこの光景はまさにそれだ、と思った時、何となく呟いていた。
「ここは、奪ったり、奪われたりしちゃいけない場所だ。誰のものでもなく、誰のものでもある場所だ」

山手線に沿うように右に折れる。右手に体育館を見ながら早足で歩く。ここはまるで静かだ。車の音と電車の音だけ。信号をまた右に折れ真っ直ぐ、ただ真っ直ぐ。雑踏の中、縫うように歩く。典型的な渋谷の休日。何かを感じたくても何も感じられない。唐突に叫びたくなる。
「ほら、見においでよ。ほら、見においでってば。あなたの胸に一杯撃ち込んであげるから。損はさせないわよ」
ああ、私は何を言いたいんだろう? 言いたい事は山ほどあるのに言葉が何一つ見つからない。早く戻ろう、早く、速く。
公会堂、税務署を通り過ぎる。右に曲がりNHKに向かう。バスには人が一杯、重そうに走っている。あのスポーツカーの中では耳触りのいい軽音楽がかかっているんだろう。品の良さそうなおぼっちゃま、おじょうさまカップルだ。また叫びたくなる。
「ほら、見においでよ。ほら、見においでってば」
一体どうしたのだろう私は。スピードが速くなっていく、頭の中で。真っ直ぐ、真っ直ぐ、真っ直ぐ歩く。銃弾が私を先導している。日頃感じている脇腹の辺りの不満とも不安とも苛立ちともわからない、あの澱んだ糊のようなものが薄く剥がれ落ちていく気がする。怖いものはない。私は今、最高に、最高にステキだ。
我に返った。正面にあの十字路が見える。風に乗って微かに私達の音が聞こえる気がする。でもすぐに車の音にかき消されてしまう。悲しいようなほっとしたような気分だ。交番の前を通る。横目でチラリと中を盗み見る。数人の警官がくつろいでいる。「お巡りさんものんびりと〜」鼻歌でも歌いたい気分だ。何の問題も起きてないみたいだ。右手の坂を上がる。ゆっくりと、確実に一歩一歩。聞こえてきた。乱雑な音。安っぽいアンプの音。ヘタクソな荒っぽい音。私達の音。

「なにかトラブルはあった?」
「いや、何も。順調、順調。もうじき2つ目が終わるところ。それよりどうだった?」
カズミが心配そうにエイコの顔を覗き込んだ。
「ん、大丈夫。原宿側も向こう側も。ほとんど音は聞こえなかった」
「それは良かった、ほら見て、あんなに一杯」
「うわ、いつの間に?」
観客は見回りに行く前の倍にふくれあがっていた。チラシの効果なのか口コミなのか、それとわかる連中が圧倒的なのだが、散歩途中のカップルや子連れも多く見える。最前列には小学校低学年の兄弟らしき二人が耳を押さえて踊っている。後ろには心配そうな父親、横では手拍子を叩いている母親らしき家族連れ。また、エイコ達の親の世代の人達も結構いる。眉をしかめて観ている人も多いけれど。日本人だけではなく、アラブ系の男達は体全体で踊っている。ヨーロッパ系からアフリカ系までゴチャゴチャだ。
「いったいどこから湧いて出てきたんだ?」
沢口が唖然として言った。
「これがきっとノーマルなのよ」
とカズミ。
老若男女相乱れての万国博覧会だ。エイコはさっきのバスに乗り込んでここまで乗客を連れて来たい衝動にかられた。自分の役割も忘れて見入っていた。




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