エイコ
chapter 17
部屋にたどり着いた時はもう暗くなっていた。カズミは製本作業があるからと、一服だけして帰った。電話が鳴り出す九時までに風呂に行って来よう、そう言えば今日は何も食べてないな、何か食べなきゃ、そう思うのだが体が動かない。とりあえず、とりあえず外に出よう。風呂道具の入った布のバックを流しの下から取り出し、横目で冷蔵庫の横にいるあいつに話しかけた。
「アンタのおかげで体中ボロボロ。だから明日お願いね」
風呂上がり。空は雲はなく、一つ二つ星が見える。明日は大丈夫そうだ。そう思うとブルっと体が震えた。いよいよ明日だ。2ヶ月、わずか2ヶ月、長い2ヶ月。ちゃんと作戦を練ったはずだ。漏れは無いはず。なのに今日はしくじった。でもいいや。苦労したのは私だけ、いや、カズミと私だけ。あとはそれぞれがちゃんとやるはずだ。ミクと室中は朝からウチに来て奴を連れていく。その後レンタカーでスタジオに行って機材を借りる。確か軽のワゴンって言ってたっけ。ギターアンプ2台、ベースアンプ、ドラムセット。8チャンネルのPA、そのスピーカー2台。マイク、マイクスタンド、マイクシールド。そしてあいつ。乗れないかもしれない。そしたら電車だな。カズミとカナエ、沢口は現地集合。バンドは時間通り来るかしら? 結構ルーズだからな。でも新宿ミーティングはみんな時間通りに来たっけ。平気だよね。自然に笑みがこぼれてくる。昼間の労働疲れは消し飛んだみたい。
「明日、予定通りですかー?」
布バッグとコンビニの袋を抱えてドアの鍵を差し込んだ時、電話が鳴っていた。
「ええ。天気も良さそうだし、大丈夫だと思いますよ」
靴を脱ぐのももどかしく部屋に飛び込み受話器を上げた。
「七つ出るんですよね? 順番、教えてもらえますか?」
壁に貼ってあるチラシを見ながら答える。
「えーと、1番目は、2番目、3番は」
「ありがとう、がんばってください」
「はーい」
数分おきにかかってくる。
「明日なんだけどー」
「明日は何時からー?」
「このバンドは何番目ですか?」
たまにはこんなのも。
「大阪の、知ってる? あいつ見に来るんだって?」
知らないって、そんなの。出演するバンドは知ってても、見に来る客の事なんて知らないわよ。
そしてまた、
「ウチの出番、何時頃だっけ?」
オイオイちょっと待ってよ、明日だよ明日。またチラシを見ながら答える。普段ならイライラするような電話でも今日は楽しい。口笛でも吹きたくなる気分だ。30本程の問い合わせの後、やっと落ちついた。そうだ、ミクに電話してみよう。
「ごめんねー、ずーっと出かけてたから」
昼間の事を話すとミクは電話口で大笑いした。
「明日、何時頃来る?」
「レンタカーは九時に借りるって行ってたから、十時くらいかな」
「それから、スタジオだよね」
「うん、そう。スタジオには11時って予約してあるから」
平日でも休日でも渋滞は読み切れない。エイコの部屋とスタジオ、そして現場の間を各々1時間ずつみている、と言った。そうだ、忘れていた事があった。
「あのさ、明日、買っといて欲しいものがあるんだ」
「なあに?」
「ガソリン入れるポリタンク。ほら、石油ストーブの時に使うプラスチックの。発電機の予備用、忘れてた」
「どこに売ってるのかな」
「ガソリンスタンドで売ってるんじゃないかな?」
「わかった。ワゴンに給油する時、聞いてみる」
「ごめん。うっかりしてた。あっ、それにもガソリン入れといてね」
「オッケイ。あと何か忘れてる事はない? 大丈夫?」
「多分平気だと思う」
「じゃ、明日ね」
「それじゃ。ああそうだ、明日の朝、レンタカー借りるとき電話くれない?」
「それってモーニングコール?」
「そっ。モーニングコール」
コーヒーを飲もうと台所に立った。やかんに水を入れ火にかける。あいつが視界に入った。ふともう一度持ち上げてみたくなる。腹にグッと力を入れ腰を落とし、「ウッ」
浮いた。2、3歩ヨロヨロとしてゆっくり床に置く。傍らにしゃがみ込んで赤いガソリンタンクを撫でてみた。
時計を見ると12時少し前。もう問い合わせの時間は過ぎているのに、と思いながら、まあ今日はいいや、と受話器を上げた。
「明日、楽しみだなぁ」
ドスを効かせた男の声。
「何が起こるか楽しみだなぁ」
この声はいつかの酔っぱらい野郎。いきなりブルーにさせてくれる奴だ。クソッタレ。
「そうね、きっとステキなライブになるわ。あんた達みたいなのが出ないものね」
「なんだぁ?」
今日もまた酔っ払ってる。呂律が回っていない。
「イイ気になるんじゃねえぞ」
「あら、とってもいい気分よ。もう最高! どうぞ、明日は楽しみになさっててくださいね。ヨロシク」
「おい、ちょっと待て! 待ちやがれ!」
受話器を置いた。この前抱いた不安はもう無い。こんなバカ何人来たって怖くはない。
「だって、ね? あいつを運んできたんだよ、この手で」
そう思える自分が嬉しかった。
布団の上に転がって、湧き上がってくる興奮に耐えながら雑誌をペラペラとめくっていた。
「はい、もしもし?」
「あのー、まだ誰も来ないんですけど」
「はい?」
午前1時半、一体なんなんだこいつは?
「はい?」
「あのー、1時からじゃないんですか? 始まるの」
「もしもし、今日のライブの事ですか?」
「ええ、かれこれ1時間ほど待ってるんですけど」
電話の声はとても不安気だ。
「真っ暗なんですけど」
そりゃそうだ、真夜中だもの。
「あのね、もしもし、昼の1時。今日のお昼の1時からなの。アナタ、お客さん?」
「ええ、見に来たんですよー、そーか、昼の1時か」
声はますます落胆していく。
「いやー、すみません。パンクのフリーコンサート、原宿歩行者天国、1時から。こりゃ面白いや。きっと夜中だなって勝手に思っちゃって」
別段パンクだけのライブではないのだけれどと言おうとしたが、電話の後ろで「どーしよーか?」と声が聞こえた。
「あらら、で、これからどうするの?」
「いや、まあ。この辺でビバークしますわ。イナカから見に来たんで。どっちみち泊まるところないし」
「大丈夫?」
「平気、平気。心配ご無用です。じゃ、明日、いや今日か、楽しみにしてます」
「気を付けてね」
「ありがと」
窓を開けると、空気はさっきより一段と冷えていた。野宿するなんて本当に大丈夫だろうか? 笑えてきた。心配しながらも笑えてきた。幸せな気分をもらったみたいだ。
「見たか、酔っ払い。聞いたか、ゲス野郎」
思いっきり叫びたくなった。今、星が一つ増えた気がした。