エイコ

chapter 16


しまった。ほんとに重い。ひとりで平気だなんて言わなきゃよかったと、後悔してももう遅い。たまにすれ違う人達は何事かと道を開ける。ほじくり返したり埋め直したりした凸凹の歩道がゴダゴダゴダと音をたてる。真横を走る環状道路では休日前のノルマをこなそうとしているダンプやトラック、商用車とレジャーを楽しみに行くワゴン車や乗用車で駐車場になっている。一向に進まずに車内で時間を持て余しているドライバーや同乗者達も怪訝そうな顔して見ている。よしんばタクシーに乗ったとしてもこれじゃあ最寄りの駅に着くまで何時間かかるか分からない。これを運ぶための予算なんて考えていなかったし手持ちのカネも無い。
「休もう」
呆れているあの親父の顔をエイコは思い返した。
「来る時20分はかかったから」
腰を伸ばしてタバコに火を付ける。
「この調子だと、1時間はかかる」
南北リース。エイコの住んでいる次の駅から歩いて20分。環状道路をただひたすら南に歩く。電話帳で見つけた建設機械のリース会社の看板は排ガスで黒ずんでいたが、見落とす事は不可能と言うぐらいに立派にそびえ立っていた。道路沿いの敷地にはパワーショベルやらリフトカーが整然と止まっている。オイルと鉄錆のにおいが鼻を通り過ぎる。
同じ区内なのにこの辺に足を踏み入れたのは初めてだった。夏になるとこの環状道路に寄り添うように細長い雲が出来るのです、それは慢性的な渋滞で噴出される排ガスが原因なのです。とニュースで言っていた。駅からここまで来る間に目に付いたものは外車のディーラー、ガソリンスタンド、ファミリーレストラン。それに防音壁としか考えられない人気の無い高層マンション。どれもこれもが煤けて見える。街路樹の緑もアパートの回りで見る透明感はない。車道は生きている感じがするのに、街並みは絶望しているように思える。まるでレコードジャケットみたいだ、少し楽しくなった。
辺りを見回しても誰もいない。
「すみませーん」
答えがない。ブルドーザーがオメエハダレダと言っている。コンクリート打ちした地面に茶色の水たまりがある。隅には2メートル四方の青い機械が数台二段積みにして並べてある。腹にはgeneratorと白い文字。
「まさか?」
奥にプレハブが見える。小さく事務所と書いた紙が貼り付けてある。あまり間近で見る事の無い機械をゆっくり眺めながら入り口に近づき一呼吸おいてドアを開ける。
「ごめんくださいー」
「うわっ!」
お茶を飲んでいた親父が振り向くなり驚いた。
「あのー、発電機を予約した……」
「ああ、あああ?」
「一昨日電話した……」
「ああ、ああ……」
親父は机の上の台帳をめくり始めた。2日前の日付けの入ったページを見つけエイコの顔とを交互に見ながら
「ねえちゃんかい、うーんと、あそこにあるやつだけど」
「ええ」
指さされた方を見ると、外にあったのよりははるかに小さい発電機があった。見た目はそんなには重くなさそうだ。
「なんに使うんだい?」
「外でコンサートするんです。で、ギターアンプとか使うんで」
「へぇー。こんなのでねえ。まあ、千ワットだから平気かぁ。んで、使い方、分かるけ? 一応教えとこうか?」
「あ、はい」
さっきからワクワクしている。何が起きるのか楽しみで仕方がない。思わず口元がゆるむ。嬉しそうなエイコの顔をチラっと見た親父は不思議そうな顔をして
「ここにガソリンを入れる。スタンドで売っているのでいいから。それでチョークを引く、と」
一つ一つゆっくりと噛んで含めるように
「そいでえ、このワイヤーを思いっきし、引く!」
ガガガバババガガガバババガガガバババ、突然そいつは目覚めた。親父はその音に負けじと声を張り上げ
「ほんで、このスイッチを入れる。これで」
エンジン音が小屋の中一杯で親父の声が上手く聞こえない。
「これで?」
「これで準備完了! コンセントはここ! ここから電気は取れる! 止める時はこれ!」
別のスイッチを押すとエンジンはコロコロといって止まった。排ガスで部屋の中はくすんでしまった。
「失敗したなぁ、外でやりゃあよかった」
親父は窓を開けながら口をタオルでぬぐった。
「分かったけ?」
「はい」
「んじゃ、ガソリン抜いとくからよ」
ニコニコしているエイコに「じゃ、こっちで」とうながした。
親父は電卓を叩きながら
「んで、月曜日に戻すんだよな? てことは明日は休みでカウントしねえから、一泊二日」
「領収書、お願いします」
「宛名は?」
「ロードサイド・スナイパー」
「あん?」
「全部カタカナで、ロードサイド・スナイパー」
親父は一音一音区切りながら口に出して
「ロードサイド・スナイパーっと。はい。ありがと」
「それじゃ、よろしくお願いします」
立ち上がろうとした時、
「姉ちゃん、一人で来たんか?」
「ええ」
「車でか?」
「いいえ、電車で」
親父は呆れた声で
「ええ? 重いで、すんごく」
「平気ですよ、きっと」
発電機に近づき持ち上げてみた。持ち上がらない、全然無理だ。
「な、無理だ? 一人で来るとはなぁ。俺だってようやんねえよ。ちょっと待ってな」
親父は奥から台車を出してきた。板に滑車を付けただけのものだったが
「無いよりゃましだ」
そう言うと発電機をその上に乗せてくれた。
「これに乗せて押してきゃぁいいだ。戻す時一緒に返してくれりゃあいい」
「どうも、すみません」
「じゃあ、気い付けてな」
「はいー」
事務所から門まで親父が発電機を押してくれた。
「ねえちゃんの頭、いい色だな。最初はびっくりしたけど。それにその面構え、女にしとくの勿体ねえな。普通こんな所、嫌がるんじゃねえか?」
誉めてるのかけなしてるのかわからなかったが、ともかくお礼を言って門を出た。

チリンチリン。背後の音に気付き振り返る。自転車に乗ったおばさんが迷惑顔で睨んでる。滑車が歩道の凹みに入って上手く方向転換が出来ない。やっとの事で隅に動かすと、ツンとして行ってしまった。ちょっとでも進むのを止めると動き出すのに骨が折れる。ゆっくりでも止めないようにしなくては、と思った瞬間、今度は前からだ。高校生風の二人乗りが来る。「ヒュウ」と口笛を吹いて冷やかす。運び始めた時は勢いがあった。滑車の立てる音が歩道にいる人を驚かせていたのだが、疲れてくると完全な邪魔者だ。それにしても、幅2メートルほどの歩道をよくまあこんなに自転車が通るものだと思う。それも大半が我が物顔だ。行く手を塞ぐものは排除する、という勢いで突っ込んでくる。少しでもモタモタしているとベルの集中砲火だ。チリンチリン、チリンチリン、チリンチリン、チリンチリン。見りゃわかるだろ? すぐにはどかせれないんだから。追い越して行く時に「どうも」と言うのはほんの一握り。子供を先導している親ですら、歩行者は退くのが当然のようにして乗っている。その後に続く子供はまるで親のミニチュアだ。信号に捕まり否応なしに止められたエイコのかたわらを、今度はヘルメットをかぶった競技用自転車に乗った男が交差点に飛び出していった。キキーッ。ブレーキの音がした。車がクラクションを鳴らす。自転車の男は一瞬止まったかと思うと全速で道路を渡りきった。車の運転手は真っ青な顔をしている。後続の車がまたクラクションを鳴らす。我に返った運転手はあわてて発進させた。
ノロノロとしか前に進めないエイコの目には今の出来事がばかばかしく思えた。そんなに急いだってしょうがないじゃないの、と。なんでそんなにギスギスしてるの? 憎悪の眼差しで車を見ている隣のおばさんの自転車が心なしか寂しそうな気がした。
駅に着いて途方に暮れた。階段があるのを忘れていた。今まで歩道橋を渡らずに来れたのが運が良かっただけだった。Tシャツの袖をまくり上げ台車の端に両手を差し込み持ち上げようと試みた。しかしどうがんばってみても無理だ。発電機を受け取ってから既に1時間以上凸凹の道をゴダゴダゴダと押して来たのだ。余力なんてあるわけがない。券売機の横にある自販機で飲物を買い、地べたに座り込む。腕が痛い、腰が痛い。唐突にあの親父の顔が浮かぶ。「女にしとくの勿体ねえな」「すみませんねえ、私はやっぱり女よ」と忌々しげに呟く。
土曜日の午後、閑散とした駅前。発電機の横で緑の髪から透明な汗をポタポタと滴らせている奇妙なイキモノ。そんなイキモノに手を貸そうなんていう殊勝な奴は、周りを見回したって居そうにない。
「電話しよう」
もうスタッフじゃなくたっていい、知り合いに片っ端から電話してやる、そうだ、電話帳、電話帳は? 尻のポケットから豹柄の表紙のメモ帳を取り出す。頁をめくる。エイコは落胆した。知り合いが少ない、スタッフしか居ない。死にそうになりながら公衆電話を探した。

「トモダチ?」
「そう、トモダチ」
「なんで、タクシー拾わないの?」
「そんなお金無いもの」
「ココまで、一人で?」
「うん。ガラゴロって」
「で、ここから二人で?」
「そ。二人で」
「………」
結局つかまえれたのはカズミだけだった。明日、手売りするためのミニコミをホッチキスで製本している最中だった。エイコが死にそうな声で電話してくるなんて初めてだ。母親に呼ばれて電話に出た途端、
「ああ、いた。よかった、助けて、すぐ来て。場所は……」
「どうしたの?」
「お願い、早く、もうダメ……」
あわてて駆けつけると、券売機の前の広場で、タバコをくわえたエイコが地べたにしゃがんでいるのが見えた。
「見た目よりずっと重たいんだ」
電話を切ったところで生き返った、とエイコは言った。
なんとか改札を通過、階段をクリアし電車に運び込んだ。
「これって、危険物かしら?」
「なんで?」
「だって、エンジンなんでしょ? ガソリン」
「ああ、でも借り出すとき全部抜いたから」
「タクシー代、予算に入れとけば良かったね」
「平気だと思ったんだけどね、甘かった」
「明日はレンタカーだよね」
「そ。機材借りにいくついでに」
「良かったね」
「うん」
「で、これ返す時は? 機材もレンタカーも明日だけだよ」
「あ……」
「?」
「考えてない……」
「私月曜はダメだよ」
「トモダチ?」
「月曜はトモダチとちがう」
「ケチ」




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